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マルコによる福音書連続講解説教

2022.10.16.聖霊降臨節第20主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書15章33-41節『 わが神、わが神 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書を始め何度か通読すると、この福音書が独特な構成になっていることはすぐにわかってきます。難しい話は置くとして、皆さんが普通に読んでわかることの一つは、主イエスがエルサレム入りしてからの記述、すなわちわたしたちが受難週と呼んでいる1週間の記述が異様に長いということです。主イエスが福音伝道の活動を始められてから十字架にかかって死なれるまでどれくらいだったのか正確なことはわからないですが、今仮に3年として、3年の歩みを16章で書き記しているのですが、そのうちの1週間の記述が11章から15章まで続く。わずか6日の出来事がきわめて濃密に報告されている。ということは、逆に言えば、この極端にアンバランスな構成こそ、マルコ福音書の特徴だと言えるということです。これまでも申し上げてきたように、マルコこそ、史上初めて『福音書』というジャンルを確立した著者でした。マルコはこのアンバランスな構成において、主イエスの歩み、とりわけその受難の歩み、十字架に向かう歩みをこそ、読者に提示したかった。そしてそのうえで復活、という神のなさったわざに目を向けてほしい、と願っていた、ということがこの構成から如実にわかるのです。

 さて。主イエスが十字架にかけられたのは、午前9時でした。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」先週見たように、主が、人々から侮蔑、罵り、嘲りを受けられた、その後12時になる全地は暗くなった、というのです。新共同訳聖書はただ「暗くなった」と訳しているのですが、暗闇が生じた、暗闇が覆った、という言葉です。この闇とは創世記の冒頭に記されていた「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」、あの闇です。創造の時、地は混沌であり、暗黒が覆っていたのです。これはもちろん偶然ではない。神のなさる必然です。

 この闇とは何なのでしょうか。今日の聖書箇所に聞くうえで大事なことは、この闇を理解することです。

 キリストはわたしたちの罪を負って、十字架にかかられた。それは本来罪人が受ける罰をキリストが負う、ということでした。先週読んだ人々からの侮蔑も、罪人かが受けるべきものを受けたということでした。しかし罪の罰とは神が与えるものです。人間が与えるものではない。神が罪人に与える罰、それは神との断絶、関係の遮断ということです。それ以上の罰はない。神との関係が断たれる、そのことの恐ろしさ、そのことの不安、というものをわたしたちは実のところ知らない。そもそも私たちはキリストのご受難の歩みに聞いて、キリストが向き合っておられたことがよくわかっていないことに気づくのです。

 たとえばゲツセマネの祈りで、主がひどく恐れて悶え始められた、というあの場面がわからないのです。しかもその祈りがサタンに自分の身をゆだねることになる恐れなどということは想像の埒外なのです。

 十字架で罪の罰を受ける、その罰は神との断絶。その恐ろしさをキリストは誰よりもよくご存じでした。キリストにとってこの世界で最も恐ろしいことは、神に棄てられることでした。頼る者のない世界、すがる者のない世界、何の支えもなんも導きもない世界、それがどれほど恐ろしい世界か、わたしたちは必ずしもわかっているわけではない。ここで全地を暗闇が覆った、とあるのは、この世界の虚無が指し示されている徴です。

 小さな子どもが親と離れるような場面で泣き叫ぶ、ということがあります。子どもは本能で、これが切り離されたら、暗闇だということを知っているのです。自分を支えてくれるもの、自分を守ってくれるもの、自分を愛してくれるものが奪われたら暗闇だということをからだで知っているのです。大人になって、わたしたちは、神なしで生きていけると思っている。自分で生きていけると思っている。だが、神との関係が切断されたら、この世界が虚無に襲われることを知っているかどうか。

 聖書が語るのは、神との関係が切断されたら、この世界は創造前の混沌の世界、虚無の世界だ、ということです。

 キリストはそのことを全身で受けとめて十字架にかかっておられる。虚無と向き合っておられるのです。

 その中で主イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。主イエスの十字架上でのこの叫びはこれだけ切り離されて、引用されることも少なくないのですが、この言葉の背景にあるのは、神との関係を断絶されるという罰を受けたということです。神との関係を断ち切られるということは、存在の根拠が取り除かれるということです。なぜわたしが生きているのか、わたしが生きることにどんな根拠があるのか、その根拠が根こそぎ奪い取られること。だから、我々はこの暗闇の中で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の叫びを聞かなければならないのです。これこそが神によって罪の罰を与えられた人間の言葉なのです。

 主イエスは、最後に大声を出して、息を引き取られた、とあります。もう一度「わが神、わが神」と叫ばれたのかどうか。

 百人隊長のひとりが主イエスがこのような叫びの中で息を引き取られたのを見て、「本当にこの人は神の子だった」と言ったとマルコは書きとどめています。何をどう見て、このローマの人である百人隊長はこう言ったのでしょうか。

 それはあらためて言うまでもないことですが、主イエスの死に方が、英雄のような死だからでもなく、立派な死を遂げたからでもないことは明らかです。そうではなく、この百人隊長は、主イエスの死を見て、この方が本当に神との関係を断ち切られることを恐れていた、神から切り離されること、神から見捨てられることを恐れていたか、ということが伝わってきて、この方はまこと神との関係の中で生き死んだ神の子だったのだ、そう語ったのです。百人隊長は十字架の意味も、復活も知る由もない人です。しかし彼は主イエスと神とがどれほど深いつながりの中にあるのか、どれほど豊かな関係を生きてきたか、十字架を見て知らされたというのです。そして同時にこの関係が断ち切られることの怖れを十字架においてみたのでした。

 大事なことは何か。それは、キリストがなぜこのような場所で、「わが神、わが神」と叫ばなければならない場所に、暗闇の中に、虚無の中に、磔のままであり続けなければならなかったのか、そのことを知ることです。

 キリストは神なしの場所に罪人のひとりに数えられて、歩んでいかれたのです。

 そしてそこは、罪人であるわたしが立たなければならない場所なのだ、ということです。十字架がわたしの身代わりだ、ということは皆さんもこれまで繰り返し聞いてこられた、と思います。しかしその身代わりの中身、わたしが本来受けなければならない罰、その罰からわたしたちは目を背け、キリストがわたしの身代わりとしてどこに立ってっ下さったのか、見ようとしない。

 ちょうど男の弟子たちが、全員逃げ出して、十字架を見ようともしなかったように、わたしたちも見ていないのではないか。

 

 「わが神、わが神」というキリストの叫びは福音書を読む多くの人々の疑問を引き起こしてきました。救い主がなぜ、こんな断末魔の叫びをあげるのだ。キリストも不信仰に陥ったということか。救い主がなぜ絶望するのか。

 そういう問いに対して、キリストがなぜこの場所に立ったのか、くり返し福音書全体を読みながら思い巡らす必要があります。マルコは、最初に申し上げたように、主イエスの歩み、とりわけ受難の歩みを克明に書き記して、伝えたかったのです。なぜ救い主が、このような虚無の場所に立たれたのか。そこがわたしの立っている場所だからです。

 キリストは、神との関係が断ち切られていくその場所に立ち尽くしてくださった。それが人間の罪を負う、という最深の場所だからです。

 十字架での出来事を遠くから見守っていた一群の人々がいました。その中にマグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、これは主イエスの母マリアのことです。そしてサロメ。この女性たちは、イエスがガリラヤにおられたときにイエスに従って、世話をしていた人々である、世話をするというのは正確には「お仕えしていた」、「仕えていた」人々という言葉です。彼女たちは根本キリストに仕えていた女性たちでした。そして今、キリストが十字架にかかって死んでいかれるというこの時、「仕える」とはどういうことか、それは「見る」ということに他ならないのです。この十字架の出来事を見届ける。そして記憶する。それがキリストにお仕えすることになるのです。それはわたしたちも同じなのです。

 キリスト教信仰は、イエス・キリストの十字架をしっかりと見ることに始まるのです。なぜキリストが十字架で苦しんでいるのか、何を負って、どこで立ち尽くしているのか、それを見ることから始まるのです。

 たくさんの女性の弟子たちがキリストの十字架を見続けていた、とマルコ福音書は書き記しています。わたしたちもキリストの十字架の出来事を見る人になりたいと思います。そして「わが神、わが神」と叫ばれたその叫びに耳を傾ける人になりたいと思います。

 そしてそこで働かれる神の御業を知らされていきたいと思います。