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教会暦・聖書日課による説教

2023.4.9.復活祭主日礼拝説教

聖書:ルカによる福音書24章1-12節 『イエス・キリストの復活』

菅原 力牧師

 2023年の復活祭の朝を迎えました。主イエス・キリストの復活の出来事に共に聞き、復活のいのちに活かされ、神を礼拝してまいりたいと思います。

 ルカによる福音書24章には、主イエス復活の日の出来事が次々に記されています。この詳しい記述はルカ独特のもので、この24章全体が一つのまとまりのある復活の物語になっていることが伝わってきます。そのことを念頭に置きつつ、今日の聖書箇所に聞いてまいりたいと思います。

 「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓の脇に転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見たらなかった。」安息日が明けて、主イエスのご遺体に香料を塗るため墓に急いだ三人の女性たちがいました。墓につくと、驚いたことに墓の入り口の大きな岩がどけてあり、中に入ってみると主イエスの遺体がなかったのです。彼女たちは途方に暮れました。すると輝く衣を着た二人の人が、彼女たちのそばに現れました。

 二人はこう語りかけてきたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 彼女たちは、主イエスが復活するなどとは全く思ってもいない。ただ遺体に香料を塗るために墓に来たのです。

 ところが遺体が見当たらず、二人の人が語りかけてきた。天使とはどこにも書いていないのですが、まぎれもなく天使です。二人の天使は短く、かつはっきりと宣言します。なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか、キリストは復活なさったのだ、ということ。そしてもう一つは、ガリラヤにおられたころ主が語ったことを思い起こしなさい、ということです。受難予告と、復活予告を思い起こしなさい、ということです。

 主イエスの語られた言葉を思い起こしなさい、と言われて女性たちはイエスの言葉を思い出した、とあります。この人たちは、何らかの形で受難予告も、そして甦りの予告も聞いてはいたのでしょう。けれど、他の弟子たちもそうであったように、主がたびたびなさった受難予告の言葉を、真正面から受け止めた弟子はいませんでした。逆にペトロのようにそんなことがあってはなりません、と諫めた者はいた。つまり受難予告などという縁起でもないことは言わないでほしいと忌避したのです。苦しみの予告など蓋をしたい言葉だったのです。

 しかしここで天使が語ったのは、もう一度主イエスの言葉を思い起こしなさい、ということでした。そしてその言葉の通り、主は十字架にかかり、死んで、復活させられたのだ、ということです。彼女たちは主の言葉を思い出した、とあるのですが、思い起こして、どうなったのか。信じたのか、信じなかったのか。何も書かれていませんが、主が復活したことを喜び、神に感謝した、とも書かれていない。態度を決定できない、ということかもしれない。しかし彼女たちはとにかく、この天使の語ったこと、自分たちの目で見たこと、それを12弟子をはじめ、多くの弟子たちに伝えたのです。

 伝えられた弟子たちは、この話が「たわ言」のように思われたので、女性たちの言うことを信じなかった、と報告されています。主イエスの最も身近にいた弟子たち、しかし十字架の前では逃げ出した弟子たち、この人たちは天使の言葉を戯言、馬鹿げたはなし、と受け取ったのです。

 ところが弟子の中の一人ペトロは、この話を聞いて、墓に走り、墓の中に入り、中をのぞいたが、からの墓を見て、驚きながら家に帰った、のです。

 そうするとここまでのところでの登場人物たちの反応は、天使の言葉に信じるという態度も、信じないという態度も取りかねている女性たち、天使の言葉を馬鹿げた話だと受け取り、端から信じなかった弟子たち、そして信じなかったけれど、不思議な話だと思って墓に行った弟子、ということになります。共通しているのは、信じてはいない、ということです。確かに女性たちは弟子たちに伝えに行ったけれど、復活の喜びに躍り上がって伝えたわけではない。

 ここに登場してくる人たちは皆主イエスの最も近くにいた人たち、男であれ女であれ、ルカが言うところの弟子たちです。その人たちがみな一様に、復活という出来事を信じない。こういうことを精確に記録しているルカはすぐれた著者だと思います。神によるイエス・キリストの復活は弟子たちにとっても、誰にとっても右から左に信じられるものではない。その人間の姿が、ありのままに描かれているのです。

 ルカ福音書24章はこの後、二人の弟子が、エマオという村に行く途中で、復活されたキリストに出会うという出来事を書き記しています。二人はその方が主イエスだとはわからず、主から道々聖書の言葉を聞き、パンを割き、祈る中で、キリストだとわかるというエマオ途上の出来事です。そしてさらに、その二人の弟子が11弟子の集まっているところに行き、復活の主イエスとの出会いを伝えているとこに、主イエスが現れ、彼らの真中に立ち、語りかけるという出来事を書き記しています。これはルカ独自の記述で、この24章の全体を通して、主の復活のメッセージが宣べ伝えられているのです。

 復活は、あの最初の登場人物たちがそうだったように、わたしたちの力でわかるようなものでも、信じられるものでもないのでしょう。また無理に信じ込むようなものでもない。キリストの復活という神のなさった御業にわたしたちが触れていくのは、主イエス・キリストが、復活したイエス・キリストが近づいてくださって、語ってくださる中ではじめて、目が開かれ、心が開かれていく出来事なのだ、ということがここで語られているのではないでしょうか。三人の女性たち、11人の弟子、ペトロ、そもそもこの人たちはキリストを信じて従ってきた人たちです。信心深い人たちと言ってもいい。しかし、復活信仰というのは、そもそもその人の信心深さによらないのです。自分の中にないこと、能力外のこと、自分の知性の中にもないこと、そのわたしにキリストが近づいてくださる。

 その場合、主イエスの復活に出会うということは、二人の天使が語ったように、ガリラヤにおられたころ主がお話しくださったことを思い出すことが大事なことなのです。それはキリストという方の生涯がどういう生と死だったのか、ということを思い起こすことなのです。わたしたち一人一人に仕えて生きる、それがキリストの生涯の根本にあること。それゆえに、キリストはわたしたち罪人のために、十字架にかかり、わたしたちの罪を負い、その罪の贖いとしての死を死に、十字架で死んだ。神の子の主イエスを甦らせ、わたしたちの罪を赦すだけでなく、わたしたちが新しいいのちに生きるよう招かれた。

 復活の主イエスと出会うということは、ああそうか主イエスは死んでいたけど、甦ったのか、というだけの話ではない。あなたを背負い、あなたの罪を担い、あなたに代わって罪の罰を受けて死んだ主イエスが復活した、ということ。だからあなたは、罪許され、神の子どもとして新しいいのちに生きることができる、あなたもまた終わりの日に、復活するものとされる、という言葉が、復活の主イエスから語りかけられている、ということなのです。だからわたしたちは近づいてくださるキリストにわたしたちも近づいていきたい。

 キリストはわたしたちの人生の旅の途上で、わたしたちに道々語りかけてくださる。わたしたちが不信仰であっても、復活という出来事の前でぐずぐずと態度決定できないままでいても、復活のキリストはわたしに語りかけてくださる。

 同時に、キリストはわたしたちが集まっているこの場所の真中に立ってくださって、この場所で語りかけてくださる。それがキリスト教会なのです。教会の礼拝は、いつでも復活の主の語りかけに聞く時と場なのです。キリストが語りかけてくださる、それは聖霊の働きの中でその語りかけはわたしたちに届けられるのです。

 わたしたちは、近づいてくださるキリスト、語りかけてくださるキリストに対して、どう応答していくのか、それが大事なことになっていきます。

 呼びかけても呼びかけても、応えない人がいます。弟子たちがそうだったのです。キリストがわたしはこれからこう歩んでいくよ、と語りかけても、まとも聞いていない。本当に心がそこに向いていないからです。その弟子たちが改心して、自分の心の向きを変えたのではない。主イエスが辛抱強く語りかけてくださることで、心が開かれていったのです。そうであるならば、わたしたちはキリストの呼びかけての言葉に、耳を傾けていきたい。求めていきたい。聞かせてください、という祈りを持ち続けて、主よお語りください、しもべは聞きます、と祈り続けていきたい。

 与えられたこの人生で、復活の主イエスと出会い続けながら、そこで生きる力と勇気を与えられながら、終末の希望を与えられながら、キリスト共に歩んでいきたいと願うのです。