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マルコによる福音書連続講解説教

2022.10.9.聖霊降臨節第19主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書15章16-32節『 侮られて棄てられ 』

菅原 力牧師

 ピラトによる裁判が終わった後、兵士たちは主イエスを官邸に引いていったと聖書は記しています。裁判はどこで行われたのか、マルコは詳しく記していないので、よくわかりません。ただこの記述からわかるのは、官邸内のどこかの場所で兵士たち主イエスを連れ出し、わざわざ刑の執行の前に主イエスをいたぶり、侮蔑したということです。しかもそこに部隊の全員を呼び集めた。その数は少なく見積もっても200〜300人。これはある種の集団リンチです。

 紫の服をイエスに着せ、茨の冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、万歳」そして、イエスの頭を葦の棒で叩き、唾を吐きかけ、膝をついて拝礼した。

 そうやって主イエスを侮辱して、紫の服を脱がせ元の服を着せ、十字架へと向かうため引き出したのです。

 紫の服というのは、高貴な者、王様が着る服のことです。それを敢えて着せて、ユダヤ人の王、と言って敬礼というより拝む。拝礼して、頭をたたく、唾を吐く。これはとても手の込んだ愚弄行為です。当然十字架上では紫の服は着せない。元の服に戻し、十字架にかける。その上で、着ていた服も兵士たちはくじで分け合った、というのです。つまり主は裸にさせられた。裸で、十字架にかかり続ける。自尊心とか、誇りをずたずたにして死刑に至らしめるのです。

 主イエスは二人の強盗と並んで十字架にかけられた。イエスひとりではなく、他の犯罪人と並んで十字架にかける。主イエスもまた罪人のひとりだということことなのです。

 そして十字架の元に来た通りすがりの群衆は、「十字架から降りて自分を救ってみろ」とののしったのです。同じように祭司長や、律法学者たちも一緒になって「他人は救ったのに、自分を救うことができない。イスラエルの王、キリストよ、今すぐ十字架から降りてみよ、そうしたら信じてやろう」と口々に侮辱しました。

 読んでいて、つらくなってきます。目を背けたくなるような聖書箇所です。どうしてこんなひどい仕打ちを受けなければならないのか。しかし、わたしたちはここでこの十字架の出来事から目をそらしていいのか、と立ち止まる必要があります。 

 律法学者や祭司長といった人々は、主イエスとある種の利害関係があったかもしれない。しかし兵士たちはもともと主イエスと何の利害関係もない人たちです。その人たちがなぜ、これほど主イエスを侮辱するのでしょうか。なぜこれほどまでに貶め、いたぶるのでしょうか。

 そもそも人は何の理由もなく人を侮辱するものなのか。兵士たちの前に連れてこられた男は、ユダヤ人の王とまで呼ばれて、人々の関心を集め、この男の行くところ、たくさんの人々が群がり集まってきた。しかもそれは宗教的な英雄としてです。その男が逮捕され、どういういきさつか知らないけれど死刑判決が下った。兵士たちが知っているのはそういうことです。なんだ、宗教的に偉そうなことを言ってたらしいが、結局は罪を犯したろくでもない奴か。兵士たちは裁判の様子など知る由もない。ただ目の前にいるこの男は、死刑囚となった犯罪人、それだけです。偉そうな御託を並べて、結局は死刑を宣告された犯罪人。兵士たちからすれば、侮蔑の対象だったのでしょう。

 芸能人や有名人が何かの過ちを犯してしまったとき、テレビはそのことを取り上げて、ここぞとばかり、その人を叩く。葦の棒を振り回すわけではないけれど、唾をかけるわけではないけれど、ある意味もっとえげつないことを言ってその人を叩く。そこに侮蔑の匂いを振りまいていく。テレビを見ている者たちも知らず知らずに同調していく、という構図はわたしたちのよく知るところです。何の利害関係もないテレビの視聴者が、その人を侮蔑するのです。

 兵士たちが死刑囚である主イエスを侮蔑する。それは彼らの仕事の内ではなかったはずです。しかし彼らは誰から頼まれたわけでもないのに、辱め侮辱した。それが彼らの快感だったからでしょう。人を侮蔑すること、上から見下ろして、人の弱点、悪いこと、罪を侮蔑するのは、わたしたちの好きなことなのかもしれない。

 

 人々が主を罵った言葉と、祭司長たちが嘲ったことで、共通しているのは、自分を救ってみろ、ということでした。お前は宗教的な活動の中で、他人を救ったのだろう、だったら、今この苦難の中で、死んでいく苦しみの中で、自分を救ってみろ、と罵声を浴びせたのです。この言葉で言われていることは、「お前は自分を救えないじゃぁないか」ということです。自分を救えない救い主、32節にあるメシアという言葉はキリスト、救い主という意味の言葉です。彼らの罵声は、お前は自分を救えない救い主だ、と叫んでいるのです。

 

 なぜキリストのこの兵士たちの、人々の、祭司長、律法学者たちの嘲りを、侮蔑を、罵りを受けていかれたのか。黙って、受けていかれたのか。そのことを考えてみる必要があります。例えば、キリストはご自分がどんなに侮蔑されても、自分はただ使命を果たしていくだけだ、だからこの連中の言うことなど、聞き流せばいい、と思っておられたのでしょうか。自分は十字架を負うことだけを思い、そこに思いを集中している、だからこんな侮蔑に耳を貸す必要などない、と思っておられたのでしょうか。

 そうではないでしょう。飛躍して聞こえるかもしれませんが、キリストはここで、ご自分はこの侮蔑を受けても仕方のない人間だ、自分は侮蔑を受けて当然、侮蔑されても仕方のない人間だ、と思っておられたのではないか。

 旧約聖書のイザヤ書53章。これは旧約におけるキリスト預言といわれる箇所ですが、そこにはこうあります。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた傷によってわたしたちは癒された。」そしてさらに、「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」と語られているのです。彼が受けた傷、という時の傷は何も肉体の傷だけにとどまるものではない。罪人が受ける侮蔑、それは罪人である以上避けられないもの、時に当然受ける嘲り、それも傷なのです。それも主イエスはまともに受けていかれた。なぜなら、十字架にかかるということは、イザヤの預言にあるように、「罪人のひとりに数えられる」ことだからです。自分には何の落ち度もないけれど、仕方がないから身代わりになった、というのではない。罪人のひとりに数えられるのです。だから、罪人が当然受けなければならない、罰、刑罰、を受ける。罪人が受ける侮蔑、嘲り、罵り、をそのままに受ける。そして死んでいく、それが罪人のひとりに数えられる、ということなのです。

 自分の子どもが犯罪を犯した時、親は、自分は犯罪を犯していないけれど、子どもが受ける中傷や侮蔑の声を自分も黙々と受ける、ということがあります。キリストは罪人の罪を負って十字架にかかっていかれたのです。罪の罰を人間に代わって受けるために十字架にかかっていかれる。ということは、侮られても仕方のないほどの罪を犯した者のその傷を我が事として負っていくということなのです。「彼の受けた傷によってわたしたちは癒された」のです。

 

 キリストが十字架へと向かう中で、侮蔑されていく、嘲られていく、それはひどい話だとか、いたわしいとか、お可哀そう、と受けとめるのは、この事実の受けとめとして、何かまちがっていると思わされます。なぜなら、これはわたしが受ける侮蔑を、わたしが受ける嘲りをキリストが負って、受けてくださっているのですから、わたしからすれば痛恨事、申し訳ない、というほかない出来事です。

 

 「お前は自分を救えないじゃないか」という群衆、祭司長たちもそして一緒に十字架につけられた者たちまで、叫んだあの罵りの言葉、それはキリストが自分を救えないものとして十字架に磔けになっているということです。自分を救えないものとして苦しみの中で十字架にかかっているということ、それが罪人のひとりに数えられる、ということに他ならない。なぜなら、わたしたちが紛れもなく、自分で自分を救えない、そういう罪人だからですよ。その一人に数えられるのですよ、キリストが。その一人であり続けるのです。自分で自分を救えないものとして生きて、死んでいく、それこそキリストが受肉された、ということに他ならず、キリストの十字架とはそのことをわたしたちに物語るのです。その罪人のひとりたるキリストが神によって復活させられ、新しいいのちの主となる。

 今日の聖書箇所にキレネ人シモンという人のことが記されています。彼はエルサレムに出てきていて、たまたまこの場に通りかかり、兵士たちによって主イエスが担いでいた十字架を自分も背負わされることになった。それだけの記述です。自分から主の十字架を共に担ごうとする人は誰もいなかった。ただ無理やり、たまたまそこを通りかかったというだけで、背負わされた人がいた。シモンにすれば迷惑な話です。しかし、この人は、キリストの十字架をわずかでも担った。キリストは人間の罪を背負い、人間が受けるべき侮蔑や嘲りをその身に受けて、侮られて、棄てられていく、それは迷惑といえば、迷惑極まりない話です。しかしその迷惑を迷惑とも思わず、わたしたちのために十字架をキリストは負い続けられた。ひょっとしてシモンはそのことが我が身で感じられる最初の人になったかもしれない。彼は侮られて、人に棄てられ、我々の悲しみを担った。彼の受けた傷によって、我々は癒されたのだ。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた。わたしたちは、わたしのために罪人のひとりに数えられることを受けとめ受け入れてくださった主に、感謝と、喜びを献げ、その主に応えて歩んでいきたい、と願うのです。