マタイによる福音書連続講解説教
2023.4.30.復活節第4主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書5章4節『 幸いなるかな、悲しむ者 』
菅原 力牧師
今日は山上の説教の「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という主のみ言葉に聞いて、神を礼拝してまいりたいと思います。さて、この主イエスの言葉、これを聞いた人は誰でも素朴な疑問にとらわれるだろうと思います。悲しむ者がなぜ幸いなんだ、という疑問です。幸いでないから悲しんでいるのに、幸いだ、などとどうしていえるのか、という疑問です。
山上の説教を、キリストからの言葉として、信仰によって受け止めていきたいと願う人々にとって、この疑問を抱えながら、この主の言葉と向き合い、対話していくということが大事なことです。その場合、これまでもそうであったように、主イエス・キリストという方の存在、御意志、言葉、行動の全体からこの一句を読み取っていくことが対話の中身になってくるのです。だから、山上の説教に限らずですが、わたしたちは、主イエスのみ言葉を聞くときに、自分が持った疑問を簡単に手離さずに、むしろその疑問を抱えながら、キリストと対話して、み言葉に聞く、ということが大切なことなのです。
こうした疑問を抱えながら読んできた中で、教会の歴史の中でいろいろな読み方、解釈が4節を巡って生まれてきました。その中の一つにこういう解釈があります。
ここで「悲しむ者」と呼ばれているのは、「自分の罪を心から悲しみ、そして悔い改めようとする者」のことで、その人には神からの赦しが与えられ、ひいては慰めが与えられる、そう主イエスは語っておられるのだ、という解釈です。
この解釈はずいぶんと支持された解釈で、悲しむといって一それは無際限に言われているのではなく、やはり人間にとって最も深刻な問題、「罪」についての悲しみをここで語っているのだ、という解釈です。さらにそこから、自分の罪を悲しむだけでなく、他者の罪も悲しむ、他者の罪も自分の罪と同じように痛み、神の赦しを願うものとなっていく、そういう人は慰められるのだ、と解釈を広げていくのです。この解釈は自分の罪のために、また他者の罪のために悲しむ、そういう生き方へと、この4節は呼びかけている、という方向性の解釈と言えます。
この4節を巡って、こういう理解のされ方、読み方がされてきたということは、わからないではないし、教会の歴史に思いをいたすと、こういう読み方が強調されてきた事情も分かるのです。しかし、この読み方にはかなり無理があると思います。
それはどういうことかと言えば、悲しむ者というのを、罪に悲しむということに限定していることです。もちろん罪に悲しむ、ということは大事なことであり、キリスト者にとって避けて通れない事柄であるし、救いということと深く繋がっている。だから、罪に悲しむことは重要なことです。しかし悲しむということは、別にそのことに限らない。もっと多様で、多層的で、いろいろな悲しみがあるのです。あの悲しみも、この悲しみもあるのです。それを一つの悲しみに限定することが、そもそもできるのか。そしてさらに大事なこと、先ほどから申し上げているように、それがキリストの御意志であるかどうか、それは丁寧にキリストと対話しなければならないことです。
いうまでもなく悲しみはさまざまです。大きな悲しみもあれば、小さな悲しみもある。日々痛感していく悲しみもあれば、折々に思う悲しみもある。
愛するものを失った悲しみの中にある人もいます。人間関係で傷つき深い悲しみの中にある人もいます。目的を達成できず、自分の中に苦しみを抱え込んで悲しんでいる人もいます。齢を重ね、思いもよらぬ病の中で、自分の体の自由も効かない悶えの中での悲しんでいる人もいます。悲しみは数限りなくある。その悲しみの中で、この悲しみは幸いだが、この悲しみは幸いではないのだ、というような分類などできるはずもない。そしてわたしたちは、罪を悲しむことも含め、さまざまな悲しみを経験していく。
「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」というみ言葉は、悲しみを限定する言葉なのでしょうか。悲しみになんらか区分けをする言葉なのでしょうか。
結論から言えば、そうではない。キリストはここで悲しみを限定しようとはしておられない。それはキリストの歩み、言葉、行動、御意志から聞き取ることのできることです。キリストはここで端的に「悲しむ人々は幸いだ」と語りかけておられるのです。
それはどんな悲しみであれ、悲しみのあれこれを問わず、今悲しんでいる人々は幸いだ、と言われている。
「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」なぜ幸いなのか、と言えば、慰められるからだ、とみ言葉は語るのです。悲しみはさまざま、そして悲しんでいる人の状況も状態もさまざま。しかし、たとえどんな悲しみの中にあろうが、悲しむ人々は幸いであって、その人たちは慰めを受けるのだ、というメッセージがここで語られているのです。
悲しみがさまざまであって、悲しんでいる人の状況もさまざま、ということは、その原因も、問題になっている事柄も、障壁になって事も、さまざまだということです。今、ここで主は、そのさまざまな悲しみを解消するとか、解決する、というようなこと言っておられないし、主はここで、その悲しみの原因をわたしが取り除こう、などとは言っておられない。
主がここで言われている慰めとは、悲しみの現実の中で、その悲しみを負って生きていくことができるようになる慰めのことです。悲しみに押しつぶされることなく、悲しみの中にあっても、立ち上がって顔を前に上げて、歩んでいくことができるようになる。そのような勇気と、力と元気が、その慰めによって与えられていく、そういう慰めが悲しんでいる人に与えられていくんだ、ということです。
慰められる、という4節のギリシヤ語は、ひじょうにたくさんの意味のある言葉で、呼び寄せる、招く、側へ呼ぶ、傍らに呼び寄せる、という意味を持った言葉です。ある牧師がこの言葉でとても興味深いことを語っています。それは、この呼び寄せるとか、招くとか、側に呼ぶ、それは例えば、バレーボールの試合で、流れが相手チームに傾いているとき、監督がタイムをかけ、選手を呼び寄せる、ということだ、というのです。試合をしていて、ある瞬間から、流れが相手のチームにあっという間に傾いていく。そしてあれよあれよという間に形勢が相手に有利に働いていく、ということはよくあることです。
そのとき監督の一言で、選手は呼び寄せられ、一呼吸置き、浮足立っている気持ちを整えられ、アドヴァイスも受け、もう一度新たな気持ちで試合に向きなおっていく、あの「呼び寄せる」、ということがこの慰めるのもともとの意味だ、というのです。
「慰められる」とは何よりも、イエス・キリストにわたしたちが呼び寄せられること、招かれること、側に呼ばれることだというのです。確かにそうなのです。しかし、マタイ福音書のこれまでの文脈で言えば、呼び寄せるというよりも、キリストの方がわたしたちの傍らにやってきてくださった、ということなのです。この世界にお生まれになって、わたしたちと共に在り続けるインマヌエルのキリストであり続けてくださる、このキリストがわたしたちの傍らに来て、いのちのことばを、そして十字架と復活の出来事をわたしたちのために与えてくださる。それが慰めの恵みです。
バレーボールの監督の例話にこだわるわけではないのですが、選手を呼び寄せるタイムは1セットに2回しか取れません。しかも1回30秒。
しかしキリストはわたしたちを何度でも何度でも呼び寄せてくださる。何度でもわたしたちを招いてくださる。ご自分の傍らに呼び寄せ、いのちのことばを、恵みを与えてくださる。わたしたちが日曜ごとに教会に集められ、礼拝においてみ言葉に聞く。それはまさに、キリストがわたしたち一人一人を呼び寄せてくださる、ということです。どんなにわたしたちが神から離れた生活をしていても、み言葉を通り過ぎるような生活をしていても、キリストは招いてくださるのです。礼拝は、キリストの招きの中で、キリストがわたしの傍らに来てくださって、神からの慰めを受ける時なのです。
み言葉を聞いて、それが自分にとって慰めどうかわからないこともある。悲しみの方が深く、痛手で、何がどう慰めなのか、わからないことだってある。しかし、キリストはわたしの傍らに来てくださるのです。わたしにとって本当に必要な慰めを語り、行動され、意志される。その事実、キリストが共にいてくださって、あなたのために祈り、語ってくださる、という事実を受け続けていく。礼拝とはそのような招きでもあり、わたしたちは礼拝において慰めを受け続けていくのです。
また一方で、礼拝の時だけ、悲しみが忘れられるとか、悲しみの現実から離れて、天国を思い、地上の悲しみを一時忘れられる、というようなものでもないのです。わたしたちは皆、悲しみを抱えたままで、ときには悲しみの只中で礼拝に来る。そしてその悲しみを負ったままで、キリストに招かれ、呼びかけられ、キリストの言葉を聞くのです。それが礼拝です。
悲しみの深さのゆえに、悲しみしか感じられない、ということはあることです。そこで慰めを受けるということ自体拒否したい、ということもあるでしょう。悲しみは人間をのみ込むほどの深さがあるからでしょう。しかし、キリストは人間の悲しみという破れ口に立ってくださった方です。破れ口に立たれて、そこでわたしたちを負い、そこでわたしたちに語りかけ、わたしたちを呼び寄せてくださり、救いのわざをお示しくださる方なのです。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」何度でも何度でも、この主イエス・キリストの言葉に聞いていきましょう。主の言葉とわざに耳と目を凝らしながら、この主の言葉に聞いていきましょう。そしてそこに溢れる恵みの大きさに、たとえ少しずつであっても、感謝し、喜び、それを受けとるものとなっていきましょう。