教会暦・聖書日課による説教
2023.5.28.聖霊降臨祭主日礼拝式説教
聖書:使徒言行録2章1-13節『 聖霊に満たされる 』
菅原 力牧師
聖霊降臨祭の主の日を迎えました。今朝はこの聖霊降臨日の出来事が記されている使徒言行録の2章のみ言葉に聞いて、神さまを礼拝してまいりたいと思います。
さて、過越の祭りから50日目にあたる五旬祭の日、これはもともと収穫の祭りであったようですが、その時弟子たちは一堂に集まっていました。弟子たちというのは、11弟子たちだけでなく、女性の弟子たちをはじめ多くの弟子たちが集まっていたのです。それは彼女たち、彼らが主イエスの言われた言葉を信じて、聖霊が降ることを待ち望んでいたからです。
「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」聖霊は風のように、吹いてきた。風はわたしたちの目には見えないのですが、わたしたちに働きかけて、その強い力を送ってくるのです。日本語でも「新しい風が吹いてきた」とか「風向きが変わる」と言ってみたり、目には見えないけれど、大きな力が働いていることを向かい風とか、追い風という言葉で表現します。
風は目に見えないけれど大きな力として働いているという意味です。エルサレムにいて、共に集まっていた弟子たちに激しい風が吹いてきたのです。
「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」炎とは、旧約聖書において神さまが人間にご自身を示し、人間にかかわりを持とうとされるときに現れるものです。炎と神さまとがぴんとこない人がおられるかもしれませんが、それは例えば、炎に指先が触れただけでも、わたしは火傷をしてしまう。神との出会いは、その本質に神のあつい、燃えるような愛、怒り、痛みに出会うことです。神と出会って、なんともないというようなことはない。炎はもともとわたしたちを焼きつくすエネルギーを持っている。神と出会うということは、わたしたちの存在がそこから揺さぶられ、焼き尽くされてしまうようなことなのです。そして新たにされていくような出会いです。その炎のような舌が現れたというのです。
舌は「語る」力のしるしです。その力が弟子たち一人一人の上にとどまったというのです。そして「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」のです。
聖霊が与えられて、新しい舌、新しい力で、霊の力で語り始めたのです。
しかもそれが驚くべきことに多言語だったというのです。いろいろな国の言葉で弟子たちが語り始めたというのです。
弟子たちが突然、外国語をしゃべれるようになったのか、という疑問を持つ箇所です。しかも使徒言行録をこの後読み進んでいっても弟子たちが多言語の外国語のコミュニケーション能力を発揮したようなことはここだけ、後にも先にもここだけなのです。9節以下を読むと、この時エルサレムいた人々の国名や地名が出てきます。いろいろな言語を母語とする人たちがエルサレムに集まっていた。その人々に向かって、弟子たちが聖霊の力の働きの中で、炎のような舌で、熱い熱情の中で、語り始めた。何を語ったのか、福音を語ったのです。イエス・キリストの福音を語り始めたのです。
わたしはこの出来事をとても興味深い、示唆に溢れた聖霊による奇跡だと受け取ります。
わたしたちは、一歩この国を出て、この国以外のところへ行けば、ほぼほぼ日本語が通じない、ということはすぐにわかります。アジアであれ、ヨーロッパであれ、列車で旅行すれば、言語がどんどん変わっていくというような経験を誰もがします。新約聖書の背景にある環境は、多言語で、しかも人々の交流の激しい、事実使徒言行録が書かれたときには、すでにエルサレムはローマによって陥落させられ、ユダヤ人はさらに各地に広がり暮らしていた状態でした。そこで言語という大きな壁にぶつかり、母語とは違う言語で生活する人も、逆に母語がわからなくなっていく人も複雑に存在していた。
弟子たちは、聖霊を受けることにおいて、何よりもまず語り始める者とさせられていった、ということがここには記されています。それは福音を語るものとされた、ということです。しかもそれは、自分の知識や学んだことを語るというのとは違う。神によって出会わされ、その救いの中にあることを知らされたイエス・キリストを語るのです。この方がわたしの、そしてわたしたちの救い主であることを語るのです。イエス・キリストを語ることは自分の力であるのではない。風が吹いて、炎のような舌が各自の上にとどまり、霊が語らせるままに、聖霊の力と働きによってこのわたしが語る。しかもそれは、どこの国の人であれ、この福音を宣べ伝えていくのです。それがこの聖書箇所がわたしたちに語りかけていることです。
たしかに福音を宣べ伝えていくことはいろいろな壁がある。困難がある。言葉の壁もその大きな一つです。しかしそれは、弟子たちがそうであったように、神の働きを受けて、聖霊の働きの中に身を置いて、神が備えてくださる炎のような舌を受けることで、乗り越えていける、という神からの呼びかけがここに物語られているのではないでしょうか。
聞いた人々は驚きました。なぜなら、こんなところで、自分の生まれた国の言語で、話を聞くこと自体驚きだったからです。当然でしょう。ところがここを読んで知らされるのは、聞いた者たちの反応です。ただ多言語に驚いたのではない。
エルサレムにいた人々が驚かされたのは、11節「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来たものもいるのに、彼らがわたしたちの言葉で、神の偉大なわざを語っているのを聞こうとは。」ということでした。
自分たちの母語で、神の偉大な業を聞いた、そういって人々は驚いたのです。弟子たちが聖霊に満たされ、聖霊の語らせるままに語った福音は、イエス・キリストの福音でした。それを神の偉大な業と受け取って人々がいた、ということです。このことは何を物語っているかと言えば、聖霊はそれを受けて語る側にも、そして語られた言葉を聞く側にも、共に働く、ということです。聖霊を受けて語りだした弟子たちを知ることと、それを聞いた者たちにも聖霊の働きが注がれたことをわたしたちは見落としてはならない。
聖霊を受けて語りだした弟子たちを見ていた者たちの中に、あの者たちは新しい酒に酔っているのだ、と言った者たちもいたことが記されています。
それを聞いたペトロが14節から声を張り上げて語りだす、と続いていくのですが、その14節以下の話の中で、今日の聖書箇所との関連で一つ大事なことを受けとっておきたいと思います。
それは、ペトロがこの人たちは酒に酔っているのではない、と言った後に預言者ヨエルの言葉を引用してこう語った。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべて注ぐ。」終末の預言を語るヨエルの話をペトロが始めた、ということです。
なぜペトロはここでいきなり終末の話を始めたのか。
おそらく、これは推論ですが、ペトロはここまでの歩みの中で、わかったことがあったのです。イエス・キリストが十字架にかかり神がキリストを復活させ、神のみ元へと引き寄せ、キリストが昇天した。その直前キリストは「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と弟子たちに告げた。そして事実聖霊は降った。その出来事を経験していく中でペトロは受けとめたのです。
今ここで聖霊が注がれ、その聖霊によって、わたしたちはこの方の言葉とわざを宣べ伝えていく。終末の時に至るまで、この方の救いを宣べ伝えていく。そう説教を語り始めていくのです。確かに旧約で預言されたように、終末の時すべては完成し、すべて聖霊によってあらわになる。けれど、神はイエス・キリストにおいてその救いの業をすでにこの地上で表し、示してくださった。神の救いの何たるかをお示しくださった。そして今聖霊を注ぎ、そのイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくべく弟子たちを召された。救われた者としてイエス・キリストの証人として生きていく道を示された。そしてイエス・キリストの名によって洗礼を受け、キリストに聖霊によって繋がれて、生きていくよう、宣べ伝えていきなさい。ペトロはそれこそがわたしたちに神が求めておられることだ、ということがわかるのです。だから彼も語り始めるのです。
福音の宣べ伝えは、聖霊を受けた弟子たちによって担われていく。やがて生まれていくキリスト教会において担われていく。しかしそこでそのものたちを用いて生きて働くは聖霊なのです。神が送られる聖霊が主導する。わたしたちは用いられてイエス・キリストに仕えていくのです。
わたしたちの教会がこの大阪で生まれ、今日こうしてあることも、まったく同様です。神が召し神が呼び集めた者たちが用いられて、福音を宣べ伝えていく。それはすべて聖霊の働きによるものです。そして生まれた教会も神に用いられ、福音宣教の器として、生かされていく。そこにはさまざまな困難があるし、これからもあるのです。福音を宣べ伝えていくことは壁にぶつかることでもあります。けれども、そこで、そこに集められたものを用いて、生きて働いてくださるのは聖霊であり、わたしたちはその時々、悩んだり、考えあぐねたり、ときには行き詰まったりしながら、聖霊が主導してくださることを信じて、教会の使命を終末に至るまで果たしていく。聖霊の働きを信じさせてください、とこれからも祈り続けるとともに、聖霊よ、おいでください、と聖霊の風の吹き来たることを仰ぎ見て、歩んでいきたいと思います。