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マルコによる福音書連続講解説教

2022.9.4.聖霊降臨節第14主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書14章22-31節『 差し出される主イエス 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所の直前の箇所で聞いたように、主イエスは過越しの食事とご自分の十字架を重ね合わせて、弟子たちと共に食事をなさいました。その食事の席で、弟子の裏切りということを話された。そしてその後、主は「パンを取り、それを裂き、弟子たちに与え」られました。これは過越しの食事に無い所作、行動でした。弟子たちは何が始まったのか、と驚きの内に主イエスを見つめていたでしょう。

 主イエスは言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」弟子たちは驚いた、というか怪訝な思いで主の所作を見つめていた。取りなさい、と言われて差し出されたパン、そのパンがわたしの体とはどういうことなのか。ここで使われているからだという言葉は、心身全部のことです。しかしどうしてパンのかけらが主イエスの体なのか。だが弟子たちはおそらくそんなことをゆっくり思う間もなく、そのパンを受けとり、食べたのです。そして主イエスはさらに続けて、杯を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちに渡された。彼らは皆その杯から飲んだ。そして主は、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。いったいこの一連の主の言葉は何だ。どうして主イエスは今この時に、こんなことをなさるのか。弟子たちは不思議な思いに包まれたでしょう。

 わたしたちがここで気づくこと、それは主イエスの言葉には説明がない、ということです。パンを取り、取りなさい、これはわたしの体である、どうしてキリストの体がパンなのか、これは多くの人のために流されるわたしの血、どうして杯に入った葡萄酒がキリストの血なのか、何の説明もない、ということです。

 確かに、主がパンを裂いた、という行為は、やがてキリストの体が十字架にかかり、その体が裂かれていく、ということと重なっていきますし、葡萄酒は十字架で流された主イエスの血と重なっていきます。

 その意味ではこの差し出されたパンと葡萄酒は、これから起こることの象徴的なしるし、と言えるかもしれません。後になって弟子たちが振り返る時に、あの時のパンと葡萄酒、あれは、十字架で裂かれた主の体、十字架で流された主の血をシンボライズしたしるしだった、と言えるかもしれません。

 しかしそうであるとするなら、なぜキリストは「取りなさい、これはわたしがこれからかかる十字架で裂かれる体の徴だ」と言われなかったのでしょうか。徴だと言えば、わかりやすかった。

 食というのは、皆さんよくご存じのように、さまざまな記憶と結び合わされるものです。父が好きだったもの、母が好きだったあの食べ物、その食べ物を見るたびに、父のことを思い出すことも、母のことを思い出すこともあるのです。ここで、主イエスから直接手渡されたパンと葡萄酒、それを見るたびに十字架にかかってくださったイエス・キリストを思い起こすということなら、誰にでも、よくわかることです。

 しかしそうではない、違うのです。キリストはパンをわたして、これはわたしの体だ、と言われたのです。葡萄酒を差し出して、これはわたしの血だ、と言われたのです。記念でも徴でもない。ストレートに語られているのです。

 ヨハネによる福音書6章には、主イエスが「わたしがいのちのパンである」と語り、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる。」と語る場面が記されています。その時、弟子たちの多くの者が「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか。」と発言したことが記されています。弟子たちの中で、ひどい話だという者がいたのです。結果、弟子たちの内の多くが主イエスのもとを離れ去った、とも記されています。主イエスの語るこの食事の席での言葉が、どれほど人々を困惑させたか、伝わってきます。事実キリスト者というのは人の肉を食べ、人の血を呑む者だ、という風評が最初期のキリスト教会には纏わりついていたのです。

 キリストがここで差し出したパンと葡萄酒、これがキリスト教会が聖餐として、二千年にわたった守り続けてきた、受け取り続けてきた聖礼典であることはよくご存じだと思います。聖餐というのは、非説明性、説明しないことに徹していると思います。弟子たちは、意味も分からず、わけもわからず、主の手から裂かれたパンと杯を受けた。そしてその後、キリストの十字架と復活を知ることとなった。そしてやがて弟子たち初代教会が受けとめていったのは、救いはキリストの体が与えられる、ということ。わたしたちはただ受けるだけ。わたしの中には救われる根拠は何もない。何一つない。ただ取りなさい、と言われ、受け取り、食べる。パンがわたしの中に入る、葡萄酒が入る。それが生きて働く。それが救いだ、ということです。しかもこのパンと葡萄酒を食べ飲むことは、キリストのいのちを食べることであり、復活のいのちに与ることだというのです。

 キリスト教というのは人間の精神に語りかけられるもの、知性も、感性も、感情も、すべてに向かって語りかけられる言葉において示されていくもの。神は言葉においてわたしたちに語りかけてくださる。だからこそ、キリスト教会は神のことばが語られる聖書の言葉を大切に受けとめてきたのです。礼拝の説教は神のことばが語られ、わたしたち一人一人がそれを信仰において聞いていく、そこでこそ神が生きて働いてくださる。聖霊は神のことばをわたしたちあらわにしてくださる、開示してくださる。キリスト教は言葉に聞き続けるものなのです。

 ところでもう一方、主はこの聖餐を与えてくださった。神はわたしたちに語りかけ、言葉を与えられる神であられる。と同時に、キリストの体を与え、血を与え、ただひたすら、その神の働きに対して受け身、受けるのみになることを求め給う。聖餐は非説明性に徹している、と言いました。ここでは我々の持てるものではなく、ただ外から与えられる恵み、キリストがこのわたしの中で生きて働いてくださるという恵みをただ受けるのみなのです。すなわちそこでは、わたしの神に対する理解がどうであれ、信仰の程度がどうであれ、どんな今わたしであれ、そのことに関わらず恵みが与えられ、わたしの内で生きて働く、ということなのです。

 説教と聖餐、これが礼拝の根幹をなしているものです。この二つのことにおいて、一つの事を受けていく、それがキリスト教信仰です。二つの別のものでありながら、ともにキリストの存在に根差しているのです。

 この食事の後、主イエスは弟子たちに「あなた方は皆わたしに躓く」と言われた。原文にはわたしはなく、ただ皆躓く、とあります。キリストに躓くことも含め、十字架という出来事に躓いていく、と主は言われたのです。そして事実弟子たちは皆躓いた。するとその時ペトロが「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません」と言った。そこで主はペトロの否認予告を鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らない、というだろう」と告げるのです。

 この食事に続く、躓きの予告とペトロの抗弁、そしてさらにはっきりとあなたは知らないという否認予告、これは何を語っているのでしょうか。

 過越しの食事、主イエスが備え給うこの食事で明らかに示されたのは、救いとは、わたしたちの内にあるものによるのではない、ということです。ただ外から与えられるキリストの体、これをただ受けることによるのです。そしてそれはわたしたちが聖書の語りかけ、聖書の言葉において聞き取ってきたことと重なり合うことです。パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう語っています。「もはや生きているのはわたしではない。わたしの中にキリストが生きている。わたしが今肉おいて生きているところのものは、まこと・信実において、すなわち、わたしを愛し、わたしのために自らを引き渡してくださった神の子のまこと・信実において、生きているのである。」ただキリストのまことによって、救われるということです。

 

 この食事の前と後で、弟子たちの裏切りのこと、弟子たちの躓きとペトロの否認のことが語られているのです。言ってみれば、キリストのまこと・信実に対して、その前後に人間の不信実が語られているということになります。確かに裏切りも否認も不信実な行為です。ただ裏切ったものも、否認したものも、初めからでたらめというわけでもなく、弟子たち皆がそうであったように、キリストに従っていきたいと願っていた。ペトロの言葉、「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません。」「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」それはペトロの覚悟のほどだった。決意でもあったのでしょう。しかしそのペトロの覚悟も身に迫る危険の前では崩れていくのです。わたしたちは誰もそれを責めることなどできない。だから仕方がないじゃないか、というようなことが言いたいのではない。信仰は、そもそも私たちの覚悟や決意に立脚するものではない、ということをとことん知らなければならない、ということです。先週も申し上げたように、わたし自身の中に裏切るわたしもいるし、キリストを何度でも否認するような自分もいるのです。

 しかしそのわたしたちのことを知っておられて、なお十字架にかかられる主イエスがおられる。なお十字架での贖罪の死を受けていかれるキリストがおられる。そのキリストのまこと・信実こそがわたしたちの信仰の根拠なのです。そしてそれが差し出されるパンなのです。葡萄酒なのです。

 そのキリスト・イエスがわたしたちの内で働いてくださるのです。

 どのような時も、わたしたちの信仰はそこからしか始まらない。自分から始まる信仰は、キリスト教信仰ではない。あなたが作り出した、あなたが描き出した信仰なのです。「取りなさい、これはわたしの体である。これは、多くの人のために流されるわたしの血である。」この主の言葉を何度も何度も聞きつつ、キリストの体をいただき、そこから歩みだしていきたいと思うのです。