マタイによる福音書連続講解説教
2023.2.26.受難節第1主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書3章13-17節『 洗礼を受ける主イエス 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所は先週から続く聖書箇所で、ここで主イエスが降誕物語後初めて登場する場面です。先週わたしたちが聞いたのは、洗礼者ヨハネのことでした。彼の活動、人となり、そして説教。ヨハネは人間の罪によって神との関係性が大きく損なわれている、壊れかけていると判断していました。そしてそれを回復するためには、人間一人一人が悔い改め、それにふさわしい実を結ぶことが必要だと思い、判断し、それを宣べ伝えた。それは真摯で、神に対する信仰から出た行動でした。そしてヨハネは悔い改めの洗礼を授けていた。
そのヨハネのもとに主イエスがガリラヤからやってこられた、と今日の聖書箇所は語り始められるのです。しかもそれは、ヨハネから洗礼を受けるためであった、というのです。成り行きでそうなったというのではない。わざわざガリラヤから出てきて、ご自分の意志でヨハネから洗礼を受けたというのです。
ヨハネの洗礼は先週もお話ししたように、罪の洗いの洗礼でした。罪を悔いて、その罪を洗い清めて神に向かって歩き出すのです。その洗礼をなぜキリストが受けなければならないのか。イエス・キリストが神の子であるならば、ヨハネの洗礼、罪の洗い清めなど必要ないのではないか。そういう素朴な疑問を持ちます。
ましてこの場面を読むと、洗礼者ヨハネ自身が「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言っています。ヨハネの戸惑いが色濃く現れています。ヨハネは説教の中で語ったのでした。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。・・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」そこまで預言するヨハネだからこそ、主イエスが自分から洗礼を受けることに躊躇があった。つまり、ヨハネの中には、この方が、救い主だろうという予測はあったのです。
しかし主はそのヨハネの言葉に対して、「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と語られ、ヨハネから洗礼をお受けになったのです。この15節の言葉は不思議な言葉、むずかしい言葉です。そもそもここで言われる「正しいこと」とは何で、それをすべて行うのは、この洗礼とどう関係するのか、言われたヨハネもよくわからなかっただろうと思います。
主イエスがヨハネから聖霊を受けると、天がイエスに向かって開き、神の霊が降り、神の御声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これがわたしたちが知らされる主イエス洗礼の場面、そして洗礼者ヨハネと主イエスとの交差する場面です。
ヨハネは人々に罪の自覚を語り、その罪の洗い清めとしての洗礼を人々に授けていた。ヨハネという人は、自分の授ける洗礼が、水の洗礼であり、それで十分なことだとは、思っていなかった。十分どころか、もっと抜本的な必要だ、という予感を彼は持っていた。「わたしは水で洗礼を授けるが、わたしの後に来る方は、聖霊と火で洗礼をお授けになる」と予告した通りなのです。
人間の罪が水で洗い流せるのか。それで、神と人間の関係は回復するのか。神への道はそれで新たに拓かれるのか。
わたしたちはヨハネの洗礼と、主イエスの名による洗礼とでは全く違うということはすでに知っています。しかしヨハネはそれを知らないのです。にもかかわらずヨハネは預言したのです。予告預言というような形で。
ヨハネの洗礼は、言ってみればこの汚れている自分を自ら洗い流そうということです。しかし主イエスによる洗礼は、わたしたち罪人が洗礼によってキリストの死に与り、死ぬのです。洗礼によってキリストの十字架の死の中に入れられる、共に死ぬのです。それによって罪に死ぬのです。
そして罪から解放されるだけでなく、そこで新しいいのちに与るのです。キリストのいのち、復活のいのちに与るのです。だからキリストによる洗礼は、新しいいのちに生きるものへと創造されることです。
パウロがローマの信徒への手紙で言っている言葉「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死に与るために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の名から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。」のとおりです。
ヨハネの洗礼は、水による洗いという言葉が示すように、自助努力です。しかしキリストによる洗礼は、わたしたちの力によるものではない。神の働きによるものなのです。ひたすら神の働きによるものなのです。だから洗礼は聖礼典なのです。
しかしキリストはここで洗礼者ヨハネによる洗礼を受けられた。それは先週も申し上げたのですが、ヨハネの祈り願い取り組んできたことを否定するのではなく、それはダメだと一蹴するのではなく、ヨハネが際に立って取り組んできたことをキリストが受けとめていかれる、ということです。
主イエスがヨハネから洗礼を受けた、それはヨハネから洗礼を受けた一人一人の罪を受けとめた、ということです。一人一人は罪を何らか自覚し、悔い改めて神の裁きの前でふさわしい実を結べと言うヨハネの言葉に呼応した、つまり自分の罪が神との関係を損ない、壊しているのだ、ということに苦しんでいる人たち。その人々は自分の罪に苦しんでいる人々と言っていい。キリストはヨハネから洗礼を受けることで、ヨハネの洗礼をよしとされた、というようなことではなく、ヨハネはもちろん、そのヨハネに呼応して洗礼を受けたそのすべての人々の罪に目を注いでおられる。そしてその罪を負う、という自覚がこの洗礼者ヨハネの洗礼を負い、キリストによる洗礼へと導き入れる、ということへと繋がっていくのです。
ヨハネの洗礼を受けた人たち、その人たちは罪の自覚の中で悶えている人たちです。ヨハネの説教を聞き、神に立ち帰り、神と共に生きるためにどうしたらいいのか、悶えてきた人たちです。それらの人々は皆ヨハネの説教に呼応して、罪の悔い改めの洗礼を自ら志願したのです。主イエスは公生涯の歩みのはじめに、この罪人を負い、その罪の結果を身に受け、この罪人と共に歩むことを、十字架に向かって歩むことをその人々が受けたヨハネの洗礼を受ける中で確認していかれたのです。ヨハネの洗礼の実質を担うべくキリストを洗礼を受けた。
主イエスが罪人の罪を負っていくこと、それが神の御意志であり、その神の意志に従う従順こそ、正しいことだと言われたのです。
マタイは旧約における神の御意志を聞き取り、その御意志がイエス・キリストにおいて実現したことを語っているのです。主イエスはヨハネの洗礼を受ける中で、洗礼を受けた一人一人の罪人を贖っていく神の意志を受けとめたということです。今日の聖書箇所は、確かに洗礼者ヨハネと主イエスが交差する場面ではあるのですが、そのことの中で起こっているのは、神と主イエスとの関係性、交わりです。神の御意志を受けとめ、その後意志をご自分の使命として受け取っていかれる主イエスの御意志、それがここで交差している。そしてそこに聖霊が降る。まさしく三位一体の神の交差がここにあるのです。
そして天からの声は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」それはまさしく主イエスこそ神の子キリストだ、という御声です。神がこの世界に御子をお遣わしになり与え給うのは、罪人の罪を負うため、その罪を裁くため、そしてその裁きを御子の十字架において行い、人間を贖い、罪に死んだ人間を復活のいのちにおいて活かし、救いの完成へと導く。これが神の御意志です。
その御意志に御子イエス・キリストがこの地上の歩みのはじめに、公生涯のはじめに、ヨハネの洗礼を受けることにおいて従順に従われたのです。神の御意志をご自分の意志として受けとめ、罪人の罪を負うことを生涯の使命とされたのです。正しいことを行う、という主イエスの言葉は、神の御意志に従うことに他ならない。
今日の聖書箇所をかつてイエス・キリストが洗礼を受けた、という歴史的事実の報告、というだけで、あまり気にも留めない、という人がいるかもしれません。しかしここには、神の強い、深い、御意志が底に流れ、その御意志に呼応して、この人間の世界に遣わされ、我々の最も奥深く、どうしようもできない罪の問題の中に、へりくだって立ち続け、担い、やがて十字架へと向かうキリストの御意志があるのです。そのキリストの御意志の中にわたしも置かれているということです。その御意志の中でわたしもすでに負われている。そしてその意志を受けとめる神がおられ、聖霊の働きがある。三位一体の神の働きの中に、神の御意志の中にわたしたちが生き、生かされ、担われ続けているということ、感謝し、喜びをもって、わたしたちもこの恵みの中で歩んでいきたいのです。