マタイによる福音書連続講解説教
2023.1.15.降誕節第4主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書1章18-25節『 神我らと共にいます 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所はイエス・キリストの降誕の出来事を記す聖書箇所で、皆さんにとってもクリスマスの度毎に見聞きしている聖書箇所でしょう。今朝はこの聖書箇所にあらためてじっくりと聞いていきたいと思います。
「イエス・キリストの誕生の次第は、次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マタイはマルコが書き記していない、イエス・キリストの誕生の次第を初めて書き記すのです。その際、ルカでは明らかにマリアにまなざしを向けていますが、マタイはヨセフにここでまなざしを向けています。二人は婚約していたのですが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。聖霊によって身ごもる、ということは神による、神の働きによる妊娠だった、ということです。
ヨセフはそれをどう受け止めたのか。聖霊による、神による妊娠というようなことなど受けとめようもなく、ただマリアが自分の知らないところで妊娠した、と事実に打ちのめされたのではないでしょうか。
ヨセフは、正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした、とあります。正しい、というのは律法に忠実な、ということですが、それだけなく、ヨハネが正義の人だった、というようなニュアンスも読み取れます。ヨハネの正しさがこの事態を受け入れられず、離縁しようとしたのです。婚約は、この時代ユダヤでは結婚と同じ拘束力を持つものでした。マリアの妊娠は律法に従えば死刑にあたる罪、ヨセフの正しさはこのような事態の中で、表ざたにせず離縁という選択肢しかない、と判断したのでしょう。
そのヨセフに対して、夢で主の天使が現われ、こう語りかけてきたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」夢の中で語りかけてきた天使は、ヨセフの動揺、困惑、そして悩んだうえでの判断というものを承知の上で、恐れず妻マリアを迎え入れない、というのです。ここにはヨセフにとっての驚きが連続しています。まず天使が現われたそれ自体が驚きです。さらには天使がヨセフに、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだと語ったことが驚き。聖霊による妊娠。このことがマタイの地の文章の中に、天使の言葉の中に繰り返し出てくる。天使はさらに言葉を続けます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」天使はヨセフに、二つのことを命じました。一つは妻マリアを迎え入れなさい、ということ。もう一つは、その子にイエスと名付けなさい、ということです。イエスという名前は「神は救い」という意味の名前でした。ユダヤの人々であればそのことを知っている、ということで、その名付けの意味も天使は語ったのです。つまり、この子は、神の働きによって降誕する子、そしてこの子は民を救うもの、救い主となる、というのです。驚きの連続です。
生まれてくる子は、神の子、救い主なのだとの宣言です。マタイは、このことを注釈してこう語ります。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである。」すべてのこととは、神によって子どもが与えられ、その子が民を救うものとなるということ、ヨセフもマリアもそこで用いられていくということ、そのすべては、神が旧約聖書において語っておられたこと、約束されていたことが実現することなのだ、とマタイは語り、イザヤ書の言葉を引用して旧約の言葉を語る。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
マリアもうら若い娘でした。そしておそらくヨセフも、同じように若い青年。二人はそれぞれに、天使の言葉を聞いた。その言葉は二人の理解を遥かに超えていた。ヨセフは、この出産において夫としての役割から除外され、その上妻マリアを迎え入れよ、と言われ、混乱の極みだったのではないか。
だが天使の言葉は、いわばその混乱の中で、神の働きを受け入れていきなさい、と語りかけている。マリアもヨセフも、この驚くべき出来事の中で、二人に固有な役割が与えられていくのです。
マタイがこの出来事を通してわたしたちに証言しているのは、神の子の降誕という驚くべき出来事が起こった、ということなのですが、それ以上に驚くべきことがある、と言っているのです。
神の独り子がこの世にお生まれになった、ヨセフとマリアの子どもとして、人の子として、この歴史の中にお生まれになった。それはまさに人知を超えた驚くべき出来事です。
しかしそれ以上に驚くべきこと、それはイエス・キリストが与えられた最初のクリスマスの遥か以前からの神の御意志、神のみ心が、約束という仕方で示され、それがいま実現した、ということなのです。
つまりイエス・キリストの誕生は、神の永遠の御意志、御心に基づく約束の実現そのものであり、神はイエス・キリストにおいて、ご自分の御意志をあらわしていかれるのです。
わたしたちは確かにイエス・キリストがこの世にお生まれになった、ということに驚く。そしてキリストがこの地上で、わたしたちのために救いのわざを成し遂げてくださる、そのことにも瞠目するのです。
しかしそれは、キリストという息子を地上に送って、あとはよろしくと言って、神は高みの見物、というような話では全くない。むしろ一方イエス・キリストはこの地上の歩みを神との深い関係の中で歩まれる、他方神はこのイエス・キリストにおいて神として働かれる。神が持ち続けておられる神の御意志、人間を愛し、人間の罪を裁くと共に許し、人間と共に歩んでいかれるという神の御意志、そのご意思をイエス・キリストにおいてあらわされていかれる。
イエス・キリストも働き、神の働き給う、聖霊も働き給う、三位一体において働き給う。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」キリスト降誕の出来事は、神の意志、神の約束の実現であった、とマタイが語ったのは、そういうことです。であれば、わたしたちはイエス・キリストの言葉、わざ、行動を見聞きすることにおいて、神の意志と、神の働きに出会うことができる、ということに他ならないのです。
イザヤ書の言葉を引用し、「この名はインマヌエルと呼ばれる」とマタイは言うのです。イエスという名前のほかにもう一つの別の名前を持っている、ということではない。このイエスという方のわざ、言葉、存在は、まさにインマヌエルなのだ、というのです。インマヌエルとは、神我らと共に、という意味だ、とわざわざマタイは翻訳しています。この子は民を罪から救うからイエスと名付けなさい、と天使は言いました。罪から救うということは人間がその罪のゆえに神への道を自分から塞いでしまって、神の関係を損なっている、その関係の回復のことです。キリストはこのような神と人間の間にあって、ご自身の体をさしだして、道となり、橋となって、神と人間の関係を回復する。そしてどんな時も人間の只中に神が共にい続ける道を開いてくださったのです。このイエス・キリストなる方こそ、まことインマヌエル、この方のあるところ、すなわちそこは神我らと共に在る、そのような存在であり、場であるのだ、とマタイは書き記しているのです。
神はインマヌエルの神であり続ける、その神の御意志をイエス・キリストはその世界において実現してくださった。キリストご自身において、世界はインマヌエルを与えられた。と同時に、神はそのインマヌエルの御意志をキリストにおいて成就されたのです。
しかし。考えれば考えるほど不思議な話です。マタイによる福音書はその最終章28章で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」で終わっている。つまりマタイのはじめと終わりはインマヌエルなのです。マタイはそのことこそ、この福音書において伝えたかった、と言っていい。つまり、神の救いは、インマヌエルに究極するのです。一緒にいる、これが救いの極みなのです。それは例えば、親が子にしてあげれることは、突き詰めると、一緒にいる、ということなのではないか、ということに通ずるものです。幼いときは、文字通り一緒にいて、大きくなったら離れていても、存在を共有しているような、一緒にいる。
罪人である人間、神との関係を自分の方から壊してしまう人間、その人間と共にいるために、い続けるために、神の方から言葉を与え、導きを与え、そして御子を与え、御子が痛むことにおいてその関係回復の道を築き、御子の死によって新たな道を切り拓かれる。これはすべて、キリストと神と聖霊の業なのです。人間は何もしていない。何の努力もしていない。ただ神の働き。人間はただこれを受けるのです。恐れず迎え入れる、それだけが求められている。なんという恵みのわざなのか、と思います。マリアとヨセフは、神のキリスト降誕という恵みのわざをただ受け入れる最初の人となったのです。
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そしてその子をイエスと名付けた。」ヨセフは、この聖霊の働きによる妊娠、神の働きによる出来事の全部を受け入れ、天使の言葉に従ったのです。
わたしたちも、イエス・キリストの降誕という神の働きを信じる者とされ、ここに神の御意志が実現していることを知らされ、神の御意志「インマヌエル」の中にわたしたちが生き活かされていることを信じ、喜び、感謝して、それに応えていきましょう。