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2022.12.11.アドヴェント第3主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書1章5-25節『 洗礼者ヨハネの誕生 』

菅原 力牧師

 アドヴェントの第3主日を迎えました。今朝与えられた聖書箇所は洗礼者ヨハネの誕生物語です。アドヴェントのこの時に、洗礼者ヨハネのことを思う時を与えられているのです。

 さて、洗礼者ヨハネのことは、皆さんよくご存じだろうと思うのですが、四つの福音書全てに登場する人物です。ただ登場する、というだけではない。主イエスの出現に先立つ洗礼者ヨハネの働きを四つの福音書はそれぞれの仕方で語っているのです。洗礼者ヨハネのことをどうしても書き記しておきたい、という思いが福音書の著者四人ともにあったということです。どうしてなのでしょうか。

 

 ヨハネは祭司であった父ザカリアと、アロン家の娘、つまり祭司の家系の出身である母エリサベトの間に生まれた子供でした。ルカによる福音書はその誕生物語を唯一書き記しているのです。二人は神の前に正しい人であり、律法を守ることにおいて咎められることのない人だった。二人はすでに高齢であったが子どもがなかった。あるときザカリアが聖所の中で香を炊く番に選ばれ、その仕事にあたっているとき、主の天使が現われ、彼に語りかけた。天使は二人に子どもが与えられるということを告げた後、こう語った。「彼は主のみ前に偉大な人になり、葡萄酒や強い酒を飲まず、すでに母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。」

 これは驚くべき天使の言葉です。そもそも子供が与えられるということ、それが驚きなのですが、その子、ヨハネと名付けられる彼は偉大な人になる、と天使が語ったことはもっと驚きです。福音書の中で、偉大な人と表現されていること自体稀有なこと。ヨハネの何が偉大なのでしょうか。福音書の記すところによれば、彼は後に悔い改めの洗礼を宣べ伝える者となり、ヨルダン川で人々に教え、彼のもとにはユダヤ全土から続々と人々が集まってきました。その風貌も、いでたちも、その生活態度も人々をひきつけた。ヨハネの周りには多くの人々が集まり、一つ大きな宗教集団を形成していったのです。イエスご自身も、このヨハネのもとに行き、洗礼を受けたのです。

 そうした彼の働き、人となり、宗教者としての実力、それがここで言われている偉大、ということなのでしょうか。確かにヨハネに対するユダヤの世評は高く、彼は注目の人物でした。

 しかし天使がここで語っていることは、そういうことではない。天使の言葉をよく読むと、「彼は主のみ前に偉大な人となり」とあって、人々の間で、とはないのです。そしてそれに続く天使の言葉は、「葡萄酒や強い酒を飲まず、すでに母の帯にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」とあるのです。ヨハネはイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる、そういう使命、役割、が与えられるのだ、という宣言。さらに「彼はエリヤの霊と力で主に先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」これもヨハネの使命について語った言葉です。

 彼は主に先立っていき、神のみ心に人々を向けさせる、不従順な者たちに正しい思いを持たせ、整った民を主のために備える、むずかしい表現もありますが、言われていることは一つの事、「主に民を立ち帰らせる」のです。神のみ前に一人一人が立つように、そのためにヨハネは働くのです。それが彼の使命、委託されたこと、信託されたこと、役割なのです。そしてその使命、役割が託されていること、それが偉大なのです。

 立ち帰らせる、といってそれはヨハネの力でするのではない。ヨハネが大いなる者となって、その宗教的な力、権威で立ち帰らせるのではない。エリヤの霊と力であるように、エリヤに与えられた神からの霊と力で、この使命を生きる、この役割を担っていくのです。ヨハネという名前は「神は恵みを示された」という意味の言葉です。神の恵み、神の霊によってヨハネは使命を生きるのです。役割を担うのです。名付けは父親であるザカリアではなく、天使、つまり神であるということは、ヨハネの生の主導権は神にあるということの象徴といってもいい。

 葡萄酒や強い酒を飲まず、という表現が出てきます。そして成人したヨハネの記述に駱駝の毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べものにしていた、ということを我々は知っています。これは、ヨハネがナジル人だった、ということなのですが、聖書の時代、神に召されて、神のために働くもの、神からの使命に生きる者は身を律して、自分の体を、心身を整えていた人、それがナジル人なのですが、ヨハネはまさしく、ナジル人だったということの記述なのです。ナジルとは聖別されたものということです。

 ヨハネという人は、自分のもとに続々と人が集まり、優れた宗教者として、また預言者のひとりとして、人々から持ち上げられ、支持されているその時に、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」と端的に言うことのできる人だった、と福音書は伝えています。それは当たり前だという人がいますが、当たり前のことを当たり前にできることが偉大なのです。

 人からちょっと褒められただけで有頂天になる、有頂天にならないまでも、多少ともうぬぼれる。それは普通にあることです。

 ヨハネという人は、いわば自分が人々から称賛され、持ち上げられ、飛ぶ鳥落とす勢いの時に、わたしは、かがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない、といい得た人なのです。どうしてそういうことが言えたのか。それは彼がたんに謙虚な人だった、ということではない。そうではなくて、彼が自分の生涯における使命を知っていた人だったからなのです。自分の役割を見通して、深く自覚していた人だったからなのです。

 自分の役割は、神の前に人々をお連れすること、神のみ言葉の前に悔い改めて立つこと、ヨハネはその使命の自覚を忘れない人だった。それ以上でもそれ以下でもない、自分の役割を自覚した人だった、これが稀有なことなのです。彼は、思い上がることがなかった。自分が上に立つことがあっても、自分が人々に称賛されても、それで浮足立つことがなかった。自分の役割使命を自覚していたから。

 四つの福音書全てが、形は違っても、ヨハネのことを主イエスの出現と合わせ語っています。なぜなのでしょうか。それは彼の使命が神の前に人々をお連れすること、であることと深く繋がっている。神の前とは、どこなのか。それはこれまで、神殿の聖所であったり、語られてきた神のことばの前に他ならなかった。しかし今、神の前とは、わたしの後から来る方、救い主、この方の前に立つことに他ならないのです。福音書を読めばわかるように、ヨハネは主イエスと、深く交流したわけではない。はじめから誰が救い主なのか、わかっていたわけではなかった。主イエス・キリストの働き、言葉を直接に聞くことのできるポジションにいた人ではなかった。キリストの十字架と復活も見ることなく、死んでいった人です。しかし彼は、救い主の到来ということは聞き知っていた。自分の後に、神から遣わされる救い主がやってくるということを知っていた。だから彼の使命は、救い主の到来を指し示すことであった。これが彼の使命であり、この救い主の前に立つこと、それこそ神へ立ち帰ることなのだ、ということを受けとめていた人だったのです。そして事実彼はその使命を果たすべく生きたのです。

 福音書の著者たちが、このヨハネのことを福音書に書き記しておきたいと思ったのは当然のことです。この使命に生きたヨハネの姿を福音書記者はどうしても書き記したかった。繰り返しますが、ヨハネの使命はイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる、ということ、それはすなわちイエス・キリストのもとに人々を立ち帰らせるということであり、もっと端的にイエス・キリストを指差す役割でした。洗礼者ヨハネの生涯は、イエス・キリストを指差していく生涯だった。ヨハネの最期は首を切られるというような非業の死であったことがマタイ、マルコ、ルカ福音書に記されていますが、それもキリストの死を指さすものとなっている。このヨハネの使命を継承するのは教会です。キリストの教会です。そしてわたしたちです。

 天使からヨハネのことを告げられたザカリアは天使の言葉の前で、すぐにそれを受け入れることができなかった。それに対して天使ガブリエルはあなたは子どもが生まれるまで口がきけなくなる、と言われた。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われた。神が生きて働く、そのことの前でわたしたちはしばしば逡巡する。しり込みし、ためらう。たんに不信仰というのとも違う。神は生きておられる。しかし今ここで、このわたしにおいて、わたしを用いて、神が働かれるのか、ということにおいて逡巡する。ザカリアは口がきけなくなる。それはあたかも神の働きを、沈黙して、受けよ、と言われているようでもある。わたしたちの愚かな考えを中断して、神が生きて働かれる、ということを受けよ、と呼びかけられているのではないか。

 アドヴェントのこの時、わたしたちは、その生涯を救い主を指差して、人々を神に立ち帰らせる役割に生きたヨハネを、そしてそのヨハネを聖霊の働きの中で用いた神の導き、生きて働き給う神の恵みを仰いで歩みたい、と思うのです。