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マルコによる福音書連続講解説教

2022.9.11.聖霊降臨節第15主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書14章32-42節『 祈る主イエス 』

菅原 力牧師

 朗読された聖書箇所はゲツセマネの祈りとして、とてもよく知られた聖書箇所です。しかし、わたしたちはこの聖書箇所を読んで、わからないこと、理解の及ばないことが少なくないのです。だから、ここで語られていることがよく理解されているか、と言えば必ずしもそうではない。

 主はエルサレムの町の東、ゲツセマネの園と呼ばれる場所に弟子を伴い祈りに行かれた。もう逮捕される直前です。主イエスは3人の弟子を連れて、園の中を祈るために進まれたのですが、ひどく恐れて悶え始めた、というのです。さらにわたしは死ぬばかりに悲しい、と弟子たちに言われた。この主イエスの態度様子はどういうことなのでしょうか。主イエスは、ご自分が十字架にかかることをこれまでもたびたび語り、誰よりもそのことに自覚的であられた。それなのに、事ここに至って、この動揺ぶりはどういうことなのか、ということです。例えばそのことに関して、こういうことを言う人がいます。前もって知っておられた、ということと、いざその時を迎えたということでは、状況は違う。主イエスも人の子、十字架を目前して心底怖くなったのだ。そしてそこから、主イエスは人間の死の前での恐れや不安、動揺をわたしたちと同じように感じたのだ、と受けとめるのです。本当にそういうことなのでしょうか。

 あるいは逆に、死を前にしても恐れず、堂々と自分の主義主張のために殉教していった人に比べて、キリストの死に方は情けない、なぜこんなにおろおろするのか、という人もいます。

 そもそも私たちはキリストの十字架、というものを誤解していることが多い。キリストの十字架は、ご自分の正義を主張するためのものではないのです。主義主張のために権力に捕らえられ、殺されていくとか、立場の違うものによって拘束され、殉教していくことは少なからずあります。しかし、キリストの十字架はそのようなものではありません。キリストの十字架は「罪人のひとりとして数えられていく」ための十字架だったからです。キリストの十字架は、わたしたちの罪を背負ってくださったものだった、としばしば語られます。しかしそれは、罪とは無関係な正義の人が、あなたの罪をちょっとの間荷物を持つようにして、背負って肩代わりしてくださる、というのとはわけが違う。神の独り子があなたの罪のために、罪人のひとりとして死んでいくということなのです。

 しかしそう言われてもわたしたちは、罪人のひとりとして死んでいく、ということがどういうことなのか、自分が罪人のひとりなのによくわからない。  

 罪人のひとりとして死んでいく、ということは自分の罪の罰としての裁きを受けて死んでいく、ということです。考えてみれば当然のことです。罪を犯したのですから、その罪の罰を受けて死んでいくのです。それは人間による人間からの罰ではない。神からの罰を受けていくということです。それはいったいどういう罰なのか。

 こういうことを自分に即して具体的に考える人は、少ないと思います。

 実際ペトロにせよ、ヤコブ、ヨハネといったおそらくは弟子の中の年長者たちも、主イエスがひどく恐れて悶え始められたその理由を、自分に引き付けて考えるというようなことはほとんどしていなかったのではないか。そもそもなぜ主イエスは十字架にかかっていかれるのか、考えようとはしていない。かつてペトロは主の受難予告を聞いて、「そんなことがあってはなりません」と主を諫めたのでした。そんな苦しみはあってはならない、そう言った。だが、なぜキリストは十字架という苦しみの道を歩まれたのか、受けとめようとしていない。今日の聖書箇所で繰り返される弟子たちの眠り込んでいる姿、それはただたんに眠かった、というだけでなく、眠り込んでいくわたしたちの姿なのでしょう。

 キリストが十字架にかかっていく、それは本来、このわたしが自分の罪を神に罰せられるために、かからなければならないものなのに、キリストがわたしに代わってその場所に立ってくださる、ということです。

 ではいったい罪の罰としての死とはどのようなものなのでしょうか。それはとても飛躍するように聞こえるかもしれませんが、サタンに自分を引き渡す死を死ぬということです。罪人として死ぬ、それは神に逆らい、神を遠ざけ、自分を主として、おのが腹を神として生きた自分が、神の裁きを受けることですが、それはまさにサタンの軍門に降るということです。

 主は公生涯のはじめに、サタンの誘惑を受けられた。そのことをわたしたちは聞いてきた。神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ、という問いに始まるサタンの誘惑、あれはすべて神を退けていくことにつながる誘惑だった。主イエスはその誘惑を退けていかれたのでした。とすれば、罪人とは、つまりサタンの誘惑に打ち負かされていく者のことです。サタンの誘惑に魅入られる者のことです。わたしが罪人、とはそういうことです。そしてその罪の罰として死ぬということは、サタンの誘惑に打ち負かされて、サタンの手に引き渡されるということなのです。それが罪の罰としての死を死ぬということに他ならない。

 それは、病気で死ぬとか、事故で死ぬとか、寿命で死ぬ、というようなこととは違います。敵の手にわたって死ぬということだからです。わたしたちは教会に来て、十字架の事実を知り、それがわたしに代わって罪の罰を受けて死ぬことだ、ということは、もう繰り返し聞いてきたと思うのです。だがその中身は、サタンの手に引き渡された死を死ぬ、ということなのです。

 主イエスは今、十字架を目の前にして、この死を死のうとしておられる。罪人のひとりとして、罪人としての罰を受けて死んでいく、それは、サタンの手に渡されて、サタンに身を任せて罰を受けることだったのですが、それはすなわち、神から切り離される、ということに他ならない。

 わたしたちはキリストが十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んだことをすでに知っています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びです。あの叫びをここで思うと、まさに主イエスは、罪人のひとりとして、神から切り離されてサタンの手に渡されていく、その苦しみと痛みと、怖れの中で、あの叫びを叫んだのではないか。

 主はゲツセマネでひどく恐れて悶え始めた、というのです。

 それはただたんに、十字架が怖い、という悶えではないのです。サタンの手に渡され、サタンに身を任せて罰を受けて死ぬこと、だが本当にそれが人々の救いとなっていくのか、それはイエス・キリストもわからないのです。サタンの手に渡されるとは、神から切り離されるということであり、それが罪人の受ける罰に他ならないのです。わたしたちは実はそれがどれほど恐ろしいことかわかっていない。わかっていないから、十字架の前で眠っていられるのです。いや、十字架の苦しみを見ようとしないこと、それ自体がすでに誘惑であり、ペトロも、ヤコブも、ヨハネも、みな誘惑に飲み込まれているのです。キリストは知っているのです。サタンの手に渡され、神から切り離されるということがどれほどの闇の中か、ということを。しかしキリストもその闇の中はわからない。ただ神のみが知る領域なのです。

 これはいったい、誰のための歩みなのか。キリストが一人、怖れ悶え、苦しみ、神に祈り続ける。主イエスは、十字架の罪の罰を取りのけてほしい、という祈りと、父よ、あなたのみ心に適うことをなしたまえと、二つながらに祈られるのです。主は祈り、必死に祈る。だが神は何もお応えにならない。お答えにならないのは、神の御意志は変わらない、ということなのではないか、といった人がいます。イエス・キリストは、何もお応えにならない神の前で、神のかわらぬ意志を受けとっていかれたのではないか。そのようにして、怖れ悶え、苦しみの中で、誘惑を退けていかれたのではないか。

 だが、弟子たちはこの時眠っていた。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか、とキリストが言われるほどに、眠っていた。

 なぜ弟子たちは眠ってしまうのか。目を覚ましていることができないのか。41節に不思議な言葉が記されています。「あなた方はまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」とある「もうこれでいい」ってどういうことなのでしょうか。もう十分だ、という意味なのでしょうか。実はこれはかなりの作文で、原文はただ「遠い」という言葉があるだけです。意味がよくわからないので、作文したのです。しかし、わたしはこの「遠い」は大事な言葉だと思います。弟子たちが、、そしてわたしたちが眠りこけて、キリストの十字架を受けとめていく、そこから遠い、ということなのかもしれない。自分のことなのに遠い。そうさせているのがサタンの誘惑の本質なのかもしれない。自分のことなのに当事者意識がない。

 しかし、眠っているのか、まだ眠っている、という言葉と同様、キリストからの言葉として記憶しておきたい。そしてそういう自分がいることを知らされながら、目を覚ましていなさい、というキリストの言葉も、記憶し受けとめていきたい。眠ってしまうわたしでありつつも、キリストの言葉に聞くことを通して、目を覚まし、目覚めて、わたしのためのキリストの十字架を、その苦しみを、その救いを受けとめるものとさせていただきたい。