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マタイによる福音書連続講解説教

2023.2.12.降誕節第8主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書2章13-23節『 主の言葉が実現する 』

菅原 力牧師

 先週聞いた博士たち、彼らは幼子を見つけ出し、喜びの礼拝をまもり、贈り物をささげました。しかし夢でお告げがあったので、ヘロデのもとへは行かず、別の道を通って東の国に帰っていくのです。

 博士たちが立ち去った後、主の天使が夢でヨセフに現れ、ヘロデ王の主イエス殺害の意志ゆえにエジプトに逃げるようにとの言葉がありました。ヨセフはその言葉に従い、産後間もない妻と、乳児の主イエスを連れてエジプトに行ったのです。それがどんなにたいへんなことか。乳児を抱えての旅がどれほど困難なことか。

 しかしヨセフは主の天使の言葉に聞き従い、行動するのです。

 ヨセフ一家はヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在しました。それはつまり寄留者としての生活だった。生まれたときから、いや生まれる前から、いわば放浪を余儀なくされたのです。

 やがてヘロデ王による幼児虐殺が起こります。ヘロデ王は自分の存在を脅かす人は誰であれ、極端に恐れました。そして自分を不安にさせる人たちを次々に殺していきました。叔父を殺し、自分の三人の息子も殺し、挙句に自分の妻まで殺してしまった人です。確かにヘロデの性質・資質がそこにあるのでしょう。しかし人間の中にある邪魔者はすべていなくなれ、という思いが噴出しているともいえるのです。

 キリストはこのような人間の罪の中に生まれてきてくださった。しかもそれは人間の罪に巻き込まれていく、ということでもあります。自分は高みにあって罪に巻き込まれないというのではなく、まさに人間の罪に翻弄されていく、それがキリストが地上にお生まれになる、ということでした。ヘロデ王のために逃避行せざるを得ないのも、その一つの事です。生まれてきたとき、一つ場所で、安定の中で、育つということが大事なことであるのは、言うまでもない。しかし主の生涯は、人間の罪の中におかれ、その罪の中を歩んでいかれた。

 やがてヘロデ王が死ぬと、主の天使がヨセフに夢で現れて語る。「起きて、子どもその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。」ヨセフはその言葉に従い、エジプトからイスラエルに向かうのです。ところが、ヘロデ王の息子がユダヤを支配し恐怖が取り除けない不安の中にいると、さらにガリラヤ地方に行くよう夢でお告げがあったので、一家はガリラヤのナザレに住むことにしたのです。

 これが今日の聖書箇所に記されていることです。

 ところで、今日の聖書箇所を読み、見つめていると、いろいろなことに気づきます。一つは、この聖書箇所は三つの出来事、三つのエピソードから成っているのですが、それぞれ最後に旧約聖書からの引用があり、預言者の言葉が実現するためであった、実現した、と繰り返されているのことです。

 そしてもう一つ、これも眺めていて気づくことですが、同じ言葉の繰り返しがある、ということ。「主の天使が夢で現れて言った」「起きて、子どもその母親を連れて」「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて」そして最後に「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と同じ言葉が繰り返されているのです。同じ行動をしたのだから、同じ言葉が繰り返されるのは当たり前だ、と思う人もいるでしょうが、ゆっくり声に出して読んでいくと、くり返しが頭の中に残っていくのです。どうしてこれほどくり返しの表現があるのでしょうか。

 マタイが旧約とのつながりということを大事にしているということは、この福音書を読み始めたその最初から申し上げていることです。それは、マタイが旧約の歴史の中で語られた神の言葉を、神の御意志を、聞き取っているということです。旧約の歴史の中で示されてきた神の御意志が、イエス・キリストの誕生という形で実現した、それがマタイがこの福音書で伝えようとしていることです。

 マタイがここで繰り返している言葉、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」15節、17節、23節と繰り返されている言葉、それは神の意志の貫徹ということです。預言者を通して語られた神のみ言葉が歴史を貫いて、人間の罪の歴史を貫いて、貫徹していく、そしてそのことが実現していくのだ、そう繰り返し語られているということです。わたしたちは、自分の見ている世界や時間に拘泥して、神は生きて働いているのか、と問うこと少なくない者です。自分の時間の中に神の手ごたえがない、と嘆く人も少なくない。しかし神は、天地を創造し、民に語りかけ、エジプトにとらわれた民を救い出し、バビロンに捕囚されていた民を救い出し、救い主をこの世に与え給う神です。そしてその救いを完成へと導き給う神なのです。ご自身の意志を貫徹される神。マタイがここで語っていること、幼子主イエスはエジプトに行き、そのエジプトからイスラエルに来た、というその事実は、旧約の歴史を思うものにとって、出エジプトのあの出来事を連想させたでしょう。そもそもモーセが生まれたときのエジプトでの出来事と、今ここで起こっている出来事とが、重なるようにして受けとめられたのではないでしょうか。幼子モーセはやがてイスラエルの指導者として出エジプトを神の導きと働きの中で、担う者とされていった。

 「預言者を通して言われていたことが実現するためである」15節の言葉は「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した。」というホセア書の言葉です。それはまさに神の救いの御意志と働きが語られている言葉です。

 

 そして18節の言葉は、エレミヤ書の言葉で、ヤコブの妻だったラケルが、イスラエルがバビロンへと捕囚されていくとき、子孫である子どもたちのために泣いたと記すのです。わたしたちが生きているこの世界は、涙が絶えず流されている。理不尽な死や、悲しい別れや、暴力による死や痛みが相も変わらず続いている。権力者による強引な戦いもやまない。しかしだからと言って、悪が一掃されればいいとか、戦いを一掃すればいい、ということは、ノアの洪水物語からもわかるように、わたしたち自身が一掃されることになるのです。自分は棚上げして、悪の一掃などとはとても言えない。

 ここで繰り返されている言葉、「主の天使が夢でヨセフに現れて言った」、をじっくりと受け取りたい。ヨセフにはヨセフの考え、思い、意志があったと思います。マリアが妊娠したということを天使から聞いたとき、彼はひそかに縁を切ろうとしたのです。彼には彼の考えがあったのです。当たり前です。しかし彼は夢の中で語られた主の言葉に、耳を傾ける人だった。自分の考えと真逆、正反対の意見、妻を迎え入れよ、を聞いて無視して自分の考え通りに生きるのではなく、自分の考えは考えとして持っていて、尚、この現実の中に神は生きて働いておられることを受けとめ、神の言葉の方に向かっていったのです。

 エジプトに逃避行するときも、ヨセフにはヨセフの考えがあったでしょう。なぜこんな生まれたばかり乳児を連れて、遠いエジプトまで行くのか、そこでどんな仕事があるというのだ、難民としての生活は厳しいに決まっているのです。ヨセフは自分の考えを持っていた。しかし、神が自分に語りかけてくださるということは、神がこの現実において共におられるということ、神がこのわたしの現実の中で生きて働いて導いていかれるということだ、ということを受けとめていったのです。ヘロデ王が死んだからと言って、イスラエルに行くことは、危険であり、不安だった。すると主の言葉はさらにヨセフをガリラヤへと導くのです。

 

 今日の聖書箇所にはただたんに旧約の歴史の中で、神の意志があらわされた、ということを語るだけでない、それがヨセフという一人のこの地上の歴史の中を歩むものにおいて、つまり歴史の中を歩むということは、人間が作り出していくさまざまな悪や罪の中で歩むということであり、一人の人間としてみれば、なぜ自分がこんな偶然に出会わなければいけないのか、なぜ自分はこんな役回りを引き受けなければならないのか、という理不尽さの中に立ち往生しつつ、その間中で、神の御声に聞き、自分の判断や考えを持ちつつ、なおそこで神のみ心、御意志にふれて、神が共に働いてくださることを信じて、神の言葉に向かって歩んでいく、そういう一人の個人の信仰に深くかかわる物語をマタイを描いているのです。

 マタイはいたずらに旧約聖書を引用しているのではない。神の意志がこの歴史を貫き、御業が生きて働いているのだ、とマタイはその独特の旧約聖書の引用によって物語っていくのです。そしてその主の言葉に、御意志にヨセフは、聞き従った、ということが繰り返し語られているのです。

 最後の言葉23節には不思議な一文があります。「彼はナザレの人と呼ばれる」という引用文です。実はこれはどこからの引用なのか、わからないのです。

 新共同訳聖書はあっさり「ナザレの人」と訳していますが、元の言葉は「ナゾライ人」という言葉で、そもそも意味がよくわからない。研究者たちの間での議論は続いています。しかしその中で今日有力なのは、このナゾライがイザヤ書11章の「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」というあの若枝、という言葉と近い言葉という説です。おそらくマタイは、主イエスがナザレで育ったという事実と、あの1章の氏名表にもあるエッサイからの若枝としての救い主を重ね合わせて、ナゾライと読んだ。そこには、「この子は自分の民を罪から救う」、というあの天使の言葉のくり返しがある。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」ということの繰り返しもある。マタイは何度でも繰り返す。神がこの歴史の中で生きて働き、人間の罪の歴史の中で、悪の歴史の中で、人間が生きるこの世界の中で、神の意志はあらわされ、御心は語られ、その救いの意志は貫徹され、イエス・キリストの降誕となって、この世界に実現した。神の御意志は完成に向かって進展していく。 

 そしてそれは、その神の御意志に、与えられている現実の中で、聞き、従う者たちも用いられていく、歩みとなる。ヨセフは、そのかけがえのないひとり。大事なひとりなっていったのです。