マタイによる福音書連続講解説教
2023.4.16.復活節第2主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書4章12-25節『 主イエスの伝道 』
菅原 力牧師
主イエスはヨハネから洗礼を受け、サタンの誘惑を受け、そしていよいよ伝道を開始されていかれました。前回読んだのは、その伝道の開始はガリラヤの地で始まった、ということでした。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる地での伝道の開始は、主イエスの伝道が、ユダヤ人への伝道はもとより、異邦人への伝道へと展開し、広がっていくものであることを指し示すものでした。そして、その拡がりの中には、闇の中に住む者、死の影の地に住む者、失われたものへの福音の宣べ伝えであった、ということが語られていました。
主イエスはガリラヤ湖の畔を歩いておられました。そこで主はシモンとアンデレの二人が湖で網を打っているのをご覧になったのです。二人は漁師だった。
そしてこの二人に呼びかけられた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」主が呼びかけた言葉は、「わたしについて来なさい」でした。すると二人はすぐに網を捨てて従った、のでした。
さらに進んで、ヤコブとヨハネが舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると、この二人にも主イエスは呼びかけられた。この二人もすぐにイエスに従った、と語られているのです。主イエスが伝道を始められた。その最初にこの四人のものを弟子とされたのです。主イエスは弟子と共に歩んでいく。どうしてなんでしょうか。一人で伝道してもよかったのに。主イエスであるならば、一人で十分その使命を全うすることができるでしょう。しかし主イエスは弟子を取られた。
すぐれた人物の周りにはすぐれた人々が集まるものです。よく知られているようにアメリカ大統領にはブレーントラストと呼ばれる頭脳集団がいて、大統領の働きのためのブレーン集団、それぞれの専門性を持った集団があって、大統領はその務めにあたる。大きな働きをするにあたって、それは当然といえば当然でしょう。
しかし主イエスはご自分が伝道を開始するにあたって、そういうブレーン集団を作ろうとされたのではない。すぐれた人材を集めて、英才教育を施し、鍛え、育て上げようとしたわけではない。今日の聖書箇所に登場する4人、この人たちがなぜ弟子となるべき選ばれたのか、わからない。わかっているのは、この人たちが漁師だ、ということだけです。しかも主イエスはこの人たちに英才教育をほどこしたわけではなく、ただ彼らと一緒に歩み、一緒に生活し、一緒に仕事をし、一緒に福音を宣べ伝えようとしたのです。
主イエスの弟子集団は信徒のお手本となるような優れた信仰者集団を形成したかと言えば必ずしもそうではなく、むしろ主イエスのよき理解者とも言えない面が強く、不信仰をさらけ出すことも少なくなかった集団でした。ある人々から見れば、主イエスの歩みの妨害者ともいえる存在でした。
それなのに、主イエスはその伝道の歩みはじめから弟子を招き、弟子と共に、その生涯を歩まれること深く望まれた。どうしてなのか。
それは主イエスの語る福音というものと分かちがたく結びついているのです。17節でみたように主の語る福音は、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というものでした。この天の国は近づいた、とはイエス・キリストのこの世界に来たことそれ自体が天の国は近づいた、ということなのです。イエス・キリストがこの世に来たったこと、それによって神の支配は、神の救済は近づいた。天の国が来るのは確かに終末です。それは将来のことです。しかしキリストがこの世に来たりて、十字架と復活の救いを明らかにしてくださったことで神の支配は、わたしたちの只中に、わたしたちの間にやってきた。その福音は、誰であれ、神の救いの業の中におかれる、イエス・キリストの恵みの中におかれる、置かれていく、だからこそ神に立ち帰れ、とキリストは宣べ伝え始められたのです。
この福音が宣べ伝えられていくのは、したがって、ユダヤ人だけなのではない。異邦人のガリラヤなのです。ユダヤ人であれ、ギリシヤ人であれ、愚かな者であろうが無学な者であろうが、誰であれ、十字架と復活の福音の中にあるのです。暗闇に住む民、死の影の地に住む者も、失われたものも、みなこの福音の中にすでに生かされているのです。
主イエスの弟子として招かれていくのは、その人の持てる力によるのではなく、その人の能力やその人の信仰によるのでもない。主イエスの呼びかけによるのです。その呼びかけの声が自分に与えられていることを受けとめていくこと、そこで主イエスと弟子との関係が生まれていくのです。
主はシモンとアンデレに対して「わたしについて来なさい」と言われました。わたしの後からついて来なさい、キリストに従う、これこそが主イエスと弟子たちとの、わたしたちとの関係の根本です。主の告げた福音は、悔い改めよ、天国は近づいた、でした。この悔い改めるということは、改心するというようなことではなく、神の恵みの中にある自分を知るということ、キリストの恵みの中に自分があることを知ることです。そしてそれが、キリストについていくということなのです。
主イエスはここで、ついて来なさい、と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った、とあります。どうしてこういう決断がなされたのか、ここには何も書かれていません。「すぐに」というのも、不思議です。しかしここでは、主イエスとの出会いがあり、呼びかけがあり、それに従うものがいたという事実が報告されているのです。不思議な記述と言えばそうなのですが、突き詰めて言えば、わたしたちも主イエスと出会い、その言葉に聞き、呼びかけに聞き、従うものへと招かれた、ということなのでしょう。
今回あらためてここを読み直して、示されたことがあります。主イエスは、わたしたちのためにいのちをささげて、十字架にかかり、わたしたちを負ってくださった。救い主である方が、わたしたちに仕えてくださった。その主イエスに応答していく態度は、どういう態度がふさわしいのでしょうか。主イエスは二人に呼びかけられた。「わたしについて来なさい」と。それがわたしたちの主イエスに対する応答の態度なのです。「従う」ということこそ、わたしたちのために全存在を与えてくださった主イエスへの応答の態度。
しかし、言うまでもなく、わたしたちはキリストに従う時もあれば、従うどころか、自分本位に生きていることも少なくない。ここで従ったシモン・ペトロもアンデレもキリストに従わず、弟子であることから、降りてしまうようなこともあった。
しかしそれでもキリストはシモンを招く。シモンに呼びかける。「わたしについて来なさい」と。そして離れていったペトロも、その主の呼び声に聞いて、その声を聞いて、その呼びかけの中にある自分を受けとったとき、もう一度ついていくのです。もう一度従うのです。それは何度繰り返してもいい。何度でもキリストの声に聞くのです。そしてキリストの言葉と、わざと、信実の中にある自分を受けとって、ついていく。そういう仕方でしか、わたしたちにとっての「従う」は生涯の中のものとならない。キリストの御声に聞く、それがすべての始まりです。そして、キリストの言葉において、わたしはわたしになる。わたしが何者であっても、何者でなくても、イエス・キリストによって負われているものとして、キリストに担われ、キリストの十字架に背負われ、罪許され、生かされているものとして、わたしはわたしだ、ということを知るのです。キリストの恵みの中にある自分を知るのです。わたしはキリストにおいて安心してわたしなのです。わたしはキリストにおいて、歩んでいける。そのことをキリストのみ声を聞く中で受け取る。そのわたしに出会い、そのわたしがキリストについていく。キリストの弟子としての歩み生活は、そこから始まる。キリストはこのわたしと共に歩んでくださる方であり、このわたしを弟子としてくださる方。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、キリストに出会い、キリストのみ声に聞いて、キリストに従った。
わたしたちも、いつでもキリストのみ声に聞くことから、新たな歩みを始めていきたい。キリストの言葉を聞いて、キリストの恵みの中にある自分を知り、その自分を受けとめていきたい。それこそが悔い改め。そしてそのキリストについていきたい。従っていきたい。そしてキリストの弟子としての生涯を歩んでいきたい。ペトロやアンデレの後に続くものとされていきたい。主イエスはそのような一人一人と共に、神の国の福音を宣べ伝えることを望んでおられるのです。