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マルコによる福音書連続講解説教

2022.7.10.聖霊降臨節第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書12章28-34節『 一番大事なことは何か 』

菅原 力牧師

 エルサレムでの主イエスと、ユダヤの宗教指導者との論争、攻撃が続いていました。その一連の論議を聞いて、主イエスのことをあらためて評価した人もいました。今日の聖書箇所に出てくる律法学者はそのような人でした。彼は、主イエスの受け答えを聞いて、その言葉の力に驚かされてきたのです。彼は主イエスに対してこう質問しました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

 彼は律法の専門家、常日頃律法を研究している学者でした。その彼が尋ねてきたのです。これは下心や、言葉尻をとらえようとする人々からの質問とは違う。第一というのは、一番二番三番の一番のことではない。たくさんある掟の要となるものは何ですか、という意味の第一です。律法の条文は山のようにある。その全部が均等に重要なのではなく、要となる掟があるのではないか、それは何なのでしょうか、という問いです。さらにこの質問の意味を踏み込んで考えていくと、一人の人間として、生きるということは、何をしていくことなのですか。生きるとは何をするためのものなのですか、という問いです。仕事だとか、人生での役割、以前に、そもそも人として命を受けた、それは何をするためなのですか、という問いです。きわめて深い質問です。

 それに対して主イエスの答えは、とても興味深いものでした。

 その答えは、「第一の掟は、これである。」と語って、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい。」と言われた。ところがそれで終わりなのではなく、「第二の掟は、これである。」と言われて、『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟は他にない。」と語られたのです。

 第一の掟は何か、要となる掟は何ですか、と聞かれて、二つの掟を語られた、これはどういうことなのか。ただたんに二つとも大事で、一つに絞り込むことができない、というようなことではありません。

 第一は第一なのです。われらの神、唯一の主を、心、精神、思い、力をつくして、愛する、全身全霊をかけて愛する、これが第一なのです。

 だがここで言われる第二は、たんなる二番目ではない。第一と不即不離、第一を生きることが第二に向かわせ、第二を生きることが第一に向かわせるというような関係で、深く繋がりあっている、そういう第一と第二なのです。

 しかし、ここでわたしたちは先を急がないで、この主のみ言葉の前で立ち止まって思い巡らしたいと思うのです。律法学者は人生の根本にかかわる質問をしました。それは人が生きるということは何をして生きることなのか、という問いでした。イエス・キリストは、それは「愛」だと答えられた。それはわかるようでわからないことなのではないか。そもそも私たちは掟社会には暮らしていないので、道徳とか社会的な慣習ということであればともかく、愛するということを掟として捉えるということに戸惑うのです。愛は掟ではなく、もっと自由なものだ、と受けとめているからです。仮に愛が掟だとして、ここでキリスト言われるような愛は、自分にとって縁遠い。そもそも神を全力で愛する、という習慣がない。心、精神、思い、力を出し尽くして、神を愛する、ということがどういうことなのか、想像もつかないし、想像もしていない。神というのはわたしにとって願い事をする対象であり、守り導いてほしい方であり、感謝の対象ではあっても、神を全力で愛するというようなことなど、ほとんどしていない。具体的に一週間の生活のうちで、いつどのようにどうやって神を愛そうとしたか、恥ずかしいほど具体的に出てこない。

 さらには、主が言われたもう一つのこと。「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、わたしたちの胸に突き刺さってくる。この言葉の前でうなだれる自分がいるから。この言葉を聞くことで、自分の貧しさを自覚せざるを得ないから。

 主イエスが律法学者に語られた言葉は、生きるということは、愛することであり、それは神を全力で愛すること、隣人を自分のように愛すること、というのなら、わたしたちは立ち往生してしまう。まともにこの主イエスの言葉を聞いてきたとはとても思えない。

 この第二の掟は、自己愛と、隣人愛の両方が語られている、と読むことができます。つまり自分を愛する、ということと、隣人を愛するということとが二つながらに語られている、ということです。すると、自分もちゃんと愛せていない自分が、隣人を自分のように愛することなど、とてもとても、と思う人がいるかもしれません。いや、そもそも自分を愛するとはどういうことなのか。自分を肯定することか、甘やかすことか、かばうことか、自分を受容することか、どうしたら愛することになるのか、わかっているとはなかなか言えない。

 いずれにせよ、神を全力で愛することが叶わない自分がいて、隣人を自分のように愛せない自分がいて、ここでの主イエスのみ言葉は、自分から遠い、感じ、受けとめている人もいるでしょう。愛において貧しい自分がいる。けれどそれはよく考えてみると形容矛盾で、愛が貧しいということは愛ではない、ということです。愛そうと懸命にしたが力及ばず、というのではなく、どこか適当なところで生きてきたのではないか。しかしそうすると、この律法学者と主イエスとの問答、これはわたしたちの体の中に本当に入ってきているのか、本気で聞こうとしてきたのか、考えさせられるのです。

 生きていく上で大事なこと、生きるとは何をするためのものなのか、それは神と、自分と隣人を愛するということだ、という主の言葉は、わたしたちの胸に重い言葉です。

 律法学者は、主イエスの答えにさらに呼応して、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です」と言い、神を全力で愛することは、どんな献げものやいけにえよりも優れています」と言いました。律法学者はどういう意味でこの言葉を語ったのかはよくわかりませんが、ここで、わたしたちは主イエスの言葉を受けとめるうえで、きわめて大事なことが語られていることに気づかされます。それは、当たり前すぎることでもあるのですが、主イエスの言葉、神を全力で愛する、自分と隣人を愛する、それはただ教えとして語られているわけでも、たんなる宗教倫理として語られているわけでもない。わたしたちにとって唯一無比なる、わたしたちとどのような時も共に歩んでくださる神を、愛するのだ、と主は語っておられるということです。

 『神は唯一である、ほかに神はいない』ということは、人間とかかわり続ける神、わたしの神であり続けてくださる唯一の神ということです。もっと言えば、わたしの神としてわたしを愛し続けてくださる神だ、ということです。わたしたちはただ愛せよ、と言われているわけではない。わたしを愛して、愛し続けてくださっている神を愛せよ、と言われているのです。

 神はアブラハムと共に歩み、アブラハムの神であることをやめない神であること明らかにしてくださった。神は出エジプトを通して、イスラエルの民の痛みを受けとめ、共に歩み、救いへと導き、共に生きる神であることを明らかにしてくださった。共に在り続け、共にあり続けることをやめない神であることを、神はイスラエルの歴史の中で顕わにしてくださり、そしてその神の愛は、イエス・キリストの受肉において結実していかれた。わたしたちが旧約聖書から新約聖書への歩みの中で知らされること、それは、神はわたしたちを全力で愛され続けておられる、ということなのです。神はいつもわたしたちに呼びかけ、どんな時も関わり続けてくださる。そしてイエス・キリストの十字架と復活において、わたしたちを愛しているということが、どんなものなのか、明らかにしてくださった。それはわたしたちを根本から支えるということであり、救うということであり、どこまでも担う、ということであり、わたしが何者であっても愛する愛であり、わたしの生と死においてかわらず神であり続けてくださるという愛なのです。

 わたしたちはこの神の愛、キリスト・イエスの愛に出会って、生きるとは愛することだ、ということによくわからなくても触れていく。神の愛に出会って、いつも、どんな時も、どうであれ、わたしを根本的に見つめ、関わり、支え、救い、導いてくださる、という真実、まことに触れる。その信実がイエス・キリストそのものだということにも触れていく。それがわたしたちの内で感謝となっていく。その感謝が神への愛へとわたしたちを向かわせるのです。

 わたしたちは、神への愛にしても、自分への、そして隣人の愛も自分の中から捻り出していくのではない。わたしがどう愛するのかがいいのか考えて、愛していくのではない。神に出会い続ける。イエス・キリストと出会い続ける。そこで神の愛に出会っていく、キリストの愛に出会い続けていく。その愛の信実に捕らえられていく。その愛の信実の中にある自分と出会っていくのです。そして神に感謝し続けていく。その感謝の中で、神を愛するものとされていくのです。神を全力で愛することがどういうことなのか、神の語りかけに聞いて、わからなくても応答していく。その第一のことがわたしたちの中で起こっていくときに、第二の道も開かれていく。わたしたちの愛が貧しい、けれども、別にそこにアクセントがあるわけでもない。神の愛に出会い続けていくことこそ、大事なことなのです。その中で、生きるということは愛することなのだ、というキリストの言葉を受けとめ続けていきたい思います。