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マルコによる福音書連続講解説教

2022.7.3.聖霊降臨節第5主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書12章18-27節『 神の力 』

菅原 力牧師

 サドカイ派の人たちが主イエスのもとにやってきました。主イエスがエルサレム入りしてから、祭司長、律法学者、長老、ファリサイ派、ヘロデ派、と次々に主イエスのもとに人々はやってきました。その人々は、主イエスを攻撃し、何らかの下心をもってやってきて、主イエスを取り囲み、詰問するようにして問いかけてきました。

 サドカイ派というのは、ファリサイ派と並ぶユダヤの宗教的、政治的なグループの一つで、ユダヤ社会の上層階級で、祭司が多かったとも言われているグループです。この人たちは、復活の信仰を否定しており、天使の存在だとか、霊魂の不滅と言ったことも否定した、いわゆる現世主義者でした。

 一方でファリサイ派は復活はあると信じていたグループで、つまりユダヤ教の中でも復活を巡っては意見が分かれていたのです。

 

 そのサドカイ派が主イエスに復活に関わる議論を吹っかけてきた。それは一人の女性が夫と死別したので、当時のしきたりレビレート婚により、兄弟と結婚した。ところが夫になった兄弟も次々に死に、結局この女性は最初の夫の七人いた兄弟すべてと結婚し、すべてと死別した。復活というものがあるとして、その復活の際には、この女性は誰の妻ということになるのか、という質問です。これはふざけた質問とだけは言えない。実際ユダヤではこういうケースがあったかもしれない。家族にとっては結構切実な話だったかもしれない。

 例えば、こういう質問を以前私にしてこられた方がいました。わたしの夫はもう地上の生涯を終えて、ずいぶん経ちます。もしいまわたしが死んだら、夫はわたしのことがわかるのでしょうか。わたしはわかります、夫のことが、顔も姿も覚えています。しかし夫はこんなおばあちゃんになったわたしのことなど知りません。「わたしよ、わたしよ」と言っても「わたしの妻はこんなおばあちゃんじゃない」と言われるかもしれません。天国では私はいったい幾つなのでしょうか。まじめな面持ちで訪ねてこられました。

 サドカイ派の人々の質問は、主イエスを攻撃するためのものだったかもしれませんが、それだけではない、主イエスに復活はあるのか、ということを尋ねてみたかったのではないか、とも思うのです。

 すると主イエスはこう語られました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」驚くべき言葉です。なぜなら彼らサドカイ派は、ファリサイ派と並ぶ宗教的なグループです。その彼らに向かって、聖書を知らない、神の力も知らない、と言ったのですから。

 聖書を彼らが知らないはずがない。ほかの誰よりもよく知っている。確かに聖書はよく読んでいるのかもしれない。知識も豊富。だが、その聖書において、生きて働く神の力を受けとっていないのなら、聖書を知らない、ということなのだ。いや、もっと主イエスの言葉は踏み込んでいて、あなたたちは神の力というものを全く受け損なっている、そう言われているのです。

 この主イエスの言葉は、わたしたちの胸にも強く響きます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」聖書を知っているのか、神の力を知っているのか、とキリストから問いかけられているのです。

 わたしたちは普段親しくつき合っている人であっても、その人の芯の力を知る、ということはなかなかない簡単ではない。学力とか体力が、しばしば数字で表されるように、その人の持っている力として、受けとめられるのならともかく、その人の人としての力を知るというのは、それほど容易なことではない。

 いわんや神の力を知る、という場合、わたしたちは、自分が求めている神の力、を神の力と思い込みやすい。つまり人間の願望をどれだけ叶えてくれるのか、というような人間本位な勝手な基準ではなく、神ご自身が示された、神のお力を知るということが大事なのです。

 神はご自分の力をどこで表そうとされてこられたのか、もちろんわたしたちはそのすべてを知るというようなことは在り得ないことですし、またその必要もない。神がわたしたちにお示しになっている力は、御子をこの世界にお与えになって、神の独り子が、僕となり、その独り子を十字架にかけて、死に至らしめた、ということです。ここに神の力がそそがれ、働いている。それは人間の罪を担う、ということと共に、御子イエス・キリストを復活させ給う、ということによって、人間にとっての死からの救済、という力をそこで示されたのです。人間にとっての最大かつ究極の問題、罪と死の事柄に神が全力を注がれた。

 御子イエス・キリストが罪の罰としての死を死に、その御子を神が復活させ給うた、ということは、人間が罪にも、死にももはや拘束されているのではない、神は罪をも、死をも滅ぼす方なのだ、ということです。

 確かにわたしたちは今も、罪を犯し、罪の中にいる。わたしは必ず死ぬのです。しかし、それはもはや絶対的な支配ではないのです。神は罪も死も、担い、負って打ち破ってくださった。

 神の力はそこにおいてこそ発揮され、注がれ、まさに全力で働いてくださった。「あなたたちは聖書も神の力も知らない」とキリストが言われるとき、わたしたちは何よりもまず、罪と死において勝利する神の力というものを知らなければならない。それ以外のあれこれを知ったとしても、この力を知らなければ、神の力を見誤る。

 確かにこの時サドカイ派はまだイエス・キリストの十字架も復活も知らない。弟子たちもまだ誰も知らない。だからこれは主イエスの将来の向けて言葉、十字架と復活において、聖書の力、神の力を本当に受けとめてほしい、という主の願いの言葉でもあります。

 神の力は生きて働く。しかしその働き方は、わたしたちの考える形や、わたしたちの捉え方からも全く自由です。神はわたしたちを超えて自由に働かれる。

 復活の時その女性は誰の妻になるのか、というサドカイ派の質問は、思い違いだと言われ、「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたのか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」と主は言われました。

 復活の時誰の妻か、という議論自体、ただいま現在の地上の生活をそのまま死後に当てはめようとしている、つまりそれは、神の力の大きさ、図りがたさ、豊かさというものを知らずに、ただ自分の考えの延長線上で神をとらえようとしているに過ぎない全く思い違いの話だ、というのです。

 神は生きているものの神だ、とキリストは言われます。ところがその直前では神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だと言われる。これはかつてアブラハムの神であったことがある、という意味ではありません。昔々イサクの神だった時代もある。だが今は、今この地上の生を生きているものの神なのだ、という意味では全くありません。

 そうではなく、神の前ではすべてのものは生きている、神はすべてのものを活かす神だ、と言っておられるのです。地上の生涯を終えたアブラハムも、神の前ではわたしたちの全く知らない形で、生き活かされており、神は今もアブラハムの神なのだ、と言っておられるのです。

 頭が混乱してきた人がいるかもしれません。わたしたちはこの世界で、生きている者と死んでいる者とを分けて考え、地上の生涯を終えたものを死者と呼び、どこにいるのか、わからないなりに天国とか呼んでいる場所、そこにいるのではないか、とある人々は思っている。でもそこで地上の生涯を終えた人はどうなっているのかは全く分からない、そう思っている。

 死者が仮に90歳で天に召されたとして、その人は天国で90歳なのか、わたしたちは知らない。誰も知らない。

 しかしここでキリストが言われているのは、神は生きているものの神だ、ということです。それは神は死者とは関係ない神だ、地上で生きている間だけの神だ、ということではありません。そうではなくて、神の前ではすべてが生きている、ということを語っているのです。この地上で生きているものも、地上の生を終えて旅立ったものも、すべて神の前では生き、活かされる。その場合、その生きているさま、姿がこの地上の時と同じなのかどうか、誰もわからない。幾つなのか、そもそも年齢などというものがあるのか、わからない。天使のようになるのだ、ということの意味は、地上にはない者になる、ということでしょう。つまり、地上での経験や知識を超えた領域だということです。当たり前と言えば当たり前。

 だがもっと大事なこと、それは神は人間の罪を負い、人間の死にも勝利された方で、死の束縛の中にない方。それはわたしたちが普通に神は死なない、というようなことではなく、神は死をもその支配下に置いておられるということです。そこに神の力が溢れ出ているということです。

 神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である、ということは、アブラハムの神であり続けてくださるということです。地上の生涯を終えて、神とアブラハムの関係はなくなるのではない。アブラハムの神であり続けてくださるのです。その一人一人をわたしたちの与り知らぬ形で活かし、生けるものとしてくださっている。その生は地上の生から推し量るものではなく、わたしたちの想像の枠に収まるようなものでもなく、ましてや、地上での関係をそのままに持ち込むようなものではない。しかしアブラハムの神であり続けてくださる。死をも支配下に置き、生も死もつかさどる方である神のもとで、アブラハムは生き活かされる。わたしたちが送った愛する者たち一人一人もそうなのです。神の前で生き活かされているのです。わたしたちはそのことを信じるのです。その神の力を信じるのです。それが聖書と出会うということなのです。神の力の中にある自分を知り、受けとめ、感謝して歩んでいきましょう。