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マルコによる福音書連続講解説教

2022.10.30.聖霊降臨節第22主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書16章1-8節『 主イエスは復活した 』

菅原 力牧師

 安息日が終わると、女性たちは、香油をもって墓に急ぎました。彼女たちは、主イエスが十字架で苦しんでいる時も、死んで葬りが行われるときも、何もできませんでした。歯がゆい思い、情けない思い、やりきれない思いをしてきた。

 せめて、安息日が明けたら、すぐに墓に行って主のご遺体に香油を塗りたい、そう思って急いだのでしょう。その彼女たちにとって墓の入り口の前におかれた大きな石、その石を誰が動かしてくれるのか、ということがさしあたっての心配でした。しかしそれを誰かに頼むよりも前に彼女たちの体は墓に向かっていました。ところが墓に着くと石はすでに脇に転がしてあり、彼女たちは墓に中に入っていくことができたのです。墓の中には、白い衣を着た若者が座っていました。女性たちは驚きました。若者が墓の中にいることも驚きですが、遺体が無くなっていることに動転したのではないか。

 若者は言いました。「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」この若者は、天使なのだ、と読む人もいますし、この若者はマルコ福音書に登場する人物なのだ、という人もいます。この話はそれ自体とても興味深いのですが、話すと長くなりすぎるので、今はあえて特定せず、3人の女性に語りかけるものがいた、とだけ読んで前に進みます。

 その若者が、十字架につけられたナザレのイエスは復活されて、ここにはいない、と告げ知らせるのです。墓の中の遺体は、盗まれたのでも、誰かが持ち去ったのでもない、復活させられたのだ、と告知するのです。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 いつも申し上げるように、聖書の時代の人々だから、復活であれ、何であれ、信仰心が強く、信じることが容易だった、というようなことはありません。古代の人々であっても、復活を信じない人々はふつうでした。墓に行った3人の女性たちの反応を見ていくと、驚いた、逃げ去った、震えあがった、正気を失った、と信仰的態度と呼ばれるものは全く違う反応が連続しています。そしてその彼女たちの反応は、わたしたちにもよくわかるのです。

 もし仮に彼女たちが主イエスの遺体が誰かによって盗まれた、と判断していたら、怖いとか、恐ろしいと思ったでしょうが、正気を失う、というようなことはなかったはずです。墓に行った女性たちにとって、死んで遺体になって葬られた人が復活した、ということは「はい、そうですか」というようなことではなく、全くわけのわからない、茫然自失という出来事だったのではないか。そもそも本当に復活が起こったのかどうかも、彼女たちにはわからない。だが、ここで何かが起こっている、ということは感じていた。盗んだとか持ち去ったというのではない、何か。だがそれが神による主イエスの復活、という具合に一直線にはつながらない。若者の言葉を聞いても、彼女たちは弟子たちにこの言葉を伝えようとはしてはいないのです。誰にも何も言わなかった、ということは、この若者の言葉それ自体どう受け止めていいのか、わからず、震えあがっていた、ということです。

 彼女たちは逃げだした。正気を失う、ということは正常な意識や感覚ではいられない状態になった、ということです。彼女たちは見ず知らずの若者から、主イエスは復活した、と聞いた。だが、だからと言って主イエスの復活という出来事を信じたわけではない。そんなバカな、と言ってさっさと帰った、というのでもない。宙ぶらりんの、わけのわからない状態。しかし、この時この女性たちは、何か大きな力の前に立っていた、と言えます。

 マルコによる福音書のもともとのオリジナル、それは8節までだった、というのが今日、多くの学者たちによって言われていることです。マルコは8節でこの福音書を書き終えていた。実際9節以下は皆さんの持っている聖書が括弧(亀甲括弧)の中に入れているように有力な写本にない部分です。のちの教会が書き加えた、部分です。だから9節以下はどうでもいいということを言っているわけではなく、9節以下を含めて最終的にはマルコによる福音書として形を成したのです。そのことについては、9節以下の説教で触れるとして、マルコは、主イエスの復活という出来事の前で驚き、震えあがり、正気を失った人々を書きとどめて、この福音書を閉じようとした、ということです。映画的に言うなら、ハッピーエンドで終わっていない。例えば彼女たちは、若者の言葉を聞いて、かねてから主イエスから聞いていた通り、十字架で死んだ後、三日後に甦られた、予告通り。だから彼女たちはもろ手を挙げて復活を信じ、神の偉大な働きをほめたたえて讃美した、そしてそこに弟子たちも加わって、共に信じ、みんなで神に祈りをささげた、ということがここに記されているわけではない。ルカ福音書が主イエスの誕生物語で描くように、天使ガブリエルがマリアに現れた時、マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」と言った。そのような態度は、ここでは全く見られない。わたしたちはこのマルコ福音書の16章から何を聞くのか。

 最初の復活の出来事を女性たちが信仰において受けとめられなかったのは、彼女たちの不信仰の問題なのではないか、そう受けとめる人もいるかもしれません。もっと信仰深い人たちがこの場に居合わせたら、この出来事への対応はちがうものになっていたかもしれない。しかしそうした理想の形を読み取りたいという気持ちはともかく、ここで、聖書が語っていることはそうした直面した人たちの信仰、不信仰の問題ではない。

 女性たち3人はこの墓の出来事の前で信じるとか、神に感謝するというのではなく、正気を失った。逃げ去った。しかし、9節以下でも、他の人々も彼女たちがいうことを聞いても信じなかった、残りの人々も信じなかった、と繰り返すように記されています。つまりこの出来事の前で、誰か一人の信仰のあるなしや不信仰が問題になっているのではない、ということです。その場に居合わせた人、それを聞いた人、誰にとってもこの出来事は信じられないことだった、と聖書は報告しているのです。この事実をわたしたちはどう受け止めるのか、ということです。

 

 誤解を恐れずに言いましょう。彼女たちが持っている信仰は、ここでは役に立たなかった、ということなのではないか。

 持っている信仰とは、彼女たちが漠然とではあっても、持っていると思っていた信仰ですよ。神さまは信じてます、それは信じてます、というような信仰ですよ。自分の頭で考え、自分なりの考えで主イエスのことを捉え、受けとめ、信じていこうとするような、とにかく自分なりに作り上げようとするお手製の信仰、それは役に立たなかった、ということでしょう。自前の信仰はここで行き詰まっているということです。

 

 例えば、ペトロは主が十字架にかかる前には、自分はどんなことがあっても躓きません、と頑張って言っていたのです。これが彼の自前の信仰です。自分が持っている信仰に自信があったのでしょう、ペトロは。しかし主イエスが逮捕されると彼はあっさり逃げ出してしまい、十字架を見届けようともしなかった。つまり彼の自前の信仰は土壇場でまるで役に立たなかった、ということです。ここでも同じ。彼女たちの持っている信仰は墓の前では何の役にも立たず、ただ逃げ出してしまうだけなのです。ここで大事なことは、ペトロにせよ、マリアたちにしろ、自分の持っている信仰が、役に立たない、という局面にぶつかっている、ということなのです。そういう場面にわたしがいる、ということそれ自体が大事なことなのです。

 わたしたちのお手製の信仰は神の働きの前では役に立たないのです。なぜならわたしたちのお手製の信仰は多くは人間の了解の範囲で作られた、人間の知恵や経験の枠の中で作られたものだからです。それが神の大きな働きの前ではあまりに小さな器だ、ということはわかりやすいこと。しかしもっと踏み込んでいえば、小さな器で神の働きを受けとろうとするため、その器自体が邪魔をしている、ということに気づかない場合も少なくないのです。自分の信仰が神の働きを受けるのを邪魔している。ああ、なんということか、と思います。

 マルコによる福音書はあれほど十字架のことを詳しく書きながら、復活のことはあまりに短い、そう思う人もいるでしょう。確かにそうです。しかし、マルコはイエス・キリストがわたしたちのためになしたわざを目を凝らして見よ、見つめなさい、と語りかけている。そしてそのイエス・キリスト、それは死せるキリストなのですが、その死せるイエス・キリストの全体を鷲?みするようにして働く神の働きの前に立ちなさい、と呼びかけているのではないか。別に自分の信仰の力それを信じ込もうなどと思わなくていい。マグダラのマリア、イエスの母マリア、サロメといったすぐれた女性たちも信じて仰ぐことはできなかった。そもそも、神の働きの前で自分のお手製の信仰が役に立たなかった、ということはダメなことでも致命的なことでもない。当然のこと。むしろそれによってわたしたちは自分のお手製の信仰を手離して、もっと別のものを受けとる。それは神から与えられる信仰、と言っていい。だがそれは難しいややこしいことではない。

 神が働く、ということの前に自分の身を置くだけでいい。もともと信仰とは、わたしが生み出すものでも、捻り出すものでもないのだから。信仰は、パウロの言うとおり、神の恵みのわざに出会うことで、生まれるもの、与えられるものだから。神の恵みのわざの前で、ありがとうございます、というそれが信仰だとして、ありがとうございますが生まれる根拠は相手のわざ、働き恵みなのです。わたしの行為ではない。

 

 女性たちも今はまだ感謝には至ってはいない。震えあがっている。しかし、大きな力の前には立たされている。そしてその力の前で、右往左往しながらも、その力の中にある自分を受けとめ始めていくことこそが大事なのです。神さまのあまりに大きな恵み、主イエス・キリストの復活はわたしたちに与えられたのです。十字架と復活の救いの業は神によってこの世界に与えられたのです。この恵みに出会い、その恵みの中にある自分を感じ始めていくことからすべては始まっていくのです。マルコはその新しい始まりを、ここで書き記そうとしているのです。