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2022.12.4.アドヴェント第2主日礼拝式説教

聖書:ローマの信徒への手紙15章4-13節『 主を賛美せよ 』

菅原 力牧師

 アドヴェントの第2主日を迎えました。今朝も聖書日課に従い、与えられたみ言葉に聞いて、神さまを礼拝してまいりましょう。

 4節「かつて書かれた事柄は、すべて私たちを教え導くものです。それでわたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」かつて書かれた事柄というのは、旧約聖書(当時の聖書)のことです。それはわたしたちを教え導くものだというのですが、どこへ導くかといえば、希望へと導くのだ、とパウロはここで言っているのです。

 聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けるのだ、と新共同訳聖書は訳していますが、今度の協会共同訳聖書では「聖書が与える忍耐と慰めによって希望を持つことができる」と訳しています。学ぶというよりも与えられるものであることが示されている。聖書から忍耐と慰めが与えられる、というこの表現は、おそらく少なからぬ違和感があるのではないか、と思います。聖書から慰めが与えられる、というのはわかります。しかし、聖書から受けるもの、それも希望へと導かれるのは忍耐だ、という言葉は、正直違和感があるのではないか。そもそも、聖書から受けるのは、もっと他にある、と感じる人は多いでしょう。恵みだとか、祝福だとか。しかしパウロはここで、聖書から受け取るのは忍耐だ、というのです。

 忍耐という言葉、あまりいい印象を持っていない人も多いのではないでしょうか。苦しいこと、つらいこと、怒りたくなるようなことを堪えること、耐え忍ぶこと、という意味ですが、我慢するということが付き纏う感じです。かつては美徳だった。しかし、そこで我慢することが本当にいいことなのか、というような感覚が社会全体としても強くなってきた。つまり忍耐しないでいいのなら、それに越したことはない、という印象をわたしたちはこの言葉に対して持っているのではないか。

 ところがここでパウロが語るのは、聖書から与えられる忍耐と慰めによってわたしたちは希望を持つことができるというのです。

 いったい聖書から与えられる忍耐とは何か、それを思い巡らしたいのですが、この15章の1節にパウロのこういう言葉があります。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」これはパウロ独特の言葉遣いで、強い者というのは権力を持っているとか、腕力が強いというようなことではありません。パウロがいう強いとは、イエス・キリストのまことによって活かされ続けていく人のことです。キリストの信実から生きようとする人。パウロはだからあえて、わたしたちという。わたしたちキリストのまことに生きる者、真に強い者は、ということです。するとここでいう弱い者とは、キリストの信実に頼ろうとしない人、結局自分の力やこの世の力に頼って生きる人のことなのです。これがパウロの信仰に立つ視点でした。つまり真実の強さとは、自分の力によって生きようとすることでなく、キリストによって、キリストのまことの光の中で生きようとすることだ、とパウロは語るのです。

 わたしたちキリストのまことにひたすら頼って生きることの許されている強い者は、それができない者の弱さを担うべきだ、といっているのです。自分がキリストを信じ、キリストの恵みに活かされて、それで自足し、満足し、自分は満たされているからといってそれで自己完結するものではないし、自己完結してはならない、ということです。「自分の満足を求めるべきではありません」とは自分を悦ばせることことで終わるものではない、そういう意味です。どうしてこういうことをいうか、といえば、キリストご自身が、ご自分の満足をお求めにならなかったからだというのです。キリストはご自分を低くされ、仕える者となって、十字架にかかってくださった、それは他者の弱さを担う歩みだったのです。人々が受ける非難、罪人として負わなければならない罰、それをキリストは負って、担って、いかれたのです。それは弱さに仕える歩みだった。

 パウロの話が繋がってきました。神が旧約聖書においてわたしたちに示しておられることは、イエス・キリストによって明らかになったことです。すなわち、神のまことによって生きることができない者たちに対する、その弱さを担う神の姿なのです。イスラエルの民がエジプトで奴隷としての生活の中で苦しむ、その苦しみをご覧になって痛む神。そしてそのイスラエルを導き、出エジプトを導き、イスラエルと共に歩む神、そこには苦しみを共にし、そこでなお救いへと導き給う忍耐強い神がおられるのです。イスラエルの歴史は、神の忍耐の歴史であるということ。そしてそのことがわたしたちに明らかに示されたのが、イエス・キリストの十字架と復活なのです。

 忍耐と慰めの源である神、とはそのような神の御意志をあらわしています。しかしそれは、ある時ある場所の神のお働きというのではなく、神が忍耐されるということは神の本質というか、神の「神となり」そのものに属するものだということが語られている。人間と共に在り続けようとする神。そして人間と共に在り続けることは、忍耐であるのです。それは神の本質といっていいことなのです。だからわたしたちは、聖書から、そしてイエス・キリストの出来事、福音によって、この神の忍耐を受けとめる必要があるのです。

 今この時も、神はわたしたちのために忍耐しておられる。

 そしてそれに続く言葉「忍耐と慰め」、確かに慰めという意味もあるのですが、この言葉は「呼びかけ」という意味を持つ言葉なのです。つまり神は忍耐する神である同時に、どんなに人間が神から背こうが呼びかける神である、ということです。神は人間のために忍耐してくださる、そしてそのよう中で、呼びかけることをやめない神である、そのことによってわたしたちは「希望」が与えられているのだ、とパウロは語るのです。

 

忍耐と呼びかけ、その神の永遠のご意志が十字架と復活において決定的に表れたのです。そしてその神の御意志こそ、わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであるというパウロの言葉の根拠なのです。

 すなわちわたしたちが伝道する根拠なのです。わたしたちは今ここにおいても、人間のために痛み、苦しみ、忍耐しておられる神を十字架においてみるのです。そしてその十字架においてわたしたち一人一人に呼びかけておられる神を知るのです。

 なぜ、この聖書箇所がアドヴェント第2主日において読まれるべく定められているのか。いくつか理由はあるのでしょうが、その中心は、キリスト・イエスの降誕は神の忍耐の極みであるからに他ならないからです。わたしたちはイエス・キリストの降誕を喜び祝う。華やかなイルミネーションに彩られるような祝いの時としてクリスマスを迎える。確かに、わたしたち人間のための救い主がお生まれになったのだから、祝いの喜びがあるのです。

 だがクリスマスはそれだけではない。神の忍耐がこの地上にその独り子を与えることにおいて極みに至るのです。それはそうです。御子の降誕は十字架のための降誕であり、人間の弱さを担いきるための降誕だからです。

 アドヴェントのこの時こそ、わたしたちは御子イエス・キリストをこの世にお与えになり給う神の忍耐を心深く覚え、この忍耐の中でなお人間に対して呼びかけておられる神の永遠の御意志を、受け取りたい。そしてこの神の御意志こそ、わたしたちの希望の根拠だということを受けとらせていただきたい。それこそアドヴェントという時の中身なのだ、ということです。

 パウロは今日の聖書箇所で今申し上げたことに立って、二つのことをわたしたちに呼びかけている。一つは、わたしたちもキリストに倣って、強くない者の弱さを担っていくべきだ、ということ。これはいろいろな広がりを見せる言葉ですが、根本には、伝道ということがあります。

 もう一つのこと、それは神の忍耐と呼びかけ、それによって与えられていく希望に充ちて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえよ、主を賛美せよ、ということです。7節以下には、神の忍耐と呼びかけにおいて、ユダヤ人も異邦人も共に主をほめたたえるそのことを神が待ち望んでおられる、ということが記されています。

 クリスマスという出来事は、わたしたちの心の満足とか、宗教的な感情が満たされるとか、そういうことに終始するようなものではないのです。そこで神の忍耐と呼びかけが、キリスト降誕においてあらわにされて、クリスマスの喜びに包まれたものが、強くない者の弱さを担っていくことに目覚めさせられていく。それとともに、神が忍耐と呼びかけの神であることを知らされ、希望を与えられ、いよいよ神を礼拝し、神を讃美していく。アドヴェントとはそのような時なのだ、ということをわたしたちは新たに受けとめてまいりましょう。