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2022.11.6.聖徒の日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書16章16-24節『 悲しみは喜びに変わる 』

菅原 力牧師

 2022年の聖徒の日を迎えました。聖徒とは聖なる恵み、すなわちキリストの恵みにつながれた人々のことです。

 聖徒とは、地上の生涯を終えて神の御許に帰った人たちだけを指す言葉ではありません。今この地上の生活を苦しみや悲しみや痛み、さまざまなものを負いながら歩んでいる人をも指す言葉で、その中で、キリストの恵みにつながれた人を指す言葉でもあるのです。したがって、聖徒の交わりというのは、すでに地上の生涯を終えた者と、今生きているものとの交わりもを指す言葉で、今朝わたしたちは聖徒の交わりの中にあることを特に深く覚えて、神を礼拝する、そういう主の日であることを心に留めたいと思うのです。

 さきほど朗読した聖書箇所はヨハネによる福音書の言葉ですが、ここは14章から続く主イエスの十字架直前の別れの説教と呼ばれる説教の一部です。

 16節に「しばらくすると、あなた方はもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とあります。ここで主イエスは十字架を目前にして、弟子たちに語りかけています。弟子たちは、主の言葉の意味が分からず、主イエスの言葉を繰り返して、これは何のことなのだ、という場面が最初です。実はヨハネ福音書にはこういう場面が多い。ある意味弟子たちは無理解だったり、よく受け取れていない。しかしそれで反芻することになる。問い返す。それが大事なのです。ここもそうです。主イエスは彼らがわからずにいることを感じて、あらためて語り始める。

 

 「はっきり言っておく。あなた方は泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」主はもうすぐ十字架にかかり、そこで死ぬ。その後復活して、主は弟子たちに現れるのですが、しばらくの時を経て、父なる神の御許に帰る。十字架復活の後、主イエスは地上からいなくなる。その姿は見えなくなる。そのときのことを言っているのです。あなた方は泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。世は喜ぶ、とはキリストを信じる者たちを迫害する世の人々は、喜ぶ、というのです。最初の教会の人々にとって、キリストがもうこの地上にいない、ということはつらいことだったでしょう。だがもう見えない。直接話を聞くことも、直接主の姿に触れることも叶わない。その見えない中で、救い主を信じていく、と言っても、それは本当に確かなことなのか。どうなっていくのか。しかも一方で現実には教会への迫害は激しくなっていく。ヨハネ福音書が書かれたころは、すでに様々な迫害があった。圧倒的に厳しい現実の中で、目に見えない主イエスを信じていくことに果たして意味があるのか、そういう疑問、疑い、不安、迷いが起きてくるのです。主イエスが語っているのは、そのような中に弟子たちへの言葉です。「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」

 弟子たちはおそらくこの時、主イエスの十字架の死もわかっていない。まして、主イエスが復活したのち、神のみもとに帰って、地上には主イエスがいない状況もわかっていない。だが、彼らが、彼女たちが、深い悲しみや苦しみの中におかれることは、必至だった。福音書は主イエスの十字架と復活の後何十年もたってから書かれたものです。ヨハネ福音書の最初の読者たちは、この主イエスの言葉を、どれほど心を砕いて聞いたことか、と思います。まさに彼らは、主イエスがいない、見えない現実の中で、苦しんでいたからです。

 22節「ところで、今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」主はこう言われた。今の悲しみ、苦しみが喜びに変わるのは、主イエスと再び会うことによってだ、というのです。

 再び会う、というのは、いつのことでしょう。

 繰り返しになりますが、確かに復活して、主イエスは弟子たちと再びお会いになった。だが、しばらくして主は父なる神の御許に帰っていかれた。そして地上からいなくなった。

 

 主イエスがここで言われる再び会うというのは、終わりの日の話でもない。終末の時、わたしはまたやってくる、というあの再会でもない。ではいったいどういう再会なのか。それがヨハネ福音書14章からの別れの説教の大事なテーマ。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受けいれることができない。しかし、あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからもあなた方の内にいるからである。」再会は、別の弁護者、聖霊による再会であり、しかもこの聖霊はあなた方と永遠に一緒、あなた方と共にいて、これからもあなた方の内にいるのだ、この霊が、イエス・キリストとの再会をわたしたちに与えてくれるのだ、というのです。

 主は続けてこう言われる。「わたしは、あなた方をみなしごにはしておかない。あなた方のところに戻ってくる。しばらくすると世はもうわたしを見なくなるが、あなた方はわたしを見る。わたしが生きているので、あなた方も生きることになる。」キリストはわたしたちを孤児にはしない、と言われるのです。一人ぼっちにも、孤立して生きるものにもさせない、と言われる。あなた方のところに戻ってくる。世はこのわたしを見なくなるけれど、あなたたちはわたしを見る。「見る」と言われる。それは肉眼で見ること以上の「見る」なのではないか。キリストが今も生きて、わたしたちの中に生きて、わたしの中で生きて、わたしと共に在って、わたしと共に歩んでくださって、わたしを負ってくださって、わたしと共に生きてくださる。だからわたしも生きる、みなしごとしてではなく、孤立したものとしてではなく、キリストと共に生きるものとしてのわたしを見て、そしてそのわたしを生きる。

 これが主の約束の言葉です。十字架にかかる直前のキリストの約束の言葉なのです。

 

 ヨハネ福音書では聖霊のことは弁護者と呼ばれています。弁護者は、父なる神と主イエスから弟子たちに、そしてわたしたちに遣わされる。弁護者というのは、助け主と訳される言葉で、わたしたちにおいて働き、わたしたちの中にあって真理を弁護し、真理を明らかにしてくださる霊なのです。14章26節に「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。すなわち弁護者なる聖霊は、主イエス・キリストの存在と、そのみ言葉をわたしたちの中で明らかにし、想起させてくださる霊だ、というのです。この弁護者の働き、霊の働きこそが、「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われている喜びへと変えてくださる力なのです。

 キリストの不在にあなた方は悲しむが、弁護者たる聖霊の働きにおいて、キリストに出会い、共にいてくださるキリスト、わたしの内に生きてくださるキリストに出会い、まことの喜びに包まれるというのです。見えないけれど見るという経験をしていくのです。

 

 今日の聖書箇所の26節に「その日には、あなた方はもはや、わたしに何も尋ねない」という不思議な言葉があります。その日とは、聖霊がわたしたちに与えられ、キリストが再会してくださるときです。わたしたちの悲しみが喜びに変わるその日です。その日にはもはや私たちは主イエスに何も尋ねない。尋ねる必要がなくなるからです。聖霊によって、父なる神が主イエスにおいてわたしたちを救い、主と共なるわたしであり、主がわたしの内で生きてくださるわたしであることがはっきりとわかるようになるのです。

 聖霊によってわたしがみなしごにはならないことがわかり、キリストが永遠に共にいてくださる主であることがわかるようになるのです。そしてそのようにキリストと神に愛されている自分がわかるなら、わたしたちのいろいろな疑問は解消されていくというのです。

 

 わたしたちは、最初に申し上げたように、主につながれた聖徒です。そしてこの聖徒は、今地上生きているものだけでなく、地上の生涯を終えて神の御許に帰った人々も、聖徒なのです。地上の生涯を終えた者たちも、主につながれているのです。だから聖徒なのです。

 そしてわたしたちが、主イエスによって約束された聖霊の働きの中で、今こうして主イエスによって活かされ、主イエスが共にいてくださり、わたしの中でキリストが生きてくださって、活かされているように、地上の生涯を終えた者たちも、主イエスにつながり、主イエスと共に在るのです。

 わたしたちはそのことをも、聖霊の働きの中で受け取り、信じていくのです。そして、その事実を受けとめる中で、聖徒の交わりの中に活かされていくものでありたいと思うのです。死んだ一人一人は、どうなっているのかわからない一人一人なのだ、というのではなく、主につながれた一人一人なのです。

 わたしたちは、今を生きるものとして、聖霊の働きの中で、キリストの存在とみ言葉を、何度でも受けとめ、聞き、キリストが共にいてくださる自分をまず生きていきましょう。そしてそのことの中で、つまりキリストの恵みの中で、聖徒の交わりを、すでに神のもとに帰った人々との交わりを深く深く味わっていきましょう。