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マルコによる福音書連続講解説教

2022.10.2.聖霊降臨節第18主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書15章1-15節『 イエスかバラバか 』

菅原 力牧師

 主イエスの逮捕、そして異例なほど直ちに行われた裁判、と舞台はめまぐるしく移っていきます。その翌朝、祭司長、長老、律法学者たちは再度最高法院を招集し、主イエスをピラトに引き渡すのです。

 ここに登場するピラトとは、わたしたちが使徒信条で毎週その名を口にするポンテオ・ピラトのことです。彼自身、まさか二千年後の世界で、何十億という人たちに自分の名が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と主イエスの受難の首謀者のように言われているのは、心外かもしれない。ピラトはローマの総督、ユダヤのこの地域を治めるローマ帝国から遣わされてきている総督でした。ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、たとえユダヤの最高法院が死刑を決めたとしても、その執行権は最高法院にはなく、ローマの手の内にあったのです。最高法院が決めたことであっても、総督のもとでの裁判が必要だったのです。

 総督ピラトはイエスが連れてこられるとすぐに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問した。そもそもローマに支配されているユダヤに真の王様などいないのです。だからこの尋問は、ピラトにすれば半分は揶揄、そして残りの半分は「お前はローマに対して反逆するものなのか」と意味が込められていたのでしょう。

 しかし主イエスはその問いに対して「それは、あなたが言っていることです」とお答えになられた。祭司長たちは当然イエスに対する告発をおこなった。だが、主は以後は何もお応えにならなかった。否定も、反論も、何もない。ピラトは不思議に思った。なぜ何も答えないのだ。自分に不利な告発がなされているというのに。「何も答えないのか。彼らはお前を打ったようとして躍起になっているぞ。」

 だが主イエスは何も答えない。そしてピラトは思うのです。この男は王でも何でもない。ユダヤの宗教のことなどよくは知らないが、最高法院の連中は、この男に対する「妬み」でこの男を死刑にしようとしているのではないか。この男の行くところ多くの人々が集まったという話だ、祭司長たちは、「妬み」でこの男を俺のところに連れてきたのだ。そうだとすれば、この男に大した罪などない。死刑にするほどの男でもあるまい。ピラトはそう思ったのではないか。

 ピラトはユダヤの大きな祭りのたびごとに、群衆の願い出る囚人を恩赦として釈放していました。ある種の人気取りです。群衆はピラトのもとに押しかけ、いつものようにしてほしいと要求したのです。ピラトはこれまで人気のあったイエスを人々は釈放してほしいのだろう予想するのです。ところが、群衆はイエスではなく、もう一人の逮捕者バラバを釈放してほしいと願ったのです。それは最高法院のメンバーたちが扇動したからだった、と聖書は書き記しています。バラバは7節にあるように、暴動の際に人殺しをして投獄されていた囚人でした。ピラトははじめ群衆にこう尋ねました。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」しかし群衆はバラバの釈放を求めた。ピラトは重ねて尋ねた。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者はどうしてほしいのか。」群衆は「十字架につけろ」と叫ぶのです。ピラトは驚きます。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」ピラトからすれば、イエスは悪事らしい悪事など働いていない。それなのに、この群衆の叫びは何だ。ピラトは思うのです。なぜ群衆がこれほどこの男を十字架につけたいのかはわからない。しかし、これほどの叫びに逆らってバラバではなくイエスを釈放すれば、群衆はもちろん、最高法院を敵に回すことになる。ローマには民衆が強く望んだ、と伝えればいい。ピラトはイエスに罪を見出すことのないままに、死刑に処することを決したのです。

 さて、この場面はわたしたちに何を今、語っているのでしょうか。ただたんにこの裁判の理不尽さとか暴力性ということにとどまらず、何を聞くのでしょうか。

 ミハイル・ブルガーコフというウクライナの小説家がいました。お読みになった方もおられるでしょうが、彼の描いた作品に「巨匠とマルガリータ」という今日では大変有名な作品があります。彼はウクライナの首都キーウで生を受けるのですが、お父さんは神学部の教授であり、彼はキリスト者の両親の元で育つのです。ウクライナはキリスト教信仰のあつい国で、首都キーウには大聖堂があり、キリスト教の聖地のひとつに数えられる街です。彼はやがて医学部に進学し、医者となり、働き始めるのですが、28歳の時にロシア革命に遭遇し、否応なく生活は激変し、ウクライナはソ連に併合されていくのです。以後彼は医者をやめ、文学、演劇活動に専念するのです。スターリンという政治家の統治下、言論統制、言論弾圧の嵐が吹き荒れ、スターリンの意にそわないものはすべて弾圧されました。そのような中、ブルガーコフは、自分の書くものが発行される予定がなくても、書き続けたのです。「巨匠とマルガリータ」という小説は1928年から書き始められ、彼が48歳で亡くなる1940年まで書き続けられた。しかし彼が生きている時には出版されませんでした。しかも彼が書き続けたこの小説はスターリンの独裁政治を問い続けるまことにしぶとい小説でした。どうしぶといかと言えば、ちょっと読んだくらいではスターリンを批判しているのかどうかもわからない仕組みになっていたからです。ブルガーコフが死んで、26年たってから、スターリンも死んで後、この小説はようやく日の目を見て、出版され、ウクライナはもちろん、旧ソ連、そして世界中で読まれるようになりました。

 なぜ、今この小説の話をするのか、と言えば、この小説は今日わたしたちが読んだ聖書箇所、ピラトによる裁判、尋問、そして十字架へと続く一日を題材にしているからです。聖書の出来事と、小説の登場人物の話が入れ子になっている小説だからです。ブルガーコフは、今日の聖書箇所も聞いて、小説として展開させていくのです。それはスターリンという絶対的な権力者の前で、無力、無策で手も足も出せない自分の姿と、ピラトの前で無力なものとして裁判にかけられ、死刑判決を下されたキリストの姿を重ね合わせているからでしょう。同時に、小説家はピラトの前でのキリストから、何かとても大事なことを聞き取っていた。大事なことを受け取っていた。それをこの小説で書きたかったのではないか。ピラトという絶対的権力者の前でキリストは無力だった。手も足も出ない。けれどもキリストは自分を見失わず、自分であり続け、神から受けた自分の使命を生き抜き、死に切ったキリストの姿を、小説家は見とどめているのです。小説の中で、ピラトに尋問されているイエス(小説の中ではヨシュア)はこういうことを言うのです。「人間のもろもろの罪悪の中で、臆病というものを最も重要なものとみる」。これは聖書にはない言葉です。しかしブルガーコフが苛酷な、無力な現実の中で聖書を読み、そこから聞き取ってきた言葉なのです。人間の罪悪の中で、臆病こそがそのさいたるものだ、なぜなのか。

 今日の聖書箇所を何度も読むと、ピラトが主イエスを死刑にしたのは、その臆病からではないのか、と思わされます。イエスに対して罪を認めることができなかったのだから、総督としては、無罪放免にすればよかった。本当はそれ以外にはないはずです。しかし、ユダヤの宗教者たちの声に流され、群衆の声に流された。この流れに乗った方がいい、と安易に思った。ピラトは群衆の声の前で臆病になったのです。自分で何が今ここで大事なことなのか、考えるのをやめてしまった。また一方、祭司長たちがイエスをこれほど躍起になって殺そうとしたのは、ピラトが考えた「妬み」だけではなかったのではないか。ユダヤの宗教者たちの中に、主イエスの語る言葉に「本当」を感じた者もいたはずです。主イエスの語る言葉に、神から語りかけを感じた者もいたはずです。しかしそれを語れば、自分の立場も危うくなる。だから怖かったのではないか。どこかでイエスを恐れていた。かつ、イエスと正面から向き合い、真理論争することを恐れた。

 臆病とは、怖がらなくてもいいものを怖がること、必要以上に用心深くなり、十分に事態に対処できなくなっていくこと、と辞書にはあります。臆病というのはもちろん、性格とか、性質によることもあるでしょう。あの人は臆病な人だ、という場合、性格とか、資質のことを言っている場合もあるでしょう。しかし今ここで問題にするのは、そういう性格のことではなく、人として、事柄にちゃんと向き合おうとしない人間的な態度のことです。例えば、人から自分の欠点や問題を指摘されたときに、その事柄に向き合おうとしないで、その指摘した人の悪口を言い出す。それは臆病な態度なのだ、ということです。自分の周りに起こることに対して絶えず誰かのせいにしようとする。社会のせいだったり、時代のせいだったり。この裁判という出来事の中で、ユダヤの宗教者たちもイエス・キリストに向き合おうとはせず、真理論争は避けて自分たちにとって邪魔ものだから、排除する、それは臆病なのです。そしてピラトもまた、臆病な態度をとったのです。人間の臆病が、主イエスを十字架へと追いやっていった、ということもできるのです。

 キリストはこの裁判で、ピラトの尋問に対して、「それはあなたの言っていることだ」と答えたきり、何も答えなかった、と聖書は語ります。何も語らないのは消極的なことではない。何も語らず、何も答えない中で、キリストはここで一歩も譲らず、ご自分の使命に生きるのです。人間の罪を負って、十字架にかかっていく、という使命を生きて、一歩も譲らない。断固として立ち去らない。ブルガーコフは、この聖書箇所に人々の臆病の姿と、その中に立つキリストの姿を読み取っているのです。

 そのキリストの姿を見て、彼は出版の当てのない小説を、しぶとく書き続けていく何かを受けとめてきた。今ここで、いたずらに臆病になるのではなく、与えられた自分の現実の中で、自分のできることは何なのか、たとえそれがどんなに小さなことであっても、神の前での自分を受けとり、自分を見失わず、自分を放棄せず、自分から逃げ出さないで、やれることをやる。たとえやれなくても、キリストの姿を仰ぎ続ける。

 臆病なあなたではなく、臆病ではないあなたになりなさい、というようなことを聖書は安易に語らない。わたしたちは十分臆病です。ピラトのように、祭司長のように、群衆のように。臆病で、事柄とちゃんと向き合おうとしないで、生きていくことも少なくない。しかし、だからこそ、わたしたちはピラトの前でのキリストの姿を記憶すべきなのです。この臆病にならない態度はどこから来るのか、わたしたちはそのことを真摯に思う必要があるのです。わたしたちのためにこの裁判から立ち去ろうとしないイエス・キリストを、わたしたちは見つめ続け、記憶する必要があるのです。