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マタイによる福音書連続講解説教

2023.1.8.降誕節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書1章1-17節 『神の歴史の目標』

菅原 力牧師

今日からご一緒にマタイによる福音書に聞いてまいりたいと思います。マタイによる福音書というのは、新約聖書のはじめに位置していて、皆さんもこの福音書を何度も読んでこられたことと思います。しかし、これから、もう一度はじめから終わりまで、じっくりとこの福音書に聞いていきたいと思います。そしてこのマタイ福音書がわたしたちに語ろうとしていることを新たに受けとめ、神への感謝と喜び、信仰を新たにしていきたいと思います。

 今朝ご一緒に読むのは、1章の1節から17節です。新共同訳聖書では1節に系図、とありますが、どうしてはじめにいきなり系図なんだ、と思う人もいらっしゃるでしょう。またそもそも系図そのものにあまり興味を持てないという人もいるでしょう。しかし、なぜ、マタイはこのような名前の羅列からこの福音書を書き始めたのでしょうか。そこにどういう意味を盛り、読者に何を語ろうとしたのでしょうか。

 この1節の最後の言葉に出てくる「系図」という言葉、これは元の言葉にはそもそもそういう意味はありません。今度の協会共同訳も「系図」と訳していますが、これはもともと2語から成っていて、「ゲネシスの書」という言葉です。ゲネシスというのは、旧約聖書の創世記、あの創世、世界を創る、創造する生成する、という意味の言葉で、つまり創成の書とあるのです。しかもこの1節は当時の習慣から言えば、この書物のタイトルと言ってもいい1節であり、マタイにとっても大事な一句でした。マタイはこの冒頭の文章で何を伝えたかったのでしょうか。

 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの創成の書」。イエス・キリストは、アブラハムの子であり、ダビデの子であるのだ、と宣言しているのです。けれどもそれは、イエス・キリストの先祖にはアブラハムもおり、ダビデもいるのだ、という一般的なことが言いたいわけではない。そもそもユダヤの人は、皆アブラハムの子を自称するのです。

 そしてこの1節に続き、アブラハムからイサク、ヤコブという先祖たちの名前が記されていく。

 この名前の羅列を眺めていて気づいたことはどんなことでしょうか。疑問に感じたことはどんなことでしょうか。こうした名前の羅列を見れば、自分の知っている名前を目で追いかけるものです。案外知らない。ということを知る。あんまり旧約聖書読んでないもんだな、という方向に行く人もいるかもしれません。しかし疑問もわいてきます。もしこれが系図だとするなら、当時の習慣にはない女性の名前が出てくるのか。しかも、なぜこの人たちなのか。あるいは、なぜ名前の羅列の途中にバビロンへの移住というような歴史的なことが挿入されているのか。しかもこの短い段落の中に4回も。普通の系図ならあり得ないことですよ。

 さらに、最も根本的な疑問もわいてきます。そもそもなぜイエス・キリストの物語の冒頭に人間の血筋を描くようなことをするのか。イエス・キリストは神の子なのだから、人の血筋などどうでもいいのではないか。人の血筋の顕彰はキリストと無縁なのではないか。いろいろな感想や疑問がこの名前を見ていると湧いてくる。

 しかし。いうまでもなく、この名前の羅列において、マタイは何を伝えたかったのか、それを受けとることがわたしたち読者の課題です。わたしたちの素朴な疑問や感想も、そのマタイの思いを受けとめるところで、解き明かされていくのではないでしょうか。

 

 この氏名表は17節によれば、14代のブロックが三つで構成され、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまで14代、というブロックになっているというのです。ところが実際数えてみると、第3ブロックバビロンからキリストのところは13代なのです。どうして、一人抜けているのか。そもそも14という数字にはどんな意味があるのか。古来さまざまな解釈がなされてきました。

 しかしこれは、14という数字に意味があるというよりも、アブラハムからダビデに至る14代、その間の歩みが二期間に繰り返されているということにアクセントがあるのではないか。

 イスラエルの歴史が、この人々の名前で、14代の歩みでいみじくも象徴されている。アブラハム以前の歴史はあるのですが、神の民としての自覚的な歩みはアブラハムから。その歴史は、紆余曲折がありながらもダビデ王によるイスラエルの王国の建設へと行きつく。神の導き、神からの言葉を受けつつ、イスラエルがたどり着いたのは、ダビデ王による王国の建設。それが最初の14代にわたる歩みが象徴するものです。イスラエルの歩みの中で、ダビデの果たした役割は大きい。神の導きを仰ぎ、イスラエルの国を建てようとしたその歩みは、イスラエルの歴史の中で称賛されてきた。しかしだからと言って、ダビデの王国は、神が支配し神のみ心が成る王国ではない。事実その王国は、バビロン捕囚によってすべて失われたのです。バビロン捕囚は、イスラエルが自分たちの手で作り上げてきたものすべてを失わせた。二つ目ブロックの14代にわたるイスラエルの歴史の流れなのです。

 そして、バビロニア捕囚から14代、ダビデによる王国建設を向かった第1ブロック、そしてその王国がすべて失われた第2ブロック、そしてバビロン捕囚後、神によるすべての民の救いがもたらされる救い主の誕生までの第3ブロック。という構成でマタイは描いている。そして注目すべきは、一人ダビデだけに「王」という肩書ついている、ということです。それはダビデの王として権威を顕彰するためではもちろんない。人間の王ダビデの王国は、歴史の中で滅びていったが、神の子イエス・キリストによるまことの神の支配、神の国は、近づいている。まことの王はだれか、この氏名表は指差そうとしている。

 このイエス・キリストの降誕によって、歴史の中で、神によって創成され、つくられ、始められるものがある。それはあの旧約聖書の創造の継続であり、完成である、それをタイトルの中に盛り込んで、表現したのが、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの創成の書」という1節なのでしょう。

 ここには旧約の歴史がここに名前の挙げられた人々によって要約的に描かれている。その旧約の歩みを無視したり、その歩みとは全く別に救いのおとずれが与えられたわけではなく、旧約の歩みの上に、神が与え給うイエス・キリストによる創成の歩みが始まっていくのだ、ということが雄弁に物語られているのです。

 この福音書の著者マタイについては、これから折々にお話ししていきますが、今日の聖書箇所に関連して言えば、この人は旧約の歴史、旧約聖書、ユダヤ人の神に導かれた信仰、そのすべてを大事に受けとめていました。旧約聖書は、神の御意志を示したものであると信じ受けとめているのです。

 マルコ福音書の著者が、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉で、その福音書を書き始め、直ちに洗礼者ヨハネの活動を語り始めているのと読み比べると、そのはじめ方は大きく異なっています。それは歴史的な背景とも深くかかわっています。マルコは、福音書というジャンルの最初の表現者であり、著者だった。そこでは自分が一番伝えたいこと、これだけはどうしても伝えたいこと、すなわち、直ちに本論に入っていく、というスタイルが大事にされたのです。当然と言っていい。しかし、マタイは、マルコが書かれてから、もっとも早い推定で10年、長ければ20年の後に書かれています。マタイはマルコによる福音書を知っており、よく読んでおり、マルコ福音書の構成をしっかり受けとめつつ、自分の持っている伝承、資料を駆使していわば満を持して、この福音書を書き著したのです。その際、マルコには書かれていなかった視点、例えばこの冒頭の記事のような旧約とのつながり、継続というような視点を、マタイはこの福音書を通じて十二分に物語っていくのです。

 すでに申し上げたように、ここにはこの時代のいわゆる系図には登場することのない、女性の名前が記されています。それ自体特異なのですが、ここに登場する女性たち、どうしてここに記されているのでしょう。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻という仕方でバトシェバが、そしてマリア。イスラエルの歴史の中で、有名な女性たち、例えばアブラハムの妻サラとか、リベカ、ラケルといった名前ではなく、この女性たちの名があえて挙げたことで、マタイは何を語ろうとしているのでしょうか。タマル、ラハブ、ルツ、この3人の女性に共通することはあるのだろうか、と考えてみると、タマルはアラムの女性、ラハブはカナンの町エリコの人、そしてルツはモアブの女性です。つまりこの3人はユダヤから見れば、外国の女性たちなのです。

 イスラエルのその歴史は、男性でだけ作ってきたのでもなければ、ユダヤ人だけで作ってきたわけでもなかった。こうした外国人女性たちもイスラエルの歴史を形成し、そこで神に用いられてきた歴史なのです。そのことは当然、冒頭の「アブラハムの子」という言葉の意味を新たに提示することになるのです。アブラハムの子とは、たんなるユダヤの血筋というようなことではない。もしそうであるのなら、この外国人の女性たちの名前は書き記さない。その事実があるとしても書き記さないのです。しかしマタイは、この女性たちの名前を堂々と書き記す。アブラハムの子とは、ユダヤの血筋ということではなく、神の導きによる、神への信仰による子らのことなのです。神の導き給う歴史に参与してきたものたち一人一人によって担われてきた歴史なのです。しかしそこには、ウリヤの妻のように、ダビデの罪によってここに登場することになった人もいる。マリアのように、なぜ自分の神の子の母になるのか、その理由も根拠もわからない人もいる。一人一人を子細に見ていけば、ここには信仰的に称賛される、高く評価される人々が名を連ねている、というわけでもない。つまり、もともとここに上げられた名前はイスラエルの血筋を礼賛したり、顕彰するためのものでもなければ、純血性を誇るためのものでも、その信仰の偉人たちを褒め称えるためのものでもない。

 

 マタイはここで神が導き、神が働き、神によって用いられる人間の歴史を簡潔に描きながら、この人間の歴史の中で神が与え始められる救いの出来事をこの福音書において物語っていこうとするのです。マタイはユダヤの人々の歴史をないがしろにしない。大事にする。しかしそれはそこでの人間の歩みを礼賛するものではない。神がユダヤ人であれ、外国人であれ、男であれ、女であれ、罪人であれ、不信仰なものであれ、神が用いて、この神の救いへと至る歴史を用いてこられた。そして今、ご自身の御子、イエス・キリストにおいて神は救いの出来事を創成し、救いの物語を創成してくださる。マタイは、その物語をここに書き記そうとしているのです。