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マタイによる福音書連続講解説教

2023.5.14.復活節第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章5節『 幸いなるかな、義に飢え渇く者 』

菅原 力牧師

 山上の説教、今日は四つ目の幸いについてご一緒に聞いて神を礼拝してまいりましょう。 「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」義に飢え渇く、というこの表現はわたしたちにとって日常的によく使う言葉とは言えないのではないでしょうか。「義」というのは正しい、とか正しさということでしょうが、誰の、何の正しさなのでしょうか。

 この「義」を人間の正しさ、正義、正しいこと、と受け取り、飢え渇くという言葉を求めるという意味にとって、正しいことを求め、正しいことを行っていこうとする態度だ、と理解する人たちがいます。

 しかしそうすると、この言葉は人間の道徳的な、倫理的な態度を巡る話、ということになります。しかも主イエスの言葉は、義に飢え渇く人々は幸いだと言っていて、義の行いをする人は幸いだ、とは言っていない。そもそも、義に飢え渇くとは、自分に義がない状態のことです。義がないから飢え渇いている。あくまでも義に飢え渇く人々が幸いだと言っているのです。

 人間が神の正しさ、神の義に飢え渇く、ということを語っているのです。

 それにしても、神の義に飢え渇くというと、ピンとこない人も多いかもしれません。自分には、あまりそういう経験はない、と感じている人もいるでしょう。主イエスのこの山上の説教で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と語られていますが、それとて、自分の中で求め続けられているかと問えば、中途半端。ましてここで主が言われるような、「義に飢え渇く」という生き方は自分には遠いと感じる人もいるかもしれません。

 神の義に飢え渇く、と言っても、そこにはさまざまな広がりがあります。例えば、自分の生活の中で理不尽なことや、深い悲しみや困難を経験して、その中で、一体神の正しさはどこにあるのだ、と問いかける、というような義に飢え渇くもあるでしょう。あるいはまた、戦争や自然災害といった、自分の力を遥かに超えた強大な力の前で、否応なくねじ伏せられ、思わぬ苦しみや悲しみの中で、神の正義を問うている人たちもいるでしょう。

 すなわち、自分が生きているこの世界が、混乱や、混沌の渦の中にあると感じれば感じるほど、この世界に神の正しさはどこにあるのだ、神の意志はどこにあるのだと問わざるを得ないのです。

 しかし神の義に飢え渇く、とはそういうことだけではない。義に飢え渇く、ということには、自分の中に義がないということに気づいた人の呻きがある。義がない、ということは、自分の中に自分をよしとするものがないということです。自分の罪に苦しむ人が、自分の中に自分の罪を克服するものがない、ということに気づいて覚える飢え渇きのことです。確かに人はこの世界の正義も求める。だが人は、自分の中の義のなさに気づいて飢え渇きを覚えるのです。

 

 聖書のたとえ話で具体的に考えてみます。

 いわゆる「放蕩息子」のたとえで、弟は父の家を自分から出ていってしまう。自分から生前贈与で受けた財産を手にして、出ていってしまう。そして遠い外国で、その財産を湯水のように使ってしまう。何もかもなくして、彼は零落する。家畜のエサを食べて腹を満たしたいと思うところまで行きつく。その時彼は父の家に帰ろう、と思う。父の家には有り余るほどの食糧がある、帰ろうと思う。

 だがその時弟は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」と父に言おうと決意して帰っていくのです。

 天に対しても、父に対しても罪を犯した、と彼が言っている罪とは、どういう罪なのでのしょうか。それは後で立ち帰るとして、今指摘したいのはその次、もう息子と呼ばれる資格はありません、という言葉です。自分には、主張すべき正義がない、ということです。自分なりの正しさがなく、これだから自分は帰ってきた、またよろしく、というだけの自分の中の正義がない、と言っているのです。だからもう息子じゃない、お父さんの息子と呼ばれる資格がない、従業員のひとりとして雇ってください、と言っているのです。

 あの時、あの弟は、自分の中の義のなさに気づいたのです。

 弟の罪とは、父の家を出たことです。父の家を出て、自分一人で自分の自由に生きたいと願ったのことでしょう。親の元を離れて遠い地で暮らす人はたくさんいるでしょう。しかし父との関係を自分から切り捨てて、自分一人で暮らそうとしたところに、あのたとえ話が語る罪があるのです。神から離れ、神との関係を退けて、自分一人で、自分の自由に生きていこうとする態度、そこに罪を見ているのです。だが弟がこの罪を認め自覚的になったかどうかは、あのたとえ話ではわからない。ただ弟は、自分の中に義がない、正しさがない、ということに気づき始める。

 自分で勝手に家を出て、好き放題して、自分が困ったら、助けて、と言ってまた自分の勝手で家に帰ろうとする自分。これが全部エゴだ、ということを弟は感じ始めているのでしょう。気がついたらエゴに振り回されている自分がいて、今もその自分がいる、それがまさに罪に呑み込まれている、ということなのかもしれません。神から離れて自分本位に生きようとすることが罪の中身だとするなら、弟はまさに罪に呑み込まれている。だが自分の中にその罪と戦う自分もいなければ、罪を克服しようとする力もない。そういう自分の中の義がないのです。その場合の義とは、自分の中の罪を見つめて罪だと自覚し、その罪に対してそれを克服しようとする自分の中の正義とでも呼ぶべきもの。それがない。

 気がつくと罪に呑み込まれていた、という実態。義において空っぽなのですよ。

 空っぽだからこそ、「罪人のこのわたしを憐れんでください」というほかない。

 山上の説教はここまで、「貧しさ」ということと深くかかわっている。それはわかりやすく言えば、持ってない、ということ。いや、無い、ということ。そのことと深くかかわっている。わたしはふつう何かを持っていることを幸いだと感じているのです。家があるだの、お金があるだの、健康な体を持ってるだの、立派なキャリアを持ってるだの、持っていることが幸いだと思っている。

 だが山上の説教はそうではない。魂が貧しいもの。それは今魂の奥底で貧しさのゆえに絶望している者、その人は幸いだという。悲しむ人々というのは、自分の悲しみを癒すすべが自分の中になく、悲しみを塞ぐものを持っていない人、その人は幸いだというのです。柔和な人とは、無力な人のことだと聞いてきました。共通しているのは、無いということです。

 これらは皆いささか足りないというのではない。根本的に、無いのです。

 義に飢え渇く、という時の「義」はこの自分の生身の体において、神さまの義が義のないわたしの飢え渇いているからだに水が染み入るように体の隅々にまで、あなたの義が貫通していきますように、ということでしょう

 神の義は神の意志の内容、と言ってもいい。それは知的に了解で終わるものではなく、その義に繋がれていくような、その義にわたしが結ばれていくような、さらに言えば、その義とわたしとが一つの関係性の中で生きるような、親子は、確かに別々の人格なのですが、例えば小さな子どもは親との深い一体性の関係の中で生きている、例えて言えば、そういうものなのです。あの放蕩息子は、父との深い関係性の中で生きることをこれから新たに受け取っていくのです。

 神はご自分の義を、この世界において実現するためにイエス・キリストをこの世にお与えになった。神の義は、ただご自分の正しさ、というようなものではない。もちろん神は義の方です。しかしその義は、人間と共に生きるために、人間の罪の中にご自分の御子を与え、人間の罪故に御子が苦しみを受け、無いものになっていくことをよしとされる義なのです。人間の罪の中で無力なものとして、罰を受け、死の前でも無力なものとして死んでいく、無いものになることをよしとされる神の義なのです。それは、無力なものを、無いものを救おうとされる神の意志です。その正しさは罪人である人間と深い関係性の中で共に生きようとする神の御意志そのものなのです。神の義は、人間と共に生きることを願う神の意志そのものなのです。

 始まりは、自分の中に義がない、ということからかもしれない。しかしないことがダメなことのではなく、そこからわたしたちは義に飢え渇いてくのです。無いから飢えるのです。無いから渇いていく。

 そしてこのわたしに与えられる神の義をその飢え渇きの場所で受けるのです。渇いた喉に水が与えられるように、飢え渇いているからこそ受けることのできるいのちの水をそこで受けるのです。だから幸いないのです。だから満たされていくのです。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」