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マタイによる福音書連続講解説教

2023.3.5.受難節第2主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書4章1-11節『 誘惑を受ける主イエス 』

菅原 力牧師

 神の子イエス・キリストの公の生涯が始まる、というまさにその時、キリストはまず、誘惑を受けられた、それが今日の聖書箇所の出来事です。

 しかもそれは、霊に導かれたものだった、というのです。霊に導かれてとは、神の導きということです。キリストが誘惑に出会うこと、誘惑にさらされること、それが神の意志だった、と聖書は書いているのです。

 誘惑というのは、惑いに誘うという字を書きます。辞書を引くと、「よくないことに相手を誘い込むこと」という意味のほかに、「心を惑わせて誘い込むこと」とあります。ここで登場するのは悪魔です。悪魔の誘惑は、ただたんに心を惑わせるだけではない。誘い込む目的がある。誘い込んで壊したいものがある、そういう誘惑なのです。

 誘惑する者という3節の言葉は、試みる者という意味の言葉です。試みるのは悪魔。誘惑するのは悪魔。しかしその全体を導くは神。キリストが神によって試みられるのです。わたしたちの中ではこういう神の導きに違和感を覚える人が少なくないのではないか。神の導きと言えば、悪い状態からいい状態へと導く、と何となく考えていて、誘惑に導くなんて、という違和感を覚える。しかし今日のこの聖書の場面では、違和感を覚えつつ読むことが大事と言えます。

 

 主イエスはここで悪魔から、三つの誘惑を受ける。

 一つ目。荒れ野で40日間断食し、空腹を極めている主イエスに対し、誘惑する者は、神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ、と誘ってきました。ぎりぎりのところ、人間にとって大事なのはパンだ、生きていく上で、本当に必要必須なのは、神なんかじゃない。パンだ。それを出してみろ、と言ってきたのです。それはギリギリのところで人は何で生きているのか、ということを激しく揺さぶってくる誘惑です。

 キリストはこの悪魔の誘惑に対して、「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」という旧約聖書・申命記の言葉で応える。

 

 二つ目の誘惑。悪魔は主イエスを聖なる都の神殿の屋根の上に立たせ、こう誘いかける。神の子なら、飛び降りたらどうだ。この誘惑は人を奇跡の奴隷にする誘惑だ、と言っていい。神の子ならここから飛び降りて、無傷、軽やかに着地、そうしたら民衆は誰もがお前のことを神の子だと信じるだろうということです。実際わたしたちは奇跡を待ち望んでいる。病気が治ったら、神さまの実在を信じます。仕事がうまくいったら、神さまを礼拝します。世界が平和になったら神を信じます。もし仮に、教会に行って礼拝したら、どんな病気でも治る、ということになったら、その教会に人は溢れ返り、すごい会堂が立つでしょう。それは人間が奇跡の奴隷になりたいからです。さらに神と取引する関係に入っていく。これをやってくれたら信じる、というのは商いですよ。信仰を自由で生きた関係から取引にしてしまう誘惑。しかも悪魔は聖書の言葉で、誘い込んでくる。

 キリストは、「あなたの神である主を試してはならない」と応え、誘惑を退ける。

 三番目の誘惑。悪魔は主イエスを高い山に連れていき、この世の繁栄を見せ、もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう、と誘うのです。この世は悪魔のものでもないのに、これをみんな与えようとはなんと図々しい、と思った人もいるでしょう。確かにこの世は悪魔のものではない。しかし、この世は悪魔の力に絡み取られている、と言えないでしょうか。悪魔の囁きに人間はまるで気かつかないほどに誘い込まれている。悪の問題は、悪魔が外から持ってくるだけではなく、わたしの中にある悪を悪魔が誘い出してくるともいえる。天地創造のはじめ、アダムとエバの話もそうなのです。

 悪魔の最深最大の願いは、人間を神から切り離すことです。神と人間の関係を切断することです。この場合、悪魔を拝むとは、何も悪魔を直接拝む必要はない。この世を拝めばそれで悪魔は納得なのです。パンを拝む、お金を拝む、地位や権力、社会的な力を拝む、人間の能力を拝む、自分たちの力を過信し、神なしで、神抜きでやっていけると思い込むこと、それはある種の人間崇拝なのです。悪魔にとって、大事なことは神を拝まないこと、神以外の何かを拝ませることなのです。

 この悪魔の誘いに対して主は「退け、サタン」と言い「あなたの神で主を拝み、ただ主に仕えよ」と三度旧約申命記の言葉で悪魔に応え、退けるのです。

 この三つの悪魔の誘惑を思い巡らしていくと、悪魔が「神の子なら」と二度繰り返していることに気づきます。悪魔は「神の子」の中身をこうしろと誘いかけているのです。「神の子なら」と訳されている言葉は、「神の子なのだから」と訳せる言葉です。神の子なのだから、石をパンに変えて、それで大衆の心をつかめ。人間が求めているのは、神の言葉なんかじゃない。腹の足しになるもの。パンでありお金であり、今欲しいものなんだ。それで人々の心をつかむ、そういう神の子になれ、という誘惑です。

 「神の子なのだから」奇跡で人々の心を捉えろ。人々のそれを待ち望んでいる。御託はいい。大事なのは驚くべき結果。納得する結果。目に見える成果。人々はその奇跡の奴隷になりたいのだ。「神の子なのだから」人々が何を拝みたいのか、知るべきだ。神を拝みたいわけじゃない。自分の利益に直結するような、目に見える力、それを拝みたいのだ。いやいや人間はいつでも自分を拝みたいのだ。

 

 悪魔の誘惑はイエス・キリストの「神の子」としての在りようを深く抉っていくのです。キリストはその一つ一つに応えていかれる。石をパンに変える誘惑は、小さなものではない。生きるためにはパンはどうしても必要だからです。食べること、生活すること、お金を得ることは必要なこと。しかしキリストがこの世に神の子としてこられたのは、パンを食べて生きる人間の根底にあることを示すことだった。神の子が救い主として遣わされた目的は明確です。神の救いを受けて人が生きること。神の言葉の一つ一つによって人が生き、生かされ、それに信仰において応答して生きる者となること。神の言葉の一つ一つとは神の御意志のことです。その御意志の中で人間が生きることなのです。その御意志は、キリストの十字架と復活となってあらわにされていくのです。

 

 神の子なのだから、奇跡で人の心を捉えろ。悪魔はそう迫ってきた。実際キリストはこの地上で奇跡をおこなっています。つまりキリストは奇跡を起こす力がある。だがその奇跡は、人の心をとらえ、それで神を信じさせる道具のような奇跡ではない。人々の苦しみや困難に寄り添う中で示された奇跡。だからキリストは受難の歩みの中で奇跡をおこなわなくなる。十字架では何の奇跡も起きない、起こさない。キリストはわたしたちと取引をしない。キリストは奇跡で人々を救うのではなく、一人一人の罪を背負う形で、担うことにおいて、そしてその罪の代価を自ら担うことで、神の救いを示された。それは人間が自分の罪に気づかされ、その罪の赦しを受けとめていく、罪からの救いであり、復活による新しいいのちへの招きだった。サタンの誘惑は、まさに十字架を取り去って、罪の問題など問わない、人間を満足させることに終始する誘惑なのです。

 それはまた第三の悪魔を拝むこと、つまりこの世のものを拝み、最終人間を拝む道へと繋がっていく。

 

 悪魔の誘惑は、神と人間の関係を壊し、切断することにある、と申し上げました。三つの誘惑は、そこを目指し、そこに誘い込もうとする。キリストの使命は、人間が神との関係の中で、生き活かされることです。神の御意志を知り受けとめ、その救いを受けて生きることです。悪魔はそれを知っていたのでしょう。だからこそその関係を壊そうとする。実のところ、わたしたちはこの悪魔の誘惑を受けても、受けたことそれ自体に気づかず、瞬殺されていることも少なくないのでしょう。しかしキリストはこの悪魔の試みの中で、ご自分の使命をより深く、確かに受けとめていかれたのではないか。神の子の道は、これらの誘惑をその都度払いのけて、真正直に神の言葉にそのたびに聞き、み心を尋ね、神を礼拝し、神に仕えていく、そういう道であることをキリストはさらに深く自覚していかれたのではないか。

 

 神が悪魔の誘惑へと導かれた、というのはわたしたちにとって違和感がある、ということを最初に申し上げました。しかし、人が創造されこの世界で生きるようになった時から神は人間に自由をお与えになりました。自由ということはアダムとエバのように、神に聞くことも、神に逆らうこともできるということです。自由において生きるとは、絶えず試みの中にあるということです。キリストがこの世にお生まれになり、人として生きるということは、キリストもこの自由の中にあり、こころみの中におかれているということです。誘惑の中に絶えず置かれているわたしたちと同じ人間となり、その誘惑の中を生きることになった。けれどそこで大事なことは、その誘惑の中で、こころみの中で、キリストはご自分の使命をより深く受け止めた、つまり神と向き合い、神の言葉に聞き、神の御心を尋ね求めたということです。キリストの生涯はこの先、一人山に行き、一人祈り、神と向き合いながら、誘惑の中を、こころみの中を生きるのです。わたしたちはそのことを深く心に刻みながら、わたしたちの人生の時を、生きたいと思うのです。試みの時、誘惑の時も気づかないことも少なくない者ですが、日々生きる中で、神と向き合い、神の言葉に聞き、神の御心を尋ね求めつつ、キリストの救いの中で歩んでいきたいと願うのです。