2022.11.27.アドヴェント第1主日礼拝説教
聖書:ルカによる福音書21章25-36節『 解放の時 』
菅原 力牧師
2022年のアドヴェントの朝を迎えました。わたしたちは生活するうえで、いろいろな暦を持っていますが、教会暦も暦の一つで教会の一年の歩みをそれによってたどるものです。そして教会暦は、アドヴェントから1年の歩みが始まることになっているのです。どうしてなのか、素朴な疑問です。
今日の聖書箇所は、この日に読むよう聖書日課によって定められた聖書箇所です。つまり教会暦の最初に読む箇所、ということです。どうしてこの箇所なのか、というのも不思議です。
アドヴェントは、到来という意味のラテン語ですが、クリスマスという主イエスの地上の降誕(到来)を覚えつつ、さらに主イエスの再臨(到来)の時、終末の救いの完成の時を仰ぎ見て、その終末の到来の約束を信じて生きる、それがアドヴェントの意味です。終末の時を仰ぎ見る、それが教会暦の最初のことだ、ということを深くかみしめていきたいと思います。
さて今日の聖書箇所ですが、内容的に三つのことから構成されています。
ひとつは、25節から26節。一つは27節。そしてもう一つは、28節以下です。25節から26節にはこれから先、将来起こることが未来形で語られています。動詞の形にこだわって言うなら、太陽と、月と星に徴が現れるだろう、不安に陥るだろう、気を失うだろう、と将来のことが語られている。そして27節で人の子が雲に乗ってくるのを人々は見るだろう、と語られている。それから28節以下では未来形ではなく命令形で「あなたがた」に向かっての言葉が語られているのです。構成としてはある意味ひじょうに輪郭のはっきりしたわかりやすい構成なのです。
わかりやすい、と言うと語弊があるかもしれません。この箇所自体は主イエスが終末について語っているので、終末そのものがわかりにくい人にとってはそもそもよくわからない、という箇所でありましょう。しかし今、あまり難しい話はさておき、当時の人々が終末はいつ来るのかとか、終末はもう近いのか、という切実な問いを持っていたのです。それに対して主が応えてくださっている場面なのです。終末前には、さまざまなことがあるだろう、といっているのです。これはルカ福音書21章の5節からずっと続いている話なのですが、偽預言者が出てきたり、戦いや暴動がおこったり、天地の変動があるというような話を主は続けて語っておられる。そして人の子がやってくる時が来る、つまり終末の時はやってくると言われる。しかしそれがいつ来るとか、何年にやってくる、というような話は主イエスは一切しておられない。主イエスが語るのは、そういうことがさまざま起こるにせよ、惑わされる必要はない、と弟子たちに語り、今この時をどう受けとめて生きるか、という話なのです。それが先ほど言った、未来形と命令形という話に繋がります。確かにこれから将来に、いろいろなことが起こる。だが、あなたがたは惑わされることなく、こう生きよ、という話の構成なのです。
主イエスは今日の聖書箇所の少し前のところ13節で証しの機会ということを言っておられる。キリストを、イエス・キリストの福音を証しする、それが今という時なのだ、という話です。さらに、33節では天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない、と語られた。この世界は変わっていく、滅びるものは滅びていく、驚くべき変動もある。しかしこの地上において滅びないものがある、それはわたしの言葉、神のことばだ、といわれるのです。であれば、わたしたちは変わりゆく世界の中で、この滅びることのない言葉に聞き続け、その言葉によって生きること、それが大事なのだ、ということになるでしょう。
しかしそもそもなぜ、わたしたちは終末ということを聖書から聞く必要があるのでしょうか。聖書の時代の人々が、終末、という緊迫した環境の中にあったことは理解するとしても、今を生きるわたしたちが、なぜ終末ということを受けとめて生きる必要があるのか、そう感じている人は少なくないかもしれません。わたしたちの暮らす日本社会では終末という言葉が、まともに受けとめられているとはとても言えない。クリスチャン自身が終末ということをまともに聖書に聞こうとしていない、という現実があるかもしれません。
わたしたちが、聖書の語る終末ということをしっかりと受けとめて生きていく、それはどのような意味で大事なのか、今朝はその中で二つの事を申し上げたい。
一つは先週マルコ福音書の最後で語ったことです。マルコは福音書において物語、神のなさった物語を提示した、という話をしました。終末は、それだけ切り離されて読む話でも、出来事でもない。神のなさる大きな、旧新約聖書全体の物語の終わりの物語です。わたしたちは、福音の中で、今現在の自分の救いということだけを知らされているわけではない。旧約における神の働きと、歴史の中で生きて働く神の導き、そしてイエス・キリストをこの世にお与えくださった神の御意志、そして十字架と復活の救済のわざ、その救いのわざを受けとめて人間を神はどこへ導こうとしておられるのか。この世界の救いを神はどのように行われるのか。そうした、とてつもなく大きな物語が聖書全体において語られる。
わたしたち、イエス・キリストの救いに与ったものは、この神の救いの業の物語を全体・全貌へと招かれている。神さまの救いはどのような広がりがあって、どのような物語へとわたしたちを招いておられるのか、そのことを知ることは、わたしたちにとって深い喜びなのです。その際、その物語の終わりだけを、しかも終わりがあるらしいぞ、という断片だけを切り離して、読むのではなく、その物語のはじめから終わりまで、それが大事なことは言うまでもない。そしてその物語の全体を知らされて、初めから終わりまでを知らされて、安心して、今を生きるのです。それが今を生きるということなのだ、と聖書は語っていると思います。
もう一つの事、それは今申し上げた深く繋がっているのですが、時間ということにかかわる事柄です。わたしたちは、普段時計で計れる、過ぎ去っていく時間を生きています。わたしたちは、その過ぎ去っていく時間しか知らない、と思っている人もいます。しかし、わたしたちはイエス・キリストの十字架と復活によって救われたのですが、これは神の永遠の出来事なのです。だからこそ、二千年も前に起こった出来事が、今も、人々を救うのです。つまり十字架と復活は神の永遠に属する出来事、そこでわたしたちの時間の中を生きながらも、永遠に出会わさせていただくのです。とすれば、終末の出来事は、神の救いの完成の時なのですが、それはやはり永遠に属する事柄であって、わたしたちの知る時間とは違うものなのです。永遠は時間の中に納まらないものです。ただ接点として永遠がこの時間にふれるのです。わたしたちキリストの復活において神の永遠に触れているのです。そしてそこから生かされているのです。神の永遠のいのちにふれて、そこから生きる。死んでも生きる復活のいのち、そのいのちにふれて、地上の時間の中の生を生きるのです。それがキリスト教信仰です。であれば、終末信仰から生きるのは必然であって、キリストの復活、神の救いの完成という永遠の出来事を受けとめつつ、つまりに永遠に生かされながら、今というさまざまなできごとの起こる、苦しみや悩みや痛みの中を生きるのです。
「放縦や深酒の生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」放縦と深酒と訳されている言葉、今度の協会共同訳では原文通り「二日酔いや泥酔」とはっきり訳されています。わかりやすい。共通しているのは、酔い続けた状態ということです。ここではこの世の出来事に振り回され、いま目に見ている現実に酔い続けている、呑み込まれている、それでふらふらしている状態を言っているのです。わたしたちが直面する現実とは、そういう重い力を持っているのです。時には目に見えている現実にノックアウトされてしまう。泥酔とはノックアウト状態のことを言っている。
だが、わたしたちがキリストの十字架と復活に出会い、神の救済の完成という永遠のわざに出会い、そこから生かされていくのなら、二日酔いも泥酔もない。その中で、目を覚まして生きる、目を覚まして祈りつつ生きることができる、そうキリストは言われているのです。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」ここで言われている人の子とは、終末の時にやってくる人の子のことです。つまりそれは終末の光の中に、永遠に出会っていくことです。永遠に出会っていく、といってもわたしたち時間の中に生きる者は、自分の中には永遠はない。ただイエス・キリストによって与えられるもの。そしてそれは、キリストの十字架と復活の出来事であり、キリストの語りかける言葉なのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とは、キリストの言葉は、永遠に属するものだ、ということに他ならない。神の永遠の救いの中にある自分を受けとめ、その永遠に触れながら、今を生きる。目に見える現実は、凄まじくもあり、時に理不尽や迷路や、困難の中にわたしたちを誘い込む。だが、目を覚ましてわたしたちは祈る。まことの平安を受けながら、証しの時代を歩んでいく、キリスト・イエスはわたしたちにそう語っているのです。