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マルコによる福音書連続講解説教

2022.10.23.聖霊降臨節第21主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書15章42-47節『 墓に葬られる 』

菅原 力牧師

 朗読された今日の聖書箇所は、わずか6節の短い箇所です。しかし、わずか6節なのですが、ここでわたしたちが思い巡らすべきことはたくさん語られている、そういう大事な聖書箇所です。

 

 主イエスは午前9時に十字架にかけられ、午後3時すぎに息を引き取られた。刑の執行からはおおよそ6時間での死でした。しかし十字架刑の場合、刑執行から絶命まで、丸一日つまり24時間以上かかることも少なくなかったようです。主イエスの場合、ピラトがもう死んでしまったのかと不思議がるほどの短い時間だった。しかしそれは主イエスが十字架にかかる前、鞭打たれたり、葦の棒で頭を叩かれたりしたことが、大きく影響しているのかもしれません。主が息を引きとられたとき、群衆やローマ兵がその様子を見ていました。遠く離れてではあっても女性の弟子たちが、主イエスの死を見届けていました。しかしそれだけではなかったことを福音書は書き記しています。アリマタヤ出身のヨセフという議員でした。

 ローマの慣習では十字架の刑で死んだ者は、そのまま野ざらしにして、朽ち果てるに任せることになっていました。しかし、ユダヤの掟ではそうではなく、申命記にある通り、木にかけられた死体は、神に呪われたものだからこそ、放置してはいけない、という掟があったのです。ローマは、このような場合、ユダヤのしきたりに口出ししない、というスタンスでした。ところが、主が息を引き取られたのが午後3時過ぎということは、日没まで3時間弱。日没になれば、日が代わって安息日になり、死体にまつわる作業はできなくなります。もしこの時間の枠でしなければ、死体の葬りということは安息日後ということになります。この限られた時間の中で、遺体の引き取りをピラトに申し出る、という決断をしたのが、アリマタヤのヨセフだったのです。

 この人のことは、四つの福音書全てに出てきます。それはとても稀有なことで、しかも相当詳しく書き込んでいる福音書もあり、主イエスの遺体の葬りにヨセフが関わっていることをどの福音書も書きとどめている。ヨハネ福音書によれば彼はキリストの弟子だった、だが、最高法院の議員ということもあり、弟子であることを隠していた人だった、と記されています。あるいはルカ福音書によれば、ヨセフは善良な人で、最高法院の決議や行動には同意しなかった人だった、と記されています。福音書の足し算でヨセフという人物の姿が多少とも浮かび上がってきます。それは、彼がただ立派、というのではなく、陰影のある人物、高い地位にありながらも、イエス・キリストについて深く知り、信じてはいたが、立場上公にできなかった人だった、ということでした。だが彼は、神の国を待ち望んでいた人でした。その彼が、ピラトに遺体の引き渡しを依頼した。それは自分の立場を公にすることになっていったはずです。自分がキリストの弟子であることを、あらわにすることになっていった。ヨセフはもちろんまだ主の復活を知らない。彼が見たのは、十字架の死です。しかし彼はこの死を見て、自分の中の何かわからないけれど変化を今経験しているのです。12人の弟子たちをはじめ、多くの弟子たちはこの場所に不在。そして遠くから見守っていた女性たちは、見守るだけで、事実上手も足も出せない。家族たちは、引き取り手として名乗りを上げない。そのような中でヨセフのとった態度は、凛々しい。潔い。各福音書の著者たちは、このアリマタヤのヨセフのことを忘れてはならない、と受け取っている。

 主イエスは死んだのです。死体になった。わたしたちが礼拝で、毎回共に告白する「使徒信条」。その中でも「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り」と告白されている。どうしてこう告白するのでしょうか。十字架で死んだ、というだけでもよさそうなのに、なぜ、葬られ、と告白するのでしょうか。死んだ、というだけでなく、葬られということが大事なことなのでしょうか。

 葬られたとは、主イエスが遺体となって亜麻布に包まれ、墓の中に納められたこと、その事実そのもののことです。

 主イエスは死んで直ちに神にみもとに行き、神と共に在った、と聖書は語っていない。葬られた三日間がある。

 それは、地上の生でもない、神のみもとでもない、と呼ぶほかない時です。

 「墓の中の死せるキリスト」と題する有名な絵画があります。16世紀に活躍したドイツの画家ハンス・ホルバインの作品です。

 題名通り、墓の中の死体となったキリストを描いたもので、当時の解剖学的な見地から、死後三日目の死体を描いたと言われています。ホルバインは腐敗の始まっている死のイエスの肉体を、写実的な描き方で、克明に描いている。ローマ兵によって主の脇腹に槍が刺さった、その傷口も腐敗し始め、足は黒々となっている、その死体をグロテスクなまでにリアルに描いた絵画です。ドストエフスキーという小説家はこの絵を旅先で見て、大変な衝撃を受け、癲癇の発作を起こしたと言われています。彼の書いた小説の中で、この絵を見た登場人物が、こんな絵を見たら、誰もが信仰を失う、復活などあり得ないと思うだろう、と叫ぶがシーンがあります。つまり墓の中の死せるキリストという絵は、死の絶対的な力を感じさせるものだ、ということです。すべてを?み込む死。しかし、この絵が語るのはそれだけではない、ということを小説家は感じていました。

 確かに残忍な絵なのですが、我々を立ち止まらせる絵でもあるのです。つまり死体としてのその絵画は残忍であっても、そこで描かれているのは、人が死んでいるという事実。あえて言えば、死体としてそこにあるけれどその人はいない、非存在ということなのです。キリストという存在はもうない。その人格はもうない。失われているのです。使徒信条がいう陰府に降りという場合の陰府とは、神のみもとにも行っていないということです。神から遠く離れた死者の世界。墓の中のキリストを描けば描くほど、そこにもうキリストはいない、ということをわたしたちは受け取る。じゃあどこにいるのか。それもわたしたちにはわからない。使徒信条はわざわざ陰府に降りと告白する。

 

 ハンス・ホルバインという画家がどうしてこんな絵を描いたのか、実はよくわかりません。16世紀に活躍した画家にとってペストによってヨーロッパの多くの人々が死んでいったことは周知のことだったのでしょうが、そうしたことに限らず、人間があっという間に非存在になる現実をある意味その時代の人々の方がもっとよく肌で感じていた。

 ホルバインはこの絵によって、死の絶対的な力を表現するのみならず、一方で、非存在のキリストを画家は描きたかったのではないか。

 画家がこの絵をどうして描いたのか、わからなくとも、わたしはこの絵を見て、キリストがこの世にお生まれ下さったということ、受肉してくださったということは、ただこの世に生を受けた、ということだけでなく、死んで、死体となって、非存在になってしまう人間、そこにまで受肉してくださった、ということなのだ、という受けとめさせられてきました。

 

 使徒信条の告白は、そのことを告白しているのではないか。キリストは乙女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、それは人間の生と死、とりわけ、死体となって非存在となる人間に受肉してくださった、ということの告白なのではないか。

 ヨセフが主イエスの遺体を墓に納めた。主イエスは死んで直ちに神のもとに行って、天上での歩みを始めた、というのではない。そのヨセフが収めた墓の中に遺体となって横たわったのです。墓の中のキリストはまさに死体なのです。キリストは非存在となって墓の中におかれている。

 このキリストを復活させ給うたのは、神です。神のみの働きです。肉体も霊も、どのようにかはわたしたちには全く分かりませんが、神が復活させ給うたのです。わたしたちの生と死を最後まで担ってくださったキリスト。非存在になって非存在を負ってくださったキリスト、このキリストを神が復活させ給うた、それがわたしたちのキリスト教信仰です。そしてわたしたちも、神によって復活させられることを受けとめているのです。それまでの間のことはもちろんわたしたちにはわからない。しかし、確実に示されていることがある。それは主イエス・キリストが死んで、葬られ、墓の中に置かれたその時、非存在となっていた時も、キリストは神の御手の中にあり、やがて復活の時を迎えることになった、ということです。墓の中の主イエスも神の御手の内にあったということです。捨て置かれてはいない。神の働きの中にあるのです。そして三日後によみがえらされたのです。

 だから、わたしたちは、死者を神の全権にすべてお委ねするのです。そしていつの日にか、神の定め給うたときに、わたしたちをみ前で復活させてくださることを信じてお委ねするのです。

 

 アリマタヤのヨセフは、十字架をどこかで見つめていた。そして主イエスの死を見て、よくわからないなりに自分のできることをしようとした。女性たちもマグダラのマリアと、主イエスの母マリアも、墓の中に納められたその場所を見つめていました。主イエスの死を見つめる、そこにある事実と、そこから起こっている出来事をわたしたちは見る必要があるし、それがわたしたちの信仰と不即不離なのです。