マタイによる福音書連続講解説教
2023.2.5.降誕節第7主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書2章1-12節『 先立って進む星 』
菅原 力牧師
イエス・キリストがお生まれになったとき、そのことを知る人ははじめ多くはありませんでした。両親となるヨセフとマリア以外にはわずかな人たちでした。
ところがほとんどの人たちが主イエスの降誕に気づいていない時、遠い地から生まれたばかりの幼子を探しにやってきた人たちがいました。東の方からやってきた学者たちです。協会共同訳聖書では学者という言葉を博士に戻しています。その方がいい。なぜならこの人たちは占星術に限らずいろんなことを学んでいた人たちで物知り博士、知恵者賢者というイメージに近いからです。東の方、とだけあるのでどこの国から来たのかはわかりませんが、おそらくはペルシアとかアラビアの国の博士たち。彼らはさまざまなことを探求していた。これからを起こること、将来のことも、探求していたでしょう。ユダヤの旧約聖書も読んでいたでしょう。そういう中で彼らは星を見たのです。そしてその星が救い主の誕生を告げ知らせるものなのだ、ということを受けとめていたのです。
ユダヤの人々が救い主の誕生を待ち望んでいた、というのならよくわかる気がするのですが、ここに登場するのは、東方の博士たちなのです。
なぜ彼らは星を見ただけで、遠い東の国からエルサレムまでやってきたのでしょうか。星に関しては古代社会においていろいろな伝説や伝承があるのですが、今それよりも大事なことは、この博士たちが救いを求めていた、ということだと思います。それも切実に、真摯に求めていた、ということだと思います。そうでなければ、遠い東の国からわざわざやってこない。博士たちはその時代にあって知的なエリートでした。さまざまなことを学ぶ中で、自分の了解や納得を広げていったでしょう。しかしこの博士たちは、そうした中で、いよいよ深く人間の力を超えた、人間の知恵を超えた、神の働き、神の恵み、神の救いを求めていた。求めていただけではない。自分たちがその方の前でまことひれ伏して、礼拝する、礼拝者として生き方を求めているのです。
それは、博士たちがエルサレムで尋ねた言葉によく表れている。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」このユダヤ人の王、という言葉には、博士たちの独特な思いが込められていました。文字通りの意味のほか、ユダヤの人々が待ち続けているメシア、という意味が込められているのです。だからこそ外国人である自分たちも、拝みに来た、ということにつながるのです。この拝むという言葉はひれ伏して礼拝するという言葉です。跪拝する。博士たちがどれほど、救い主の誕生を待ち望んでいたか、それは星を見て、直ちにその星の導きに従って旅立ち、拝みに来たということでよくわかるのです。
エルサレムに来た博士たちのことはおそらくたちまち話題になって、人々の噂になったでしょう。やがてその噂は王宮にいるヘロデ王の耳にまで入りました。ヘロデ王はこの話を聞き、喜んだのでも、感謝したのでもなく、ただ「不安を抱いた」というのです。うろたえた、狼狽した、動揺した、のです。自分の存在が脅かされる、と直感的に感じたのでしょう。不思議なのは、エルサレムの町の人々もみな、同様だった、という反応です。どうしてエルサレムの町の人々も不安を抱いたのでしょうか。おそらくマタイはその問いをわたしたちに投げかけているのです。そしてそれは主イエスの受難の時に続く問いとして、なぜエルサレムの民は主イエスを十字架にかけたのか、という問いへとわたしたちを誘うのです。
ヘロデ王は直ちに祭司長や律法学者たちを集め救い主はどこに生まれるのか問い質しました。彼らは直ちに「ユダヤのベツレヘムです」と答えるのです。彼らは旧約の預言者たちがこう言っています、と王に告げるのです。
そしてそれを聞いたヘロデ王はエルサレムの町にいる博士たちを王宮に呼び、星のあらわれた時期を確かめ、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言うのです。
ヘロデは生まれてくる子がメシアかどうか、ということにそもそも関心があったかどうかもわからない。ヘロデにとっては、自分を脅かす存在になるかどうかが関心の全部だった。そしてそうなら殺すのです。
外国の博士たちにまことしやかに「見つかったら、わたしも拝みに行こう」、とヘロデは言うのです。本当にメシアなのかどうなのか、とも問わない。そもそもこの世界にメシア・救い主が生まれるということ自体何の関心もなかったのかもしれない。
しかしそれにしても不思議です。救いを待ち望み、救い主の誕生を切実に待ち望んでいたのが、ユダヤの人々ではなく、異邦人である博士たちだったというのですから。マタイはこの事実に深く自覚的だった人です。マタイ福音書の冒頭、1章の創成の書、氏名表のところで外国人の女性たちの名前を明記していたのはマタイです。仮にそのような伝承があるにせよ、もしマタイが民族主義的な考えに偏向していたら、その名前を削除することは難しいことではなかった。マタイは旧約の歴史、旧約聖書、ユダヤの人々の歩みをことのほか大事にした人です。と同時に、神の恵みは神の救いの業はユダヤ人だけに限定されるものでも、ユダヤ人にだけ与えられるものでもないことをマタイは熟知していたのです。旧約の歴史において働く神の御意志、神のみ心は、今この時に至ってイエス・キリストの誕生という救いの出来事を成就させられた。そしてその恵みはユダヤ人であろうが、外国人であろうが、豊かに示され、与えられるものなのだ、ということが博士たちの来訪という出来事につながっているのです。
博士たちが王宮を出て、歩み始めると東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった、というのです。博士たちは救い主誕生の時も、場も、すべて星によって指し示されたのです。
星とは一体何なのでしょうか。わたしたちにとって星の導きとは何なのでしょうか。星ということで、何かとても神秘的な、崇高なイメージを持つ人もいるかもしれないのですが、今日の聖書を読む限り、星は救い主誕生の時を知らせ、誕生の場を示すもの、救い主のいますところに博士たちを導くものでした。星の役割はそこまでです。星はそれ以上の役割を果たすのではない。キリストに出会ってからは、キリストの言葉に聞いていくのです。キリストのまことに導かれていくのです。星はそこまでの働きです。博士たちにとって星は日常の存在でした。星を見ながら研究していた。特別なものではなかった。わたしたちの日常においても、音楽を通してキリストを知った人がいます。小説を読んでキリストに導かれた人もいます。一人のキリスト者に出会ってイエスという方を知った人もいます。キリストまでの導き手はさまざま。星を通しても、音楽を通しても、一人の人を通しても、神の導きの御手は働くのです。実にさまざまなものを通して、キリストへと導いてくださる。何によってキリストに導かれるか、それは実にさまざまなのです。
そして。キリストに出会ったなら、そこから先はキリストによってわたしたちは導かれ、招かれ、救へと入れらるのです。
ということは、神はこのわたしという存在をも、この星のように導いてくださるということです。
博士たちは星に導かれて、幼子を探しあて、母マリアと共にいるその幼子をメシアとしてひれ伏して拝むのです。そして自分たちの宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を主に献げるのです。博士たちが目にしているのは、一人の幼子です。小さな小さな赤ちゃんです。どういう救い主なのか、何もわからない。にもかかわらず博士たちはひれ伏して礼拝したのです。おかしいと思う人がいるかもしれません。しかしわたしたちは、キリストの救いの全貌を知って初めてキリストを礼拝するのではないのです。キリストがわたしの罪や、わたしの苦しみを全て負って十字架にかかってくださるということもよくわからないままにも、キリストを礼拝するのです。この方こそ、神がわたしたちに与えてくださる約束の救い主だ、との信仰が博士たちに与えられていたからでしょう。これこそ最初のクリスマス、キリスト礼拝です。知恵あるものも、地位あるものも、誇り高きものも、みな神の独り子の前でひれ伏すのです。
一方ヘロデは、救い主の誕生という知らせを聞いて、そのことの意味を考えることもないままに、自分の前に立ちはだかる邪魔者は、すべて消そうとするのです。ヘロデはこの時すでに幼児虐殺を考えていたのです。
今日の聖書箇所にはイエス・キリストの降誕という神の出来事を巡って、際立って対極にある人間の態度が、生き方が示されています。
一方は自ら救いを求めていたものが星の導きを受けとめ、救い主主イエスに出会うために遠い国からやってくる。そして見出した幼子をひれ伏して礼拝するのです。そしてもう一方で、メシアの誕生と聞いて、不安を抱き、抹殺しようとするヘロデ王の態度。
わたしたちは博士なのか、ヘロデ王なのか。そういうシンプルな問いかけがあってもいいのでしょう。しかし同時に、わたしの中には、博士もいるし、ヘロデ王もいるのです。一方で博士たちのように救いを求めている自分もいるのです。一方でヘロデのように自分が世界の中心であるかのように、自分がものごとの判断の中心であるかのように、神になっていくヘロデのような自分もいるのです。どちらもわたしの中にあるのです。その意味ではわたしの中にあるせめぎあいに目を向けることにもなるのです。しかしもっと大事なことがあります。それはわたしの中を見つめることではなく、博士たちに星を与えて導いてくださった神を仰ぐことです。神は生きて働き、今もわたしたちをキリストへと導いてくださるのです。その際わたしにとっての星は何なのか、わからないのです。しかし神の導きがわたしをキリストへと向かわせてくださるのです。そして何度でもキリストと出会う喜びを経験して、キリストの前でひれ伏して、キリストを礼拝していくのです。そしてすべては、そこからまた新しく始まっていくのです。イエス・キリストを救い主として礼拝していく、そこからすべては新しく始まっていくのです。日々の生活の中に、神の豊かで、確かな導きが生きて働いていることを信じて、歩んでいきたいと思うのです。