マタイによる福音書連続講解説教
2023.5.7.復活節第5主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書5章5節『 幸いなるかな、柔和なる者 』
菅原 力牧師
今日は山上の説教の三つ目の言葉「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」に聞いて、神を礼拝してまいりましょう。
わたしたちが聖書を読む時、ときどき思うことがあります。それは言葉の問題です。この言葉、確かに日本語ではこういう意味だけど、聖書の中ではそれでいいのだろうか、ということです。例えば、天国という言葉、日本語として定着してきていますが、これは聖書から出てきた言葉で、神が支配する全く新しい秩序のことですが、日本語での使い方は、死んでから行くところ、極楽、ということになってしまっています。だから、ときどき思うのです。この言葉、自分はこう使っているけれど、聖書においては、どういう意味なんだろう、と思う必要がある。それは、二重の意味で聖書を読み進んでいく上での課題です。一つは、当然のことですが、聖書の文脈、キリスト教という文化の中で、その言葉を受けとめていく必要がある、ということ。もう一つは、翻訳としての課題があるということです。
さて今朝与えられた主のみ言葉は、「柔和な人々は幸い」だです。その柔和ということはどういうことなのか。まずわたしたちが日本語で「柔和」という場合、性質や様子が優しく穏やかで、心が和む感じのすること、とげとげしいところのない、物柔らかな態度、と辞書には出てきます。柔和という言葉そのものが優しい、心が和む、というのはよく伝わってくるのです。
そういう日本語的な意味でここを受けとると、前の二つとは違い、違和感がない、心が貧しい人は幸い、悲しむ人は幸い、というのは違和感があったけれど、柔和な人は幸い、というのは確かにそうだろう、と頷くものがある。しかし頷くものはあるけれど、柔和ではないわたしはどうしたらいいんだ、という最も根本的な問題が残るのです。
聖書で語られている「柔和」、それは日本語の意味と重なり合う部分を持ちながらも、ずいぶん違う意味を持つ言葉です。そもそもここで使われている柔和という言葉ですが、へりくだる、という意味の言葉です。今度の協会共同訳聖書は「へりくだった人々は、幸いである」という語の本来の意味に訳しています。ではいったいへりくだるとはどういうことなのか。日本語でいう謙遜という意味とは違うのです。引照付聖書というのがあります。新約聖書で言えば、この言葉は旧約聖書のこの言葉と深く繋がっている、関係があります、ということを書き記している聖書のことです。その引照付聖書を見ると、この柔和という言葉は詩編37篇11節と記されています。難しい説明は割愛しますが、主イエスのマタイ5章5節の言葉は詩編37篇の11節を土台にしています。詩編の言葉は「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らを委ねるであろう。」というものです。この貧しいという言葉、これが柔和という言葉のもともとの言葉なのです。協会共同訳聖書はここを「苦しむ人が地を受け継ぐ、彼らは豊かな平和を楽しむ」と訳しています。整理します。柔和と新約で言われている言葉、これはへりくだるという意味の言葉なのですが、旧約で貧しい者、苦しむ者と言われていた言葉がへりくだるというギリシヤ語になっていったのです。
詩編37篇11節の直前、9節に興味深い文章があります。「悪をなすものは絶たれ、主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ」という文章です。つまり詩編37篇では地を受け継ぐものとは、主に望みを置く人、貧しい人、苦しむ人だと言っている。つまり、貧しい人とは、苦しむ人とは、主に望みを置く人だと詩人は歌っているのです。
主イエスは、今日の山上の説教の言葉を語る際、当然のように詩編37篇の言葉が頭にあったでしょう。
貧しい人のことは山上の説教の最初3節に出てきました。貧乏という意味ではなくて、わたしたちの魂の貧しさ、自分の力では救いを得ることはできない、自分自身に絶望している人、その人こそ天の国の住人なんだ、という言葉でした。ここでもまた貧しい、ということが大事なこととして語られている。自分の持てるものでは罪からの救いはどうにもならない、その自分の貧しさを知っている人は、神に望みを置く人だ、というのです。苦しみの中で、自分の力の貧しさを知って、自分の力で何とかしようとするのではなく、自分に絶望して、神に望みを置く、それこそがへりくだる、ということなのです。
貧しい、苦しむ、ということがここでへりくだるに繋がっていくのです。そしてそのような人こそ、地を受け継ぐ、と主イエスは言われるのです。この地は、主がこれまで語ってこられた「悔い改めよ。天の国は近づいた」というその天のこと、神が約束なさる終末の新天新地のことです。
もしへりくだるということが、わたしたちの道徳的なこと、ということなら、「どうか皆さん、できる限り謙遜な人に、謙る人になってください」という道徳的勧めの話になってしまいます。何かのはずみに少しだけ謙る者にもなるけれど、多くはへりくだることなく、自分の欲望や我に振り回されている、というような曇り時々晴れ、のような、傲慢時々謙遜、のような話になってしまいます。
けれど、キリストがここで語ろうとしておられるのは、道徳の話でも、あなたの性格の話でもない。あなたという人の存在に関する話なのです。わたしが、貧しいということ、それは、わたしの努力や、頑張りに解決できる事柄ではない、ということです。存在そのものの根っこのところが貧しいのです。例えばわたしたちは、人間として、自分を滅ぼしてしまう最も力あるもの、それは死と罪ですが、その前で無力なのです。たとえ現代の医学が延命治療をしたとしても、死そのものに対しては、人間は無力です。死んだ人間の前の前では無力です。同じように人間は罪に対して、無力なのです。自分の中にある罪の力を、ときにはサタンと共に力を振るう罪の前で、無力なのです。
一番根本的な問題に対して人間は無力。それが貧しいということです。だから、そこで苦しむのです。罪の前で、死の前で、人間は苦しむのです。
しかし、聖書の視点は、イエス・キリストが語られるのは、その貧しさの中で、神により頼む者、主に望みを置くものとして自分を受けとる、それがわたしという存在の根本的な在り方だ、というです。その存在の受け取りそのものがへりくだりなのです。へりくだりとは、ここで、わたしたちが一般的に使う相手よりも自分を低い者として行動する、という「生き方」の問題ではなく、わたしという存在がそもそも何者か、という存在の了解、受け取りの問題です。ここには、聖書の根本的な人間理解そのものがある。それは旧新約聖書を貫いているものです。
この「へりくだる人」こそ、新しい天と地の住人なのだ、ということです。だからこの5節の主の言葉を、わたしはあまり柔和な人間ではないので、というふうに自分の性質の問題として受けとってはならない。自分の貧しさを知らされ、罪と死の前で無力、貧しい、そういう存在だということを知らされていき、そこで神に本当に望みを置く、それがわたしという存在なのだ、ということです。
この同じマタイによる福音書の11章で、主イエスがこう語っておられる。「疲れた者、重荷を負うものは、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。」キリストはここで、ご自分のことを柔和なものだ、と言っておられます。キリストご自身がへりくだったものだと言っておられるのです。これは今申し上げた文脈で読むべき言葉で、キリストがご自分の性格を言っておられるのではない。わたしはへりくだったもの、つまりキリストご自身が貧しい者、苦しむ者になってくださっているの、ということです。それが持ったとも端的に表れているのが、十字架です。
キリストは十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びです。その叫びは、罪において神の罰としての死を避けられない、わたしの叫びです。罪人は、罪故に、神に裁かれ、神に見棄てられる、そして死んでいく、それが罪人とであるわたしに定められた道です。しかしキリストはそのわたしが負わなければならない、罪人への裁きとしての罰、見捨てられること、死、を負ってくださったのです。あの十字架上のキリストの叫びは、わたしの叫びを負ってくださったキリストの叫びです。罪の前で無力、罰を受けるしかないものにキリストが成ってくださったのです。ここにキリストがわたしのために貧しい者、苦しむ者、謙るものになってくださったという出来事があるのです。
キリストはその宣教のはじめから、十字架を覚悟しておられ、十字架を見つめて宣教されたと思います。この山上の説教も、十字架抜きに語れる説教ではない。
「へりくだるものは幸いだ、その人たちは地を受け継ぐ。」自分の無力を知り、貧しさを知り、苦しみの中で、神に望みを置く、それはキリストの十字架の恵みを知って生きるということです。キリストがわたしの貧しさも、苦しみも全て負って、共に在り続けてくださることを知って、生きるということです。
「へりくだるものは幸いだ、その人たち、神が約束したまう、新天新地を受け継ぐ、その恵みの中に活かされるのだ。」この主の言葉をじっくりと受けとめてまいりましょう。