2023.1.1.降誕節第2主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書2章21-40節『 神殿での奉献 』
菅原 力牧師
朗読された聖書箇所は、生まれたばかりの主イエスに対して、八日たって天使が命じたとおり名付けをし、さらに30日余りたった後、両親が主イエスを抱いて、エルサレムの神殿へと向かった様子が記されています。これはユダヤの律法の定めに従ったもので、夫婦に与えられた最初の男の子は神にささげる、というユダヤの掟に従うものでした。具体的には山鳩か家鳩をいけにえとしてささげるその儀式、神殿奉献に行くためでした。
そこで主イエスの両親は不思議な出会いを経験するのです。ヨセフとマリアはここで二人の人と出会うのです。一人はシメオン。この人は祭司だったのか、預言者だったのか、そういうことは何も書かれていなくてわかりません。しかしシメオンがどのような人だったか、ルカは書き記しています。正しい人で信仰あつく、イスラエルの救いを待ち望む人だったというのです。聖霊が彼にとどまっていた、というのですが、それはシメオンが聖霊の導きの中で絶えず歩んでいた、神を求めながら、歩んでいた、ということでしょう。そして神が遣わす救い主に会うまでは決して死なない、というお告げを聖霊から受けていたのでした。
神の働きを待ち望んで、祈り続ける人。そういう人がエルサレムにいた、というのです。シメオンが神殿の境内に聖霊に導かれて入ったとき、主イエスが両親に抱かれて入ってきた。シメオンはイエスを見るなり、この幼子を抱き、神をほめたたえたのです。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
シメオンという人は、まだ幼子にすぎない主イエスを見て、神が遣わされる救い主に他ならない、と受けとめ、神をほめたたえ始めるのです。驚きというか、不思議です。そして、自分はもう救い主を見ることができたので、安らかに死んでいくことができるというのです。そしてこの救い主は、異邦人にとっても光であり、イスラエルの人々にとっても神の信実を顕わにするものだ、と讃美するのです。
両親は驚きました。なぜこの人はそんなことを知っているのか。驚くほかなかったでしょう。そしてシメオンは続けて不思議な預言をするのです。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」
シメオンが語るのは、主イエスという存在によって、その言葉や行動によって、人々の中に、あるものは躓き、倒れるし、あるものは立ち上がるというように分岐されていく、というのです。キリストの言葉に従う人も生まれるし、キリストの言葉に反対し、攻撃するものも生まれる、ということです。たんなる中立、というようなことではなく、イエス・キリストと向き合って人は、神を愛し、神に聞き従っていくのか、そうではなく神を退けて生きていくのか、神につくのか、神に叛くのか、そこではっきりと線が引かれるというのです。救い主というのは、誰にとっても都合のいい顔をする方、というようなことではない。救い主は神の意志を明確にする方なのです。そこで神の意志に従うのか、自分の意志に従うのか、明確になっていく、というのです。
それだけでない、マリアに向かって、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます——多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」イエス・キリストが神に従って歩む、そこで母であるあなたは、剣で心を刺し貫かれるような思いを与えられるだろう。イエスの歩みは、言葉は、行動はわたしたちを根本から揺さぶる。わたしたちは自分本位に生きている。自分中心に生きている。しかし、キリストの歩みは神本位、神の意志に従って生きる歩みです。そこでは激突も起こる。葛藤も、軋轢も、苦しみ、痛みも起こる。マリア、あなた自身も剣で心を刺し貫かれる。キリストの言葉によってわたしたちの中にあるもの、罪が否応なくあからさまになっていくからだ、というのです。
マリアとヨセフは驚きました。シメオンの言っていることが全部分かったわけでも、理解できたわけでもないでしょう。シメオン自身、主イエスの生涯の起こること、十字架まですべて見通していたかどうかわからない。しかしこの子は神の真理をあらわし、そこで人間は従うのか、叛くか問われていく、シメオンはそう語った。マリアとヨセフは、天使ガブリエルから「生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる」という言葉を聞かされていたのです。
マリアはこの時神の子の意味も、神の子とはわたしたちにとってどのような方なのか、まだ何も知らない。しかし、この子は、わたしたちの子であって、わたしたちの子ではない。わたしの腕の中にいる子であって、わたしを超えた、遥かに超えた神の子、マリアはそのことを受けとめ始めていたでしょう。シメオンが語る言葉は、この子によって神の意志は示され、この子によって人間は神の意志の前に立たされていくことを告げた言葉であり、マリアは今抱いているこの子の不思議をあらためて思ったでしょう。
さらにエルサレムにはアシェル族のファヌエルの娘でアンナという女預言者がいました。彼女は84歳。それは当時の社会にあって超高齢者でした。彼女は夫と死別した後、神殿を離れず、断食し、祈り続けている女性で、昼も夜も神に仕えていました。仕えていた、ということは礼拝していた、ということです。つまり彼女は神の言葉から離れることなく、神を礼拝することを生活の中心に据えていた、というのです。その彼女も、抱かれた主イエスを見て、この幼子こそ神の与え給う方、イスラエルが待ち望んでいた神の子であることを見て取り、それを人々に語ったというのです。
シメオンとアンナ、この二人には信仰的な交流はあったのでしょうか。わかりません。何も書かれていないから。しかし、今回あらためてこの聖書箇所を読み、わたしは二人の不思議にひきつけられました。二人は信仰の人でした。外連味なく信仰に生きている人。誰かに見せるとか、もっともらしく見せるとか、そんなことではなくただ神の言葉に聞いて、神に仕えたいと願い、そうして生きてきた人。聖霊の働きを信じて、自分の思いや考え、我儘ではなく、神の意志に聞いていきたいと願い、歩んできた人。そしてその中で二人とも、イスラエルの救いを待ち望んだのです。
この二人が奇しくも、それぞれの仕方で、幼子を見てすぐに、神の遣わされた神から救い主だということが分かった、というのです。
今朝の聖書箇所は、シメオンの預言が中心にあります。イエス・キリストというお方がこの世界にお生まれになったことで、この世界に光が与えられた。その光をまさに万人を照らす光。しかし同時に、この光において、人間の抱え込んでいる闇も照らし出される。人間一人一人が持っている神に逆らう、神を退けようとする、神を無視しようとする様々な思いが光に照らし出されてあばかれる。この光は反対を受けるしるしともなる。つまりシメオンの言葉は、救い主・主イエスの誕生によって開始された今は、わたしたち一人一人にとって決断の迫られるとき、神に従うのか、叛くのかが問われる今の始まりなのだ、ということを告げているのです。
イエス・キリストに出会いながら、その決断を先延ばしにすることも、神を退けようとすることになるのです。
そしてシメオンとアンナの二人は、まさしく、嬰児にすぎない主イエスを救い主と受け入れ、神をほめたたえている者となっているのです。
二人はエルサレムの住人であり、神殿での礼拝を大切にしていた人たち。エルサレムを、神殿を真実代表するような人物。ユダヤの社会で培われてきた神を礼拝する民をまことに継承する者たち。その礼拝者が神のみ言葉によって、神の霊の働きの中で、この世界に与えられた救い主イエス・キリストを見て、受けとめ、神をほめたたえ、人々に告げ知らせる者とされているのです。
イエス・キリストに出会って、神に従うのか叛くのか、その決断が迫られる、と申しました。しかしその決断は、わたしの知恵や判断力で決断するものではない。神を礼拝しつつ、神の霊に導かれ、神の働きの中で、その決断、判断は与えられていくものなのです。シメオンとアンナはそのことをわたしたちに物語っているのです。新しい年も、わたしたちは、礼拝者として生きていきましょう。外連味なく、み言葉に聞き続け、神を求め続けていきましょう。聖霊の働きを希い続けていきましょう。その中で、神はわたしたちに、わたしたち一人一人に、必要なものを与えてくださる。必要な判断も、必要な知恵も言葉も、神が与えてくださる。そのことを信じて、ご一緒に歩んでいきましょう。