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マタイによる福音書連続講解説教

2023.6.4.聖霊降臨節第2主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章8節『 幸いなるかな、心の清き者 』

菅原 力牧師

 山上の説教の1節ずつの「み言葉」に聞き続けてきて、知らされていくことがあります。そのうちの一つは、福音とは○○ではない、ということです。もちろん福音とはこれだ、ということをこの説教を通してわたしたち聞くのですが、それと同時に、福音とは、これこれのものではない、ということを繰り返し聞くのです。そしてそれが山上の説教を聞くうえでとても大事なことなのです。

 山上の説教を読んで、高い倫理性を受けとるとか、高い道徳性を読み取るとか、立派な人になるというような読まれ方が多くなされてきたことはこれまでに何度かお話ししてきました。しかし主イエスの御意志を尋ね求めながら山上の説教に聞くと、主イエスが語っておられることは、そういう方向性のことではない、ということがわかるのです。福音はそもそも人間の倫理とか道徳から出発するものでもなければ、そういうものに終始するようなものではないからです。そのことを山上の説教を読みながらくり返し受けとめていく。そしてさらに踏み込んでいって、福音とは何か、ということを聞き取っていく、それが山上の説教に聞く、ということになっていくのです。

 今朝ご一緒に聞く、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」も、わたしたちの最初の印象は心の清い人たちが幸いだ、というのはよくわかる。そしてそういう人は神を見ることができるというのも、なんとなく了解できる。しかしわたしは心が清いとはとても言えない人間だ。だからもちろん神を見たことはないし、これからも見れないだろうな、というものかもしれません。

 心の清い、という言葉は先々週聞いた「憐れみ深い」と同様言葉としては特別宗教的な言葉でもなく、日常の中にある言葉ですが、自分の身に引き付けて考えると、途端に無限にハードルが高い言葉のようにも響くのです。

 

 旧約の人々、ユダヤの人々は清い、ということにおそろしいまでに神経を使いました。清いか汚れているか、ということを峻別して穢れたものを遠ざけようとしました。それは神のみ前に進むためには、自ら清い者でなければならないからでした。しかしそのためにユダヤ人の中には、外側の清さばかり求めて、内側の清さは問題視されないという律法主義も生み出しました。

 今整理するとすれば、普通にわたしたちがあの人は心の清い人だ、というのは倫理的・道徳的な清さです。ユダヤ人が問題にしているのは宗教的な清さです。しかし主イエスがここで語っておられるのは、そのどちらでもない、もっと別な清さと言っていいだろうと思います。そこをわたしたちが混同してはいけない。わたしたちはあくまでもここで、キリストがわたしたちに指し示しておられる「心の清さ」を知らなければならない。

 それはどんな清さか、と言えば、イエス・キリストから与えられるものによって始まる清さ、というものです。つまり福音から始まる清さ、と言っていい清さです。山上の説教は基本的にそういう性格を持っている。始まりはいつもイエス・キリストの福音です。そこから始まり、そこから生まれてくることを語っているのです。

 イエス・キリストから与えられるもの、それは十字架です。十字架の贖いです。神の前で清くないわたしたちのために、罪故に清くなれないわたしたちのために、十字架にかかり、わたしたちを負い、ご自分が罪の罰を受けることで、わたしたちが神の前に出て、神を礼拝し、神の恵みを受けて新たに生きていけるようにしてくださった。復活のいのちを与えてくださった。だからキリストから与えられるのは十字架と復活です。

 大事なのはここからです。

 「心の清い」ということば、この言葉について考えてみます。まず心なのですが、もちろん日本語の心と重なり合う言葉なのですが、日本語と少し違うのはたんに人間の内面的な領域全般を指すのではなく、人間の意志、思考、思い、の中心となる場所、それを生み出す基盤となる場所という意味が含まれています。

 清い、という言葉、この言葉で強調されるのは、純一ということ、二心ない、という意味です。二心というのは、「主君に心を寄せているように見せて、実は裏切り叛く心」の意味の言葉で、これが聖書の言葉と重なり合うのです。敢えて言うのなら、「神に聞き従い、仕えていくように見せて、実は神ではないものに仕えていく心」これが二心ということになります。

 

 心の清いという言葉は福音を受けた者に向かって語りかけられています。イエス・キリストの恵みを受けた者に向かって語りかけられています。

 その恵みを受けて、心を二心なくキリストに向けて、キリストの言葉に聞いて生きようとすること、です。どんな自分であっても、キリストの恵みを受けて、この恵みの中で、神の言葉、キリストの言葉を聞いて、歩んでいきたいと、二心なく、願い続けることです。確かに、わたしたちは純一にキリストのことだけを思い、キリストにだけ就き従っているとは言えない。いろいろなものに惑わされ、事実惑い、しばしば神以外のものに従って生きていることも少なくない。二心を意図しているわけではないけれど、気づくと結果的に二心、ということは少なくない。しかしそれでも、何度でもキリストの福音を受け直し、聞きなおして、そこでこの方の言葉に聞き従っていこうとする、神に祈りながら、神の導きに支えられながら、神に聞き従っていこうとする、その繰り返しを「心の清さ」と呼んでいいのです。

 誤解なきように言えば、それは自分の努力、頑張りなのではない。二心なく、純一に、ただひたすら神に聞き従うということはわたしたちの努力で可能になることではないのです。それはわたしたちの手に余るものです。福音に聞いて、福音によって救われ、福音によって何ものかから解放されて、信仰を与えられて、その与えられた信仰において神に聞き従っていこうとする、それがキリストがここで言っておられる心の清さです。だから心の清さはみ言葉に聞き続けることと直結しています。み言葉に聞くことをやめれば、ここでいう心の清さは終了です。

 「その人たちは神を見る」。神を見ることは旧約時代から信仰者にとって至福の経験とされた。だが人間は罪故に神を見ることは叶わない。神を見たら死ぬ、とも言われたのです。「神を見た者はいない」、とヨハネによる福音書で語られている通りです。にもかかわらず、ここでキリストは「その人たちは神を見る」と言われるのです。神を見る経験は終末における神の国の経験であり、その約束をここで語っているのだ、という解釈があります。そうなのだと思います。終末の時には、わたしという存在を心底愛し、慈しみ、救いへと招いてくださる神の御顔を見ることが許される。

 しかしキリストはこの山上の説教でそのことだけを語っておられるのではない。確かに顔と顔とを合わせてみるのは、パウロがコリント書でいうように、終末の時でしょう。しかし山上の説教で語られているのは、福音を受けた者が、二心なく、神を仰ぎ、神に聞き従い、キリストを見つめ、キリストの言葉に聞いていく、そういう心の清さが与えられていくのなら、その人キリストに聞き続ける中で、神とはどのような方なのか、神の愛はどのような広がり、深さ、高さを持つものなのか、神の怒りはどのように人間を深く見つめて示されるのものなのか、神の赦しの豊かさはどのようなものなのか、その人は見るようになる、と言っておられるのではないか。すなわち、イエス・キリストの福音を受けて、福音によって救われ、信仰を与えられて、神に従っていこうとする、キリストのみ言葉に聞き続けて二心なく神を仰いでいこうとする、その人はキリストを通して神を見る、そう言われているのではないか。

 確かにこの世に生きて、この地上の生を歩んでいるわたしたちは、神をこの肉体の目で見ることはできない。しかし実のところ、イエス・キリストの十字架も、復活もわたしたちの肉眼では見ることはできていない。けれども私たちは信仰において、イエス・キリストの十字架も、復活の主も見ているのです。そしてわたしたちは信仰において神を見るのです。わたしたちは信仰において本当に大事なこと、大切なことを見させていただくのです。

 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」主イエス・キリストはこのみ言葉において、わたしたちを招いておられる。福音に活かされ、その恵みを受けて、二心なく神を仰ぎ続け、御声に聞き続けて歩んでいく道に。そしてその歩みは信仰においてイエス・キリストの恵みを見、神を見ることへと導かれていくのです。