マタイによる福音書連続講解説教
2023.4.23.復活節第3主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書5章1-3節『 幸いなるかな、心の貧しき者 』
菅原 力牧師
今日から皆さんとご一緒に主イエスの語られた「山上の説教」に聞いてまいりたいと思います。「山上の説教」と呼ばれるのは、マタイによる福音書の5章から7章までに記されている主イエスの語られた説教のことです。この部分は聖書の中でもとりわけ有名な部分で、聖書のことはよく知らない人でも、山上の説教の言葉の断片は聞いたことがある、という人が多いのです。実際、今日の聖書箇所の言葉、「心の貧しい人々は幸いである」とか、敵を愛せよ、とか、「明日のことを思い煩うな。明日は明日自ら思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」というような言葉は、さまざまな形で知られています。
どうして有名なのか、ということを思うと、この山上の説教の持っている高い道徳性、倫理性によるのだ、という人がいます。よくわからないけれど、ここには、とても高い志があり、人の生きる道として、理想形のようなものが語られている、と受け取るのです。
実際「山上の説教」はそのように人が求めるべき理想の道徳性、倫理性として受けとられてきた面もあります。皆さん名前を聞いたことのあるトルストイという人は、まさにこの山上の説教を自分の生活において生きようとした、少なくともそのように努力した人であり、そのトルストイのようにこの説教を聞こうとした人は少なからずいるのです。
しかしことはそれほど簡単のことではありません。山上の説教を読めばわかるように、右から左に実行できるようなものではないのです。むしろ実行できない言葉がここにはこれでもかこれでもか、と語られている、と言った方がいい。
さらにこの説教を読めばわかるように、これは十戒のように戒めだけが語られているわけではない。むしろ説教の真ん中には主の祈りがあり、祈りが中央に据えられているのです。また一方でこの説教には戒めや祈りといった範疇・カテゴリーとは別のタイプの言葉もあります。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神にはこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」こうした恵みの宣言もある。そうした様々なことが語られているこの「山上の説教」というものを、主イエスの御意志に即して聞いていきたいと思います。
さて、今日皆さんとご一緒に聞く主の説教のみ言葉は、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」という山上の説教の最初の言葉です。
心が貧しい、とは日本語でどういう意味か、というと度量が小さいとか、しみったれている、人間性が乏しい、という意味で使われています。
だから、ここで「心の貧しい」と言われているのは、日本語の意味とは違って、聖書独自の意味だろう、と思っている人は少なくない。教会外の人でも、度量の小さい人は幸いだ、とはさすがにここを読もうとはしない。じゃあいったいどういう意味で主イエスは語られたのでしょうか。
ルカによる福音書の6章にもこことよく似た主イエスの説教が記されています。ルカの方は山の上ではないので、平地の説教とも呼ばれていますが、そこでは、ただ「貧しい人々は幸いである」とあって、心のというマタイについている言葉がありません。ルカの方で読めば、経済的に貧しい人々のことを言っているというのはすぐにわかります。ところがマタイでは「心の貧しい人々は」となっていて、明らかにルカと違うのです。この場合、どちらがオリジナルなんだ、という議論は的外れで、意味がない。主イエスはこうした説教をいろいろな場所、いろいろな時にされたのです。そしてさまざまな説教の伝承が伝わっているのです。ルカはルカでの主イエスの説教、マタイもそう。だからルカはルカの文脈で読み、マタイはマタイの文脈で読むことが必要なのです。
ところで、「心の貧しい人々」というので戸惑ったのは日本語でこれを読んだわたしたちだけではないのです。ギリシヤ語でこれを読んだ人々も、これはどういう意味なのだろうか、戸惑ったのです。
心の貧しい、と訳されている言葉は、元の言葉は「霊において貧しい」という言葉です。そもそもこの霊において貧しいとはどういうことなのか、わかりづらいのです。わかりづらいからこそ、この山上の説教の第一句を巡って、これまで様々な解釈がなされてきました。例えば、その一つは、霊に貧しいというのを、謙遜な人、へりくだる人、つまり自分の貧しさを自覚し、その受けとめて生きる人、と解釈する人たちがいました。
だが、果たしてそれで主イエスがここで語られた言葉に盛られた内容を十分汲み取っているのか。聖書の言葉の前で暗礁に乗り上げたり行き詰まったりしたとき、主イエスの御意志はどこにあるのか、思いを巡らせていくことが大事なことはもちろん、マタイがどういう文脈の中でこの言葉を書き記しているかも重要なことになってきます。
まずこの時の聴衆です。主が誰に向かって語ったのか、ということです。
5章1節「イエスはこの群衆を見て、」とあります。この群衆って誰なのでしょうか。それは4章23節から25節に登場する人々のことです。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、癲癇の者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきた」とあって、「こうして、ガリラヤ、、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」とあるのですが、その群衆です。
ということは、この群衆は病んでいる人、苦しみの中にある人、悪の霊に取り憑かれて苦しんでいる人、そしてその人たちを世話する人や、家族、その痛みを共に担っている人たちです。そんな人たちが主イエスのもとに押し寄せてきていたのです。
5章1節の「イエスはこの群衆を見て」の「見て」は、きわめて意味深長な「見て」でしょう。現実の中で苦しんでいるんです。自分ではどうすることもできないような苦しみや、困難にぶつかっているのです。その現実を主イエスは見ておられるのです。
主はこの群衆のために、そして弟子たちのために、あえて小高い山に登り、その一人一人に向かって、その一人一人の顔を見ながら語ることができる場所から語りかけた。その説教の第一句は「幸いなるかな、霊において貧しい人々、天の国はその人たちのものである」との語りかけなのです。今現実の中で苦しんでいる人たちを「霊において貧しい人たち」と呼んでいるのです。ここでいう霊とは人間の心の奥底を指す言葉です。そして貧しいとは、あえて言えば絶望しているといってもいい言葉。今目の前にいる人たちは病気で苦しんでいる、困難の中で喘いでいる。しかしそれだけでない、その病気のゆえに、その苦しみのゆえに、お前は神の祝福から見離された者だ、と烙印を押されて、そのことにおいても苦しんでいる人たち。心の奥底で、絶望している人たち、その人たちのことを「心の貧しい人たち」と主は呼んでいるのです。
そしてその人たちに対して、憐れみの言葉を投げかけたのではない。そうではなくて、その人たちに対して、幸いだ、幸いなるかな、と宣言したのです。あなたたちこそ、天の国の住人なんだ、という宣言です。
あなたたちこそ天の国の住人として迎えられているんだ、という宣言です。
ここでわたしたちはマタイ福音書のここまでの主の言葉出来事を一つ一つ思い起こす必要があります。主イエスがこの世界に降誕してくださったこと、そして一人の乳飲み子となって、この世界の困難や悪の中に身を置いてくださったこと。そしてヨハネから洗礼を受けてくださったこと、その一つ一つがわたしたち人間に対する共存の意志、インマヌエルの御意志なのです。
そして主のこの世界での福音の宣べ伝えは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」で始められたのでした。神の国の支配は近づいている。そしてその神の国の住人は、今苦しんでいる者、今絶望の中で打ちひしがれているものなのだ、なぜなら、今苦しんでいる者こそ、この世のさまざまな力にねじ伏せられ、悪の力や、罪の力や、この世の諸力の下にあえいでいるのだから。わたしはその一人一人を担うために、負うためにこの世に来たのだから。失われたものを探し出し、回復するために来たのだから。ここにはイエス・キリストの御意志が貫通している。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちたちのものである。」この山上の説教の一句の中にキリストの御意志が、この世においでくださったキリストの御意志が溢れ出ている。驚くべき宣言です。何をしたから天国に入れるとか、どんな人間になったら、天に入れる、というメッセージはここにはない。ただ、今心の奥底で絶望している者、その人が神の国の住人とされているのだ、という驚くべきメッセージがあるのです。心の奥底で、何に、どう絶望しているかは、人それぞれに違うかもしれない。だが、キリストは群衆を見て、その根底に、心の奥底で絶望している人間の姿を見てくださっているのです。そしてその人は幸いだといわれる。その人の状況が好転するとか、改善されるからだ、というのではない。そうではなくて、神の祝福の中にあるからだ、神の支配の中にその人こそあるからだ、というのです。この宣言は終末論的です。終末の神の御国の住人なのだ、ということですから。しかし、主イエスがこの世界に到来して、神の救いの業は始まり、今目の前にいる群衆の一人一人もキリストの十字架と復活によって負われているのです。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」わたしたちは今この言葉をじっくりとかみしめていきたい。この言葉に包まれ、この言葉の中におかれている自分を受けとめていきたい。そして、この言葉を聞いて歩き始めた群衆や弟子たちと共に、ここから今日を生きる者と、されていきたい、と願うのです。