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教会暦・聖書日課による説教

2023.4.2.棕櫚主日礼拝式説教

聖書:ヨハネによる福音書12章1-8節『 十字架に向かう主イエス 』

菅原 力牧師

 棕櫚主日を迎えました。今朝はヨハネによる福音書を通して、神のみ言葉に聞いてまいりたいと思います。

 

 さて主イエスベタニアというエルサレムにほど近い町に行かれます。そこは、主が死者の中からよみがえらせたラザロがいた、とヨハネは書き記しています。このラザロのことは直前の11章で詳しく記されているのですが、ラザロは死んで墓に葬られて四日もたっていたのに、主イエスによって甦らされるという驚きの奇跡を起こされたのです。ラザロはマルタ、マリアの兄弟でした。姉妹はラザロの死で深い悲しみを経験していましたが、それだけに大きな喜びを与えられていました。「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。」夕食という言葉は宴会と言ってもいい言葉で、マルタ・マリアは主イエスへの感謝でこの食事の機会を作ったのでしょう。他の福音書にも主イエスに香油を塗った、塗油の話はすべて出てくるのですが、こうして女性の名前まで記されているのはヨハネだけです。そして、マルタはここでも給仕に一生懸命でした。

 ラザロもそこに座っていました。それ自体驚きの光景でした。するとその食事の席でマリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラもってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足で拭」い始めました。その場に居合わせた人は、息をのんでぎょっとしたのではないか。そもそもマリアが高価なナルドの香油を何かで拭わなければならないほど、大量に注いだ、ということ。しかもそれが足だったということ。さらに香油を髪で拭わなければならないほど大量に注いだ、ということ。家は香油の香りで一杯になったというのですから、香油をドバドバ注いだのです。しかもこの香油は非常に高価なナルドの香油。この全部の行動が常軌を逸している。異常です。この香油はユダが言うように、300デナリオンでも売れる香油、それは、働く者の一年間分の給与額に匹敵するとんでもなく高価な香油なのです。

 弟子の中の一人ユダは、この光景を見てこう言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」マタイもマルコもここで発言者を特定せず、弟子たちとか人々はと言っているのに、ヨハネだけはこの発言をしたのはユダだ、と特定し、しかもあえて理由まで特定しています。

 ユダは悪い人間だから、と言わんばかりの文脈ですが、別にユダでなくても、それこそ他の福音書がそうだったように、そこに居合わせた人ならだれでもいいそうなことです。マタイの同じ個所では弟子たちがこの光景を見て、憤慨して、こう言うのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」。マルコでも同じ。理に適った使い方ならともかく、多けりゃいいっていうもんじゃない、たんなる無駄遣いだ、とこの場に居合わせた者たちが言っているのです。この場合、この無駄遣いは浪費ということです。だからユダはこんな垂れ流しのようなことをするなら、この香油を売って貧しい人に施したらいい、という正論を言ったのです。そう言ったのは、貧しい人々のことに心をかけているからではなく、弟子集団の会計を任されていて、その中身をごまかしていたからである、とまでヨハネは記しています。

 主イエスはこの発言に対して「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」と言われたのです。

 この主イエスの言葉、それをどう受けとめて主の御心に聞いていくのかが、今日の聖書箇所で最も大事なことです。そして、この主イエスの言葉には主の思いが幾重にも折り重なっているように思われます。

 まず、主は彼女の行為をそのままに受けとめてくださっています。彼女のしていることをそのままに受け入れてくださっています。それはキリストにはマリアの行為はたんなる無駄使いとは見えなかったということでしょう。マリアの行為はその根本にキリストへの感謝があります。弟ラザロを死から甦らせてくださった、そのことへの感謝が溢れ出ている行為ともいえます。それだけでなく彼女には主に感謝したいことがありました。かつて主がはじめて家に来てくださったとき、マリアは、主の足元に座ってその話に聞き入っていたことがありました。それはマリアにとっていのちのことば、神の言葉を語る主イエスとの出会いでした。まさに主イエスはマリアにいのちをもたらす主、救い主だったのです。マリアの感謝の思いはここで溢れ出た。それは人から見て無駄遣いに見えようが、浪費に見えようが全く関係ない。溢れ出た感謝なのです。キリストはそのマリアの感謝、主への応答をそのまま全部受け入れてくださるのです。

 それだけではない。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」と主は言われる。主はこの後、十字架への道を歩まれる。まっすぐに十字架に向かわれる。そして十字架での死を迎えられる。今、マリアがわたしの足に香油を塗ってくれたこと、それはわたしの葬りの準備なのだ、と主は言われるのです。確かに聖書の時代、亡くなった人の遺体に香油を塗るということはごく普通にすることでした。マリアはその先取りとして香油を塗ってくれているのだ、とキリストは受け取っておられるのです。もちろんマリアはそんなことは思わず、ただ感謝のゆえに香油を注いだのでしょう。しかし主がマリアの行為に対して、そう受けとめてくださっている、ということが大事なことなのです。

 この時イエスに従っていた弟子たちをはじめとして、主イエスを支持してついてきている人たちの誰が、十字架の死を思っていたか。誰が主が自分のために罪を負って、十字架にまでかかってくださることを思っていたか。誰も思っていないのです。例えばここで、ユダが香油を売って貧しい人に施したらいいと言ってある意味算盤勘定をはじいているとき、主イエス・キリストがどこに向かって何を思い、苦しみを負おうとしていたか。

 ユダはキリストの葬りの準備、ということなど露だに思ってもいない。別にユダに限らない、ほかの弟子たちも全く同様だった。しかしそのような中で主は十字架に向かって歩んでいかれた。

 十字架は、弟子たちは全く気付いていないけれど、愛の無駄使いです。主イエスが弟子たちを愛して、出会う一人一人を愛して、そのためにご自分のいのちをささげていく。けれど弟子たちを始め主の周りの人々は十字架を前にして逃げ出し、裏切り、キリストを棄てていく。そのような者たちを愛することは、愛の無駄使いですよ。愛の浪費です。十字架は愛の浪費なのです。しかし弟子たちの誰もが、そしてユダも、このキリストの浪費の愛において活かされ、支えられている。もし愛の効率というようなことをいうなら、ユダのいうように、これは無駄遣い。しかしそもそも愛というのは浪費なのです。惜しみなく溢れ出るもの、それが愛なのです。マリアはキリストの恵み、愛、そのことに出会い、喜びと感謝のうちに溢れ出るものがあった。敢えて言えば、主イエス・キリストは、浪費の愛に生きる方だったからこそ、マリアの感謝と喜びを、浪費に見えようが何だろうが、そのままに受け入れることができるのです。

 しかし、「わたしの葬りの日のために」という主の言葉は、それだけでなく、さらに別の意味もあるのではないか。それはマリアは香油を主イエスに注いだのですが、キリストという言葉、イエス・キリストのキリストという言葉はヘブライ語の「油注がれた者」のギリシア語形なのです。油注がれたものとは、旧約聖書において、王、祭司、預言者を指す言葉で、そのものたちはその任につくとき、油注がれるのです。すると主イエスはここで自分が十字架にかかっていくことで、人々の罪を担い、その罰としての死を死ぬことで、まことの王、まことの祭司、まことの預言者として油注がれ、その座に就くことを受けとめておられたのではないか。まさに「葬りの日」十字架こそが、主がキリストであることが宣言されるときなのです。

 もちろん、そのことは、油を注いだマリアはもとより、その場に居合わせた弟子たちも、誰一人その時その場では知らないことです。受けとめていないことです。

 しかし主イエスにおいては、このマリアという一人の女性がしてくれたことは、その足への注ぎということにおいて、キリストに対する油注ぎ、戴冠式というべき出来事だったのです。

 最後に8節の主の言葉はそれほど理解しやすい言葉ではないものです。しかし今一つの事を言えば、これは、貧しい人たちへの配慮とか行動と、主イエスとの関係を二者択一的に述べている言葉ではないということです。そうではなく、文脈全体から考えると、イエス・キリストの溢れ出る愛、十字架の愛、浪費の愛によって愛されている自分を知らされ、その愛に感謝し、キリストを愛するというそのこと中で、そのことを通して、わたしたちは貧しい人、困難の中にある人、苦しんでいる人へと向かっていけるのだ、ということキリストは語るのです。

 いまここで、十字架に向かう救い主をしっかりと見つめてほしい。そこに溢れ出るキリストの愛、神の愛を受けとめていってほしい。そこからあなたの日常の歩みを本当の意味で始めていってほしい、キリストはそうわたしたちに呼びかけているのです。