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マタイによる福音書連続講解説教

2023.2.19.降誕節第9主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書3章1-12節『 洗礼者ヨハネ 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所は「洗礼者ヨハネ」について語った箇所であり、ヨハネ自身の説教が語られている聖書箇所です。洗礼者ヨハネは、四つの福音書がすべて取り上げている人物で、それも主イエスの宣教に先立ってヨハネの宣教が取り上げられています。四つの福音書がこぞってヨハネの宣教を取り上げているということ自体、彼が重要な働きを担った、ということなのですが、それだけでなく、福音書を読むとそれぞれの仕方で、ヨハネの伝道活動に対する敬意、感謝の念があらわされている、というふうにも読めるのです。

 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。」マタイはそのころという言葉で、おそらくは2章との30年近い距離を一気に跨いでしまう。わたしたちは、誕生物語から一瞬にして主イエス伝道活動開始の時に、招き入れられる。そのころ。洗礼者ヨハネが現れて、彼の宣教活動を始めていた、というのです。

 ヨハネはすでに皆さんご存知のように、ザカリアとエリサベトの息子です。ルカはわざわざヨハネの誕生物語まで書き記しているのですが、その中で、主の天使の預言が語られ、ヨハネがエリヤの霊と力を持ったものとして歩むことが語られている。主イエスご自身ヨハネのことをエリヤだと言っておられるのです。エリヤのことはぜひ詳しく知ってほしいと思いますが、ユダヤ教にとってモーセと並ぶ偉大な預言者、神を信じる信仰のために戦った預言者でした。彼は困難な場面でも信仰において言うべきを恐れずひるまず語り続けた人として知られていますが、洗礼者ヨハネにエリヤの姿を重ねた人は少なくなかったのです。

 今朝はこの洗礼者ヨハネの説教に聞き、神のみ心に聞きたいと思うのです。ヨハネの説教は2節の言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」で始まっています。これは、奇しくもマルコ福音書における伝道開始の主イエスの言葉と重なり合うものです。悔い改めと、ということ、天の国は近づいている、という二つのことです。

 ヨハネの説教は7節の後半からさらに語られていくのですが、2節の言葉が展開されていくのです。この7節からの説教、同じ言葉が繰り返される。一つは当然ですが、悔い改めという言葉。そして「火」という言葉。もう一つは「実を結ぶ」という言葉です。この三つの言葉がヨハネの説教を要約していると言ってもいい。火というのは、神の裁きのことです。審判です。ヨハネにとってそれは、やがてやってくる終末の時、そのときの神の裁きです。差し迫った神の怒りという言葉が語られていますが、それがヨハネの受けとめている終末の神の審判、そしてそれは怒りという言葉に現わされているように、今この世界を生きている人間に対する神の怒りの現れる時なのです。

 ヨハネはユダヤ人だから神の怒りや審判から免れると捉えない。誰であれ、一人一人神の審判の前に立ち、その人の生きてきた、歩んできたそのすべてが神の前で裁かれる、ととらえたのです。これは、ユダヤの社会の中にあって驚くべき発言と言っていい。ユダヤ民族だから神の民として救われるとか、裁きを免れる、ということではない。一人一人が神の前に出るのだ、とヨハネは呼びかけているのです。「我々の父はアブラハムだ」などと思っても見るな、というのはそういうことです。アブラハムの子は、ユダヤ民族が自動的になるのではない。神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。アブラハムの子であることは、民族や出自によるのではなく、神の自由な働きによるのだ、そしてわたしたちは神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい実を各自自分の人生で形成してゆけ、ヨハネはそう人々に語ったのです。近づいている天の国、神の審判の時、「斧はすでに木の根元におかれている。よい実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 まことに大胆な、ストレートな悔い改めの呼びかけです。神のみ心に沿った信仰、日々の歩み、行動、生き方、それを心を込めて、真摯に、生きて行け、という呼びかけです。このメッセージに対して、ユダヤの全土から人々がヨハネのもとに来て、罪の告白をし、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのです。彼の説教はとても厳しい説教と言っていい。一人一人の生き方を根本的に見直し、神の前での自分の罪、生き方、生活態度、人との関わり、そのすべて問い直す方向へと導くものだった。普通に考えれば、こんな厳しい説教、耳を塞ぎたくなる。聞きたくない。にもかかわらずヨハネのもとに人々が集まってきたし、ファリサイ派やサドカイ派の人々までも来て、悔い改めの洗礼を受けたというのです。

 なぜなのか。それはおそらく彼自身の生き方が、彼の語る言葉を裏切ってはいなかったからでしょう。駱駝の毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べものにしていた、というのは明らかに禁欲的な、節制を志した、清貧に根差す信仰の人だった、ということです。ヨハネは誰よりも自分の語る言葉を生きていた、だからその言葉は人々の心を抉ったのでしょう。

 一方イエス・キリストも、このヨハネの説教と同じ言葉を語られた。悔い改めよ、天の国は近づいた、キリストは4章の17節でまったく同じ言葉を語っている。

 悔い改めよ、確かに主イエスもヨハネと同じ言葉を語られた。しかしその意味するところは、ヨハネとは違う。少し違うというのではない。全く違う。ヨハネにとって悔い改めは、自分の罪や過ちを自覚し悔い、悔悛すること。しかしキリストが語られる悔い改めはそうではない。わたしたちが悔いて改める前に、神がわたしたちを探し求めておられるのです。一匹の羊が迷子になって見失われたとき、その一匹を見つけ出そうとする方がおられるのです。羊飼いが懸命に、必死にさがしてくださる、その神さまの方からこのわたしを見出そうとしてくださる愛に出会うことが悔い改めなのです。わたしたちの反省、悔悛がまず大事なのだ、というのではない。神の恵みに、神の愛に、もう一度新たに出会いなおすことそれ自体が悔い改めなのです。ここにはわたしたちの態度や生き方に先行する神の意志、恵み、愛があることが語られているのです。

 さらに、ヨハネは天の国は近づいた、と語り、それによって神の裁きはもうすぐ始まるのだ、そしてそれに備えて悔い改めよと繋がっていったのです。

 しかし主イエスが全く同じ言葉で語られた天の国は近づいた、はそういう意味ではありませんでした。天の国は近づくとは、救いの完成の時は近づいた、ということです。神の救済の完成の時です。それは言うまでもなく、祝福に満ちた恵みの時です。わたしたちを愛し、恵み、わたしたちが神に逆らって歩む者であっても、なおわたしを探し、見出し、そしてわたしのために十字架にかかってくださる御子の父なる神が救いの完成の時を与えてくださるのです。そこで審判があるとしてもその審判はわたしたちにとってすべてをお委ねできる方の審判です。

 だからこそ天の国は婚礼の祝宴にたとえられているのです。

 洗礼者ヨハネと主イエス・キリストの宣教の言葉、それは同じ言葉が語られていくのですが、中身は大きく違っていました。しかしここが大事なことなのですが、だからヨハネの福音の理解はダメなんだ、ということを福音書は語ろうとはしていない。この両者の関係を受けとめることこそが大事なのです。ヨハネは優れた信仰者、優れた預言者でした。

 ヨハネの説教の最後には自分の後に来る方のことが予告されていた。つまりヨハネは救い主の指さす預言者だった。しかしながらヨハネはイエス・キリストの福音にいまだ出会っていない人です。十字架も復活も知らない。キリストの言葉にも出会っていない。主イエス・キリストが神と人間の間に立って十字架という驚くべき仕方で、神と人間との間で仲保の役割を果たされることは知らないのです。その彼にとって、神と人間の関係を正そうとしていくことは人間の信仰的な努力が、真摯さがどうしても必要なのだ、ということは理解できいることです。キリストがもしこの世界に来なければ、罪にまみれた人間が何とか罪の自分を自覚し、反省し、改め、神さま御免なさいと言って、関係を修復していく、これしかない、と思うのはある意味やむを得ない。

 洗礼者ヨハネの真摯で熱い思いは十分伝わってくるのです。しかしおそらくヨハネ自身がわかっていたと思うのですが、人間の努力で人間の罪の問題が解決するかどうか、人間が悔悛することだけで、神と人間の関係が根本から回復するものなのかどうか。ヨハネは水で洗礼を授ける、しかしわたしの後から来る方は聖霊によって洗礼を授ける、この言葉には、人間の力ではなく、神の聖霊の働きによって人間を新たにしていく、という神の働きへの思いと祈りが込められています。ヨハネは主イエス・キリストの福音をいまだ知る者ではなかった。しかしこの救い主のお働きによるのでしかない、そういう希望を胸に秘めて、キリスト予告を、キリスト預言をした。

 洗礼者ヨハネはキリスト以前の信仰者としてその際に立っている。ヨハネは神の前に立つ一人一人の人間の在りようを真摯に追い求めた。それは貴いことです。しかし神はその一人一人の救のために、イエス・キリストをお与えくださり、わたしたち一人一人を探し、見出し、担い、十字架にかかってくださった。そしてわたしたち一人一人の信仰に先立つ神のまこと、神の恵みをあらわしてくださった。ヨハネはその際に立って、イエス・キリストを指差したのです。

 主イエスが、くしくもヨハネの説教と同じ言葉で伝道活動を始められたこと、悔い改めよ、天の国は近づいた、と言われたことは、単なる偶然ではもちろんないでしょう。確かにイエス・キリストにおいて神の救いの業は完全にあらわされたのです。ヨハネの語った悔い改めの宣教は終わりを迎えた、ヨハネの語った、努力とか、精進とか、清貧、ということが救いをもたらすのではない、ということも分かった。しかしヨハネがそのように生きて、かつ救い主の予告預言をし、キリストを指差して歩んだことに対して、四つの福音書の著者たちはそれぞれの仕方で、敬意と感謝とを覚えるとともに、ヨハネが指さしたキリストをこそ、わたしたちが信じ、その福音に活かされていくことこそ大事だ、ということを伝えているのです。