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マルコによる福音書連続講解説教

2022.11.13.降誕前第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書16章9-20節『 復活を信じなかった人々 』

菅原 力牧師

 先々週の説教、マルコ福音書16章の1節から8節までの聖書箇所のところで、3人の女性たちが主イエスは復活したという若者の言葉を聞いたけれど、震えあがり、正気を失い、恐ろしくなって逃げ去った、ということをわたしたちは聞きました。十字架にかかる最後まで見届けたこの3人の女性たちも、復活の知らせの前で信じて感謝するというような応答ではなかった、というだけでなく、端的に信じられなかった。その事実を聞いたのでした。

 それに続く今日の聖書箇所にも同じようなことが書かれています。先々週の説教でも申し上げたように、9節から20節まではマルコ福音書のオリジナルにはなかった部分です。後の人々がここに書き加えていった部分です。しかし教会はこの部分も含めマルコ福音書として形を成したのです。

 ここで、マグダラのマリアが再度登場します。彼女が復活の主と出会ったことが記されています。マリアが復活の主と一人で出会った、ということなのです。マリアはイエスと一緒にいた人たちのところへ行って、そのことを知らせます。しかし、その人々は、主が復活されたこと生きておられることを、マリアが主イエスを見たことを聞いても信じなかったのです。

 また主イエスの弟子たちの内の二人が田舎に出かけたとき、復活された主が別の姿で彼らにご自身を現された。この二人も他の人たちのところへ行ってこの話をしたが、誰も信じなかった、というのです。

 9節から13節に書かれているのは、復活の主イエスを目撃した人たちの話も弟子たちのうち誰も信じなかった、ということです。

 8節までで、主は復活したという告知に対して逃げ去った女性たちのことを記録されていた。興味深いのは、その彼女たちの不信仰を修正するような、すぐに気を取り直して信じる者となっていった、というようなことが9節以下で記されているのではなく、やはり弟子たちも信じなかった、という記述があることです。これはとても大事なことだと思われます。つまり前回も申し上げたように、主イエス・キリストの復活という出来事の前で、信じられない、という態度がある特定の人の問題ではない、ということです。誰であれ、復活を信じるということは人間の中の納得とか了解のスイッチが入るものではなかったということです。

 復活された主イエスは弟子たちが食事をしているところに現れて、不信仰と頑なな心を咎められた、とあります。それは「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とあります。それはいったいどういうことなのでしょうか。ただたんに、不信仰で嘆かわしい、というようなことではないでしょう。主はわたしたちの不信仰をご存じの方です。かたくな心、ということは、信じられなかったということがわるいとかダメだということよりもそこで終わってしまってはいけない、そこでうずくまってしまってはいけない、ということが込められた言葉なのでしょう。復活の前で躓いて、そこから信じる者とされていきなさい、と呼びかけておられるのです。

 それはいったいどういうことなのでしょうか。

 主はマグダラのマリアにご自身を現されています。

 この短い聖書箇所で三回、復活された主イエスは現れている。しかし、繰り返しますが、復活した主イエスを見ても、直ちに信じるとか、ひれ伏したとか、神を讃美したということは一切記されていません。見てもなお信じられない、人間の姿をそのまま描かれているのです。

 見れば信じられる、という人がいますが、決してそうとも言えない。そもそも見て信じるということは、見ている自分を信じることであって、自分の了解のスイッチが入り、自分が納得、了解する、ということでもあるのです。

 若者の言葉を聞いても、実際に復活した主イエスの現れに出会っても信じられなかった。よろしい。その事実は事実です。しかし信じられないものに、復活の主は出会ってくださった、ということがここに記されているのです。

 信じられない、それは致し方ない。しかしそれで終わりなのではない。自分が信じられない、そこで終了なのではない。復活に躓き、復活の告知を聞いても驚き動転するしかないあなたに、働きかけて現れて、語りかけてくださる主イエスがいるということに心を開きない、ということです。信じられない、というのはマリアの心の動きです。わたしの心の動きです。しかしそのマリアに、そのあなたに働きかけ顕れてくださる方がいる、ということが聖書の語るメッセージです。

 マグダラのマリアはこのイエスの顕現・現われに出会って信じたとは、記されてはいない。しかしマリアは混乱のうちにも、このことを主イエスと共にいた人たちがいるところに行って、このことを知らせたのです。

 それは、確信に満ちた、喜びに満ちた福音の宣べ伝えというものではなかったでしょう。それでも彼女は、自分の中に確信がなくても、わたしに働きかけて出会ってくださった方がいる、働きかけられている自分を感じ始めているのです。つまづいて信じていく、信じられない自分が信じていく道がここに開かれているのです。

 もともとわたしたちの中には、復活を受けとめうるような信仰などない。自分のお手製の信仰ということを、先々週にも申しあげましたが、それはしばしば自分本位なものです。復活のキリストが受けとれないのは、わたしの信仰が足りないからでも、勉強が足りないからでもない。もっと精進することで確かな確信を得ることができるのではないか、と思う人は少なくない。しかし、そうやってつくられる信仰はしばしばお手製の信仰のヴァージョンアップにすぎず、それも挫折する。

 つまり、お手製の信仰は挫折していいし、つまづいていいし、そうならざるを得ない。大事なことはそこから神の与えてくださる信仰を受ければいい、ということなのです。そのとき信仰は、自分の納得了解の信仰から、自分の外から働きかけてくるものを受けとる信仰へと信仰そのものが代わっていくのです。

 どう変わるかと言えば、自分の納得了解というようなことに拘泥する信仰から外からの働きを受ける以外ない、ということを知る信仰に変わるのです。自分に働きかけているものに心を開き、耳を澄まし、目を見開いていく、つまり自分の中を見るのではなく、自分の外から声に聞く者とされていくのです。

 主イエスは弟子たちに現れ、弟子たちに語りかける。「全世界に行って、すべての創られたものに福音を宣べ伝えなさい。」繰り返しますが、この時弟子たちは、主イエスを裏切り、逃げ出し、引きこもっていたのです。かつ主イエスの復活の知らせを聞いても信じなかった、そんな状態だったのです。それなのに、主イエスはその弟子たちに歩み寄り、現れ、語りかけ、使命を託すのです。驚きです。

 主イエスの復活を了解し、納得し、神を讃美し、ほめたたえた者が一人もいないにもかかわらず、なのです。なぜ主イエスはこのようなことをなさったのか、と思うと、復活のいのちを受けとるということは、人間にとって、こういうことでしかないからだろうと思わされるのです。

 主イエスの復活を納得し、了解した者が使命を与えられる、というのではなく、つまづいても、不信仰であってもあなたに働きかけられる主が、語りかける主があなたの使命を託していかれる。その主イエスの言葉に巻き込まれながら、あなたは復活の主のいのちの中で、活かされ、その姿のままで福音を証しし、使命にお仕えしていく。16節の言葉は主イエスのたとえなどでよくみられるレトリックで、救われるもの、滅びるもの、という表現で、だから、あなたはこのいのちに活かされるものになりなさい、と呼びかけておられるのです。そしてその歩みの中で、徴が与えられる。五つの徴です。悪霊を追い出す、新しい言葉を語る、手で蛇をつかむ、毒を飲んでも害を受けない、病人に手を置けば治る、それが与えられるしるしだというのです。悪霊というのは、神からわたしを遠ざけようとする力、と同時に自分の勝手に思い浮かべる神と自分のいいようにつき合おうとさせる力のことです。そういう力をあなたはあなたの持てる力やあなたの信仰力で追い出すのではなく、あなたに働きかける復活の主の言葉に聞きながら、追い出していくのだ、というのです。

 まったく同じように、新しい言葉を語るとは、あなたの持っている言葉ではなく、主があなたに語りかけてくださる主の言葉に、日々聞いて、わたしは新しい言葉を、キリストを証しする言葉を語り始めていくのだ、ということです。蛇は誘惑の象徴。神から遠ざかり、自分の都合のいい神に近づこうとする誘惑をつかみ取っていくというのです。毒とか病とか、それは我々を混乱させるもの、時には死に至る危険なもの、そういう中でわたしたちは自分の力でそれを乗り越えていくのではなく、働きかけてくださる方の力を受けて、その方のいのちの中で生きる、それがわたしたちが復活のいのちの中で生きることの徴だというのです。

 マグダラのマリアをはじめ、弟子たちを通して示されること、それは等身大の自分でいい、ということ。不信仰で、つまづき多く、神の恵みには鈍感なわたしが等身大の自分として今ここにいるなら、それはそれ。しかしここからが大事。自分の中にあるもので信じようとする信仰が行き詰まり暗礁に乗り上げる、その場所は神の働きかけを受ける大事な場所で、そこから与えられる信仰によって歩めばいいのです。弟子たちがそのことをまこと経験し、受けとめていくのは、ペンテコステの後になっていきます。しかし、わたしたちはその弟子たちにすでに復活の主イエス・キリストが歩み寄り働きかけ、語りかけてくださっている、という恵みの事実に目を開かれていきたいと思います。