マタイによる福音書連続講解説教
2023.3.12.受難節第3主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書4章12-25節『 主イエスの召命 』
菅原 力牧師
今朝はマタイ福音書の4章の12節から25節までを朗読しましたが、ここを2回に分けて説教で取り上げたいと思います。今朝は、12節から17節までの聖書のみ言葉に聞きたいと思います。
「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」12節はそう始まっています。ヨルダン川流域で洗礼活動を続けていた洗礼者ヨハネのことについては、わたしたちは詳しく聞いてきました。そのヨハネが捕縛(ほばく)されたというのです。領主であるヘロデが兄弟の妻を娶ったことや、彼の悪事について責められたので、捉え、投獄したのです。もちろんそれだけが理由ではなかったかもしれません。ヨハネのもとに続々と人々が集まり、ヨハネから洗礼を受けていく、そのことにヘロデは脅威というか、恐ろしさを感じていたのかもしれません。しかしここの記述は不思議です。主イエスはヨハネ捕縛の話を聞き、ガリラヤへ退いた、とあるからです。ガリラヤはまさにヘロデが領主である土地です。そこへ、主がわざわざ退いていくというのですから。
「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」この13節を読むとさらに疑問が湧いてきます。主イエスの故郷はナザレです。主がガリラヤへ退いたのは、ヨハネが捕縛され、とりあえずご自分の郷里へ戻ったというのであれば、なぜそのナザレを離れて、わざわざ湖畔沿いの町カファルナウムに移られたのか、しかも移住までしておられるのです。ナザレには当然主イエスの家族がいた。その家族と離れてなぜカファルナウムに移住されたのか、疑問は広がるのです。
今日の聖書箇所を何度も読んでいくと、ここには、主イエスが誘惑後いよいよ宣教を始めるその最初の言動を記しながら、ここに大事なことがある、とマタイは思いを込めて書いていることが次第に伝わってくるのです。
なぜ主はガリラヤへ、そして故郷ではなくカファルナウムでまず宣べ伝え始められたのか。
14節「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」こうした表現、わたしたちよく目にし、耳にします。中でもマタイ福音書ではたびたびこうした表現がなされている。預言者〇〇を通して言われていたことが実現するため、という表現、これは、何を語っているかと言えば、神の意志が実現した、成就した、ということです。旧約の預言者は神からの言葉を託された人たちです。その神の言葉というのは、神の意志、神の御心の現れです。イエス・キリストがガリラヤへ退き、カファルナウムに移住されたことは、神の意志の実現だったということです。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ。」これがマタイが引用している預言者イザヤの言葉です。ゼブルンの地とナフタリの地というのは、ガリラヤ地方のことです。ということはここで預言者はガリラヤのことを「異邦人のガリラヤ」と呼んで、ガリラヤのことを語っている。
なぜガリラヤのことを「異邦人のガリラヤ」というか、と言えばこの地がイスラエルの北限の地域にあたり、多くの外国勢力の侵入を繰り返し受け、紀元前の733年アッシリアの占拠によってイスラエルではなくなり、失われてしまった。その後もさまざまな人種、文化、など他民族との混合が顕著となり、「異邦人のガリラヤ」と蔑まれて呼ばれるようになったのです。しかし紀元前の1世紀には、この地域はユダヤ人の帰属するようになったのですが、「異邦人のガリラヤ」という言葉は色濃く残っていたのです。
ガリラヤのことを、暗闇に住む民、と預言者は呼びました。協会共同訳は闇の中に住む民と訳しています。ズバリ闇なのです。そして死の影の地に住む者、というところは、死の地、と訳しています。ガリラヤの歴史がそうした闇を負ってきた、ということであり、死の地と言われるほどの苦しみを負ってきた。主イエスはその地で福音を宣べ伝え始めたのです。それはルカの言葉で言えば、失われた者たちへの福音です。いなくなった一匹の羊、見失われた銀貨、そしていなくなっていた息子への福音なのです。
主イエスがどこで伝道を始めたか、それは小さなことだ、という人かもしれません。しかし主イエスにとってそれはどうでもいい、小さなことではなかった。「異邦人のガリラヤ」と蔑まれた人々、闇に住む民として、死の地に住む者として苦しんできた人たち、つまり自分たちには光はあたらないと思い続けてきた人たち、その人たちに光を与える、あなたも光の中にある、いや、あなたこそ光の中にある、ということを宣べ伝える、それが神の御心なのだ、とキリストが神の御心を受けとめておられた。それは、「異邦人のガリラヤ」という言葉が示すとおり、異邦人に向かってもユダヤ人に向かっても宣べ伝えられる福音であるのです。主が故郷ナザレを離れ、ガリラヤ地方の中心となる町であったカファルナウムに移住したことも、主の神の御心に聞き、それをご自分の使命として受けとるところからのものだったのではないか。異邦人のガリラヤ、カファルナウムに住まわれた、ということは主イエスの強い意志をあらわしています。闇に住む民、死の地に住む者、苦しんできた者たち、異邦人、神から見放されていると思っている人、その人々の只中に住む、主イエス・キリストがここにおられるのです。住むのです。マタイのこれまでの文脈で言えば、これがインマヌエル、ということの一つの形なのです。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住む者に光が差し込んだ」、それがイエス・キリストの降誕ということです。インマヌエルということなのです。
預言者イザヤを通して言われていたことが実現するため、というマタイの文章は、神とイエス・キリストとの間で神の御意志を受けとめ、その御意志を使命とする、主イエスとの交流が語られているのです。
「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」そのときという「時」は、キリストがこの世界においでくださって神の救いの御業を始められたそのときです。イエス・キリストの語ること、なすこと、その働き、わざ、そのすべてが救いの御業なのです。
今キリストが宣べ伝え始められたこと、悔い改めよ、天の国は近づいた、それはたんなる教えではなく、キリストがこの世に来られたことそのものが天の国の近づきなのです。そしてキリストがこうして「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる場所で、そこに住んで、語りかけてくださっていること、それ自体が、天の国は近づいた、神の救いの時が全く新たに始まっている、ということなのです。
そしてそれは、ただその救いがあらわされたというだけではない。神の救いの完成の先取りとして、現在、このキリストから受ける救いが、神の将来の救いの約束でもあるのです。
主イエス・キリストの宣べ伝えは、天の国は近づいた、に基づくものです。キリストの救いの御業は、キリストの宣べ伝える福音は、すべて天の国、神の支配、神の完成の接近に関することなのです。マルコ福音書においても、イエス・キリストの宣教のはじめの言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」というものでした。神の国は近づいている、ということこそキリストの福音の中核です。そのことはつまり、悔い改めよ、はこの神の国の近づきの中で受けとめよ、ということでもあります。
主イエスの「悔い改めよ」、と洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」、とは内容的に違うのだ、ということをこれまでのところでも聞いてまいりました。ヨハネの悔い改めが根本的には、自助努力によるものであるのに対して、キリストが語る悔い改めは、わたしの力によるものではない。出自や努力や精進によるものではない。キリストの十字架によるものです。キリストというお方の存在によるものなのです。わたしによらない悔い改めなのです。キリストの贖いによって、そして復活によって与えられる新しいいのちによる、生への招きです。キリストという存在に負われてあることへの方向転換です。この福音はだから、民族も、国も、問わない。神の御子による救いへの招きであって、わたしたちの側の条件によるものではない。それこそが「異邦人のガリラヤ」への福音なのです。これこそが主イエスが神のもとを離れ、この世界にやってきてくださった神の御子イエス・キリストによってもたらされる福音、神の国、天の国の福音。世界は神が定めたときに、この福音によって完全に救われ、この福音の中に完全に包まれる。今まさに天の国は近づいた、のです。だから神に向きなおり、この神が与え給うイエス・キリストの福音を信じて、生きていきなさい、17節の主イエスの言葉はそう語りかけていくのです。そして主イエスご自身、この17節の言葉を生き、宣べ伝え、語りかけ、行動するべく召命を受けとめておられたのです。