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マタイによる福音書連続講解説教

2023.5.21.復活節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章7節『 幸いなるかな、憐れみある者 』

菅原 力牧師

 今朝は山上の説教の五つ目の幸い、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」にご一緒に聞いてまいりたいと思います。

 今日のみ言葉を聞いて、「情けは人の為ならず」という日本のことわざを思い起こした人もいるかもしれません。情けは人の為ならずとは、他人に情けをかけておくと、それがいつか自分のためになるという意味のことわざです。人に親切にしたことが巡り巡って、自分に帰ってくる。つまりは情けをかけるとか親切にするということは他人のための業のようでいて、最終的には自分のためになるんだ、ということです。今日の主のみ言葉を聞いて、憐れみ深い人というのは、最終的には自分自身が憐れみを受けることになるのだ、だから人に憐れみ深くかかわることは大事なことなんだ、そういうふうに、受け取る人がいるかもしれません。

 これまでの山上の説教の言葉と違い、今日のところは普通の言葉としてよくわかる、と思った人がいるかもしれません。

 しかし「憐れみ深い」という言葉は、これまでの説教でわかるように、一般的な徳目、倫理として語られているわけではなく、主イエスは生きる上での知恵をここで聞いている者たちに語ったわけでもないのです。そもそも「憐れみ深い」という言葉が、日本のことわざのように、情のようなものなのか、他人に親切にするとか、慈悲深き行為をするということなのか。イエス・キリストがこの「憐れみ深い」という言葉で何を語っているのか、思い巡らしてみる必要があります。

 憐れみ深い、という言葉でまずわたしたちが思い起こしたい主イエスの話は、いわゆる「よきサマリア人」のたとえ、と呼ばれている話です。

 ある人が強盗に襲われ、半死半生になって道に倒れていた。そこを祭司やレビ人が通りかかったのだが、彼らは見て見ぬふりをして通り過ぎた。ところがユダヤ人とは通常敵対していたサマリア人がそこを通ると、彼は傷ついた人を見て憐れに思い、応急措置をし、それだけでなく宿屋に連れていき、介抱し、翌日はさらに宿屋の主人にお金まで渡して、介抱してくれと頼んだという話です。

 このたとえ話の一つのポイントは、ユダヤ人とサマリア人とが歴史的にも実際的にも仲たがいしていて、敵対関係になっていた、ということです。

 それにもかかわらずこのサマリア人は、この傷ついた人を助け、介抱した、という話なのです。

 主イエスがこのたとえ話で語っている大事なことの一つは、憐れみ深いということは、たんに情け深いとか、困っている人を助けということにとどまらない、敵対関係を乗り越えていく、ということあるのだと思います。そこには赦しということがあるのです。

 主イエスはあの「情けは人の為ならず」を遥かに超えたことを語っておられる。憐れみというのは、主イエスにとって、余裕のある者が余裕のない者に対して、憐憫の情をかけるというようなことではなく、自分の方から隣人を見出し、傷ついたものを自分の隣人として見つめ、自ら隣人となっていく、その相手が敵対関係にあるとしても、赦しのうちに隣人となる、そういう行動、生き方です。山上の説教のこの後で出てくる主の言葉、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」、に繋がっていく生き方です。

 しかしそうだとすれば、憐れみ深い、ということがそれほどの奥行きのあるものだとするなら、わたしたちはこの山上の説教の前で、立ちすくんでしまうのです。とてもできない。少なくともわたしは敵対関係を超えて憐れみ深く生きることからかけ離れていることを思うのです。

 すると、この幸いはわたしには無縁の幸いということになるのでしょうか。憐れみ深い、と主イエスの言われる生きる態度から遠いものは、この幸いとは無縁なのでしょうか。

 山上の説教に聞き始めたその最初の時に、この説教が教会外でもよく読まれ、支持されてきたけれど、その一つの理由は、これらの言葉の高い道徳性、倫理性が評価されてきたからだ、というお話をしました。けれども同時に、他方では、その高い倫理性が障壁となる、というお話もしました。高い倫理性は人の評価を得るのでしょうが、同時に壁にぶつかるのです。倫理性が高ければ高いほど、現実的には壁にぶつかるのです。できないからです。そうは生きれないからです。しかも、それが一時の行動ならともかく、生き方ということになれば、なおさらです。

 しかし、そもそも主イエスという方が、そうした一握りの人しかできるかどうかわからない、高い倫理性を弟子たちをはじめ人々に求めておられるのでしょうか。福音というのは、そんなにハードルが高いものなのでしょうか。違うと思います。決してこの説教は、そういう高い倫理性を求めているのではない。むしろここで主イエスは人間が自分の力でやろうとすることに対して、それは壁にぶつかるし、ぶつかって当然だと言われておられる。壁にぶつかって、自分ではできないことを知る中で、それでもなお、憐れみ深く生きる道が与えられていることを語っているのです。

 主イエスは同じマタイによる福音書の18章で、「仲間を赦さない家来」のたとえを語っています。自分が主人に対して一万タラントンという天文学的数字の借金のある男がいた。主人である王は彼を憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにした。ところがその帰り道に今度は自分がわずかな金を貸している仲間に出会うと、彼は相手を赦すことができず、金を返せ、と言ったのです。借りている者は、「どうか待ってくれ、返すから」といったにもかかわらず、彼は相手を赦さず、牢屋に入れたのです。この一部始終を見ていた者が、主人である王にそのようすを残らず告げる。そしてそれを聞いた主人である王は彼を捕え、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言って、帳消しにしてやった借金を返済するまで牢に入れたというのです。よくご存じのたとえ話です。

 主人は莫大な借金のあるものを憐れに思い赦したのです。にもかかわらず、彼は仲間を赦さず、牢に入れたというのです。この一部始終を見ていたものが王にこの事態を告げた、それはあまりにおかしい、と思ったからです。

 確かに、おかしい。しかしそのおかしいことをしているのは莫大な借金をしている男であり、わたしではないか、という揺さぶりが与えられるたとえ話です。赦されたのに、赦せない。大きな憐れみの中にいる、本当なら、その憐れみに活かされて、憐れみ深いものなっていく、はずなのです。わたしたちが憐れみ深く生きようとするのは、自分が憐れみを受けたことによるのです。しかし、実際には、マタイ18章のたとえのように、自分が深い憐れみ、赦しを受けながら、憐れみ深く生きることができない、ということもあるのです。

 しかしこのたとえ話のポイントはどこにあるのでしょうか。肝腎要の部分はどこにあるのでしょうか。このたとえが語るのは、そういうダメな人がいたよ、ということでしょうか。こういうけしからん輩がいたよ、ということではないでしょう。わかりやすく言うなら、この莫大な借金を帳消しにし、家来を赦した主人は、今からでもいい、あなたは大きな憐れみの中にあり、その借金を帳消しにされ、赦されているあなたなのだ、ということに気づいてほしい、という呼びかけ、その呼びかけの中にあなたはいる、ということなのではないでしょうか。彼はもう一度、自分が王によってすべて赦されたこと、借金を帳消しにされたこと、その事実をもう一度、受け取って、その事実に気づき、その赦しなければ、その憐れみなければ、自分は生きていけないものだ、ということに気づいていくよう招かれている、ということです。それに気づかない限り、彼の本当の人生は始まらない、ということです。

 キリストの十字架とは、そういうものです。そこには神のあまりに大きな憐れみがあるのです。その憐れみと赦しの中にあなたはある、ということです。

 そのことに気づかされていくとき、わたしたちの憐れみに生きる生活が始まるのです。

 7節の言葉をもう一度読んでみます。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」この文章、あなたが憐れみ深く生きることで、あなたは憐れみを受ける、と読める文章です。しかし、この言葉には、主イエスがこれまで語ってきた思いが込められています。それは、神の憐れみが既に与えられている、ということなのです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」というあの主の言葉は、天の国、すなわち神さまの支配、神さまの恵みはやってきている、それはわたしがやってきたことであり、わたしの十字架を受けることであり、それは神の憐れみが、赦しが現れていく、ということなのだ、そうキリストは語ってこられた。

 山上の説教は、その神の憐れみの中でもちろん語られているのです。だから、その恵み、憐れみを受けなさい。神の憐れみの中にある自分に気づきなさい。神はそのことを待っておられる。待ち続けておられる。そして神の憐れみにあなた気づき、溢れる感謝をささげていくの中で、憐れみに生きようとする、そこであなたはいよいよ神の憐れみを深く、豊かに受けるものとなる、7節はそういう文章なのでしょう。わたしたちが自分の力でできる憐れみは小さいし、貧しい。しかし神の憐れみの中にある自分を知って、その憐れみに活かされて憐れみに生きようとするとき、神はその憐れみを祝福し、生かし用いてくださる。そのことの中で、わたしたちはさらに神の憐れみを豊かに、確かに受けることになっていくのです。