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マルコによる福音書連続講解説教

2022.9.25.聖霊降臨節第17主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書14章66-72節『 わたしは知らない 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書14章によれば、主イエスの裁判は大祭司の邸宅で夜、行われたようです。そしてさらに夜が明けてから議員たちは再度集まり、最終的に決断を下した、そう記されています。

 この大祭司の邸宅に人々に紛れて、遠くからついていった者がいます。ペトロです。ペトロは他の弟子たちのようには一目散に逃げ出さず、こっそりとではあっても主イエスの後を追ったのでした。そのことが54節に記されていました。

 その大祭司の邸宅での裁判がいったん終わった後のことです。議員たちがいなくなった後もなお邸宅には家来や召し使いなど多くの人々がいたのでしょう。大祭司に仕える一人の女中がやってきて、ペトロを目にしたのです。わざわざ、じっと見つめたとあります。しげしげと見たのです。それには理由があった。「あんた、あのナザレ人のイエスと一緒にいたでしょ」だからしげしげと見たのです。

 その時ペトロは何と答えたか。

 ペトロは彼女の言葉を打ち消して、「お前が何のことを言っているのか、わからないし、見当もつかない。」こう答えたのです。

 この場面なのですが、今回あらためて読んでいて、気づかされたことがあります。それは特別なことでもなく、ある意味当たり前かもしれないのですが、これはほんの片隅でのつぶやきのような会話だったのではないか、ということです。女中と訳された言葉、女の召し使い、ということですが、若い娘という意味もあります。彼女たちは表舞台にいるわけではない。いわば裏方の人、それも若い女性なのです。そこで、この女性はペトロの顔を見つけて、「あんたイエスと一緒にいた人でしょ」と言ったのです。雑談というよりも今でいえば囁きのようなもの。誰かに向かって、この女性が、見つけた見つけた、と騒いでいるわけでもない。

 ペトロが主イエスのことを否認した。大仰に言えば確かにそうです。しかし、場面は裏方たちの雑談の場所。ここで力を入れて、わたしはキリストの弟子だ、というような場面ではない、そう思ったかも知れない。会社では大きな声で、あれこれしゃべる親父が家に帰ったら、妻の質問にも生返事、というのは昔よくあった話ですが、そういう場面ととらえることもできます。だからペトロは、軽い気持ちで、何言ってんの。全然わからん話だ、という調子で語ったのかも知れない。わたしたちも日常の中では、ここは自分がクリスチャンだ、というようなことは力を入れて話すところじゃない、というような判断をするものです。ここじゃない。

 ペトロはその場から逃げ出そうとします。鶏が鳴く。その時女中はペトロを見て、今度は周りの人々に向かって言い出したのです。彼女ははじめ、軽口で囁いた。だがペトロに否定されて、逆に躍起になったのではないか。「この人たちは、あの人たちの仲間です。」静かに収まりをつけたかったペトロからすれば、これは予想外のこと。男女差別の激しかった時代を思えば、こんな娘の言うことなどと思って、てきとうに応えたことが、傷口を広げ始めた。ペトロは打ち消した。打ち消すしかなかったのかもしれない。その打ち消す言葉に急ぎ慌てて、ペトロの方言が出た。すると今度は居合わせた人々がペトロに対してものを言い始めた。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」ガリラヤの者、とはつまりガリラヤの方言が出てるじゃないか、ということです。墓穴を掘るとはこのことです。エルサレムの町でガリラヤの言葉を使う一群は記憶に残りやすい。ある意味とどめを刺すような言葉を周囲の人々が言い出したのです。もう女中ひとりのささやきではない。この場の空気が変わってきているのです。

 しかも多くの人を巻き込み、ペトロへの疑いのまなざしが集中しているのです。心底おそろしくなったのではないか、ペトロは。自分も一気に逮捕、裁判にかけられるのではないか、そんな思いがちらついた。ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら言い始めた。「あなた方の言っているそんな人は知らない。」呪いの言葉さえ口にするとは、わたしがもし?をついてるのなら呪われてもいい、ということです。そう言いつつペトロはわたしは知らない、と断言するのです。小さな小さな嘘というか、その場の雰囲気で否定したものが、その場の流れで、大きな事態となり、大声で否定するしかない自分を引き寄せてしまった。

 鶏が二度目に鳴く。ペトロはその鶏の声を聞いて、主イエスの言われた「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」という言葉を思い出し、泣き出したのです。

 ペトロはいったい何を泣いているのか。読者が誰しも思うことです。彼は土壇場で自分の師である主イエスを「知らない」と言って否認したことを悔いて、つまり自分の罪を悔いて泣いたのか。主に対して不誠実な、罪人の自分を悔いたのか。そうは思えないのです。なぜならこの涙が罪を悔いての涙なら、彼はただここから逃げ出すだけではなかったはずです。彼は、自分が主の前でたとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません、といった自分、その自分の情けなさに泣いたのではないか。自分のみっともなさ、弱さ、脆さを泣いたのではないか。平たく言えば、ペトロは自分はダメな人間だ、ということに涙したのではないか。それは罪を悔いる涙ではないのです。悔い改め、というのは、根本方向転換を含むものです。自分から神に目を向き変えることなのです。自分ばかり見つめていた人間が神のほうに向きなおって、神の恵みの中にある自分を知らされることなのです。だとすれば、ペトロのここでの涙は、悔い改めの涙ではなく、自分への涙なのです。相変わらず彼は自分ばかり見ているのです。そもそもペトロは主イエスに対して、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったその言葉は、自分のことしか見ていないのです。自分にはそれだけの信仰的な力があるという自覚なのか、大丈夫です、という自分への自信なのです。自分はへこたれるかもしれないけれど、主イエスの恵みを受けて歩んでいきたい、というのではない。どこを見ているかと言えばあくまでも自分。

 あえて言えば、ペトロの歩みは、首尾一貫している。どう一貫しているかと言えば、自分の力で乗り切ろうとすることにおいて首尾一貫しているのです。

 キリストのまこと、キリストの恵みによって、生きようとしていない、という点で首尾一貫している。

 だから、事ここにおいて不信仰が現われた、というのでは実はない。そもそも不信仰なのです。自分の力で乗り切ろうとすることにおいて。そして自分の力で乗り切れない局面になったら、ぽきんと折れるのです。自分の力で乗り切ろうとすれば、どこかで折れるのです。他の弟子たちもみんなそうです。

 しかし、この聖書箇所を読んで、どうしてこういうペトロの姿が聖書に記録されているのか、と思った方もいるでしょう。これは、あえて言えば醜態です。一番弟子ペトロの醜態です。しかも新約聖書が編まれたころ、すでにペトロはキリスト教会の指導者としての周知され、伝道者として、エルサレム教会を指導し、あるいは殉教の死を遂げてその働きを終えていたかもしれない。ある意味、キリスト教会の人々の尊敬を勝ち得ていた。そのペトロの恥ずかしいエピソードをなぜ記録したのか、と思う人もいるでしょう。

 しかし、誤解していただきたくないのですが、聖書は弟子たちの人間としての立派さや、優れた信仰的な態度行動、というようなことにほとんど関心を示していない、ということです。というかそもそもそんなものがあるかどうかもわからない、と受けとめている。むしろ、虚心坦懐、神の前での人間を見つめて、一人一人がどんなみっともない、情けない姿で生きているか、何の誇張も割引もなく書き記している。ペトロのこの場面、ある意味で細部まで書き込んでいる、福音書としてはめずらしい部分ともいえる。ひょっとしてペトロ自身がのちに人々に語ったのかもしれない。十字架・復活の主イエスに出会う以前の自分の力で乗り切ろうとする自分を伝えようとして。いずれにせよ、マルコによる福音書の著者はこの出来事をたんに恥ずかしい、情けない出来事、としてだけ受けとめたのではないことは確かなことなのです。なぜなら、このペトロのみっともない、恥ずかしい姿は、主イエス・キリストに知られた姿だったからです。キリストは知っておられたのです。キリストのことを「わたしは知らない」と言ってしまうペトロを。予告までされた。なぜキリストは予告されたのか。それはキリストがペトロの弱さ、情けなさ、みっともなさを知って尚、そのペトロのために十字架にかかり、そのペトロのために復活のいのちを与える主であることを知ってほしいからです。

 あなたの弱さは担われている、あなたのみっともなさは負われている、そのことを知ってほしいからです。そしてマルコはその信仰に堅く立っているから、ペトロの姿をここに書き記すことができた。それはペトロにとっての汚点なのではない。過去に取り返しのつかないあやまちなのでもない。キリストにすでに担われている罪、弱さ、痛みなのです。ペトロ自身が福音と出会うことを通して、そこに立ったのです。

 しかしこの時ペトロはまだ知らない。自分のすべてがキリストによって担われ、自分の力に頼って生きてきた自分が、崩れて、罪を犯し、情けない弱さの自分になっても、そこにキリストの十字架があって、そのキリストの十時からわたしたちはどんな時も歩みなおしていけるということを、この時ペトロはまだ知らない。

 その恵み、そのキリストの信実を知らされ、受けとめ、歩み始めた時、ペトロの涙は、感謝と喜びにあふれた涙になるのだと思います。