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マタイによる福音書連続講解説教

2023.6.11.聖霊降臨節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章9節『 幸いなるかな、平和を実現する者 』

菅原 力牧師

 山上の説教、七つ目の幸い、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」に聞いて、神を礼拝してまいりたいと思います。

 さて、今朝のみ言葉を読み、本当にそうだ、と思う人は多いと思います。ロシアによるウクライナ侵攻によって始まった戦争、もうすでに1年を超えて続いています。その戦いを思うと、平和を実現する人が現れないか、誰かこの争いの中に立ち、平和を実現してくれないものか、と願うのです。しかし、実際はそれがどれほど困難なことか、そのことを世界は実感してきました。

 多くの人が平和を願っています。戦争や争いのない世界を願っています。しかし平和を願うことと、平和を実現することとの間には大きな隔たりがあります。平和主義を標榜することや、平和を好むことは難しいことではないけれど、平和を実現するとなれば、それはもう大変なことです。大変という言葉ではすまない、身を割かれるような痛みや苦しみを生み出していくかもしれない。以前の口語訳聖書はここを、「平和をつくり出す人たちは幸いである」と訳していました。平和をつくり出す、気が遠くなるような言葉です。

 しかし、わたしたちはこれまで山上の説教を読み進んできて、この山上の説教が、わたしたちの倫理的、道徳的な頑張りから出発するものではない、ということを受けとってきました。平和を実現する人、平和をつくり出すために、何らかの行動を起こす、もちろんそれ自体は意味のあることですが、主イエス・キリストがここで語っておられることはそういうことではない、ということ繰り返し聞いてきました。だからよくあるパターン、平和を実現する人なんてとてもわたしはなれない、だからこのみ言葉はわたしには無理、そして無関係、という思考のパターンに入り込む必要は全くない。とすればわたしたちはこれをどう読み進んでいけばいいのか。

 まず、平和という言葉なのですが、これは平安という言葉です。平安という大きな枠の中に平和がある、というイメージです。では平安とは何か、ということなのですが、旧約聖書の言語ヘブル語ではこれは皆さんよくご存じのシャーロームという言葉です。ユダヤ人の間では挨拶の言葉にまでなっている言葉です。ではこのシャーロームという言葉、どういう意味なのかと言えば、十分に持っている、という意味の言葉なのです。十分に与えられている、満たされているという意味の言葉です。それは家を持っているとか、車を持っているという意味ではなく、神によって富ませられている、神によって十二分に与えられている、という意味です。神によって祝福され、守られ、恵みを与えられ導かれている、という意味の言葉です。そして大事なことは、満たされているということの中には、神との関係においても満たされている、関係の祝福ということがその中心にあるということです。それが平安という言葉のもともとの意味です。

 ユダヤの人々があいさつでシャーロームと相手に言葉をかける、それは神の祝福、神の恵みであなたが満たされるように、という祈りと願いが込められているのです。

 

 この神から与えられているもの、それがイエス・キリストの到来によってまこと満たされたのです。イエス・キリストこそ、神の恵みの贈り物です。イエス・キリストこそ神からの信実の祝福です。そしてイエス・キリストこそ、まことに平和をつくり出す方なのです。

 エフェソの信徒への手紙の2章にこういう言葉があります。「実に、キリストはわたしたちの平和です。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたちの両方のものが一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」ずいぶん長い引用をしましたが、ここで語られていることはこういうことです。人間は実にさまざまな形で相手との間に壁を作る。よく知っているようにかつてドイツは二つに分断され、ベルリンの壁と呼ばれる大きな壁を作っていた。大変象徴的なことでした。アメリカもメキシコとの間を壁を作ったのでした。国と国の間に壁を作る、それは敵意の現れです。しかし国と国だけの話ではない。わたしたち一人一人の人間も自分の嫌いな相手との間に、見えない壁を作る。受け入れがたい相手の間に壁を作り、敵意を自分の中に持ち続けるのです。いやはっきりとした敵意がなくても、壁を作る。キリストはその両者の間に立ち、その双方の敵意をご自分の身に受けて、ご自分が十字架で罪の罰を受けること、その双方の敵意を取り壊したのです。双方の敵意という罪を身に受け罰を受け、その双方に赦しを与える。神からの恵み、新しいいのちを与え、そこから歩みだすよう双方を解放するのです。一人の新しい人に作り上げて平和を実現する、とはそのようなことです。

 神は私たちに平安を与えてくださる。しかしそれはただたんに慰めを与えてくださるとか、癒しを与えてくださる、ということではない。

 イエス・キリストによる恵みを与えてくださるのです。その恵みは真実の平安、まことの平和の実現へとわれらを導く恵みなのです。キリストが十字架上において、わたしたちの築いている敵意、壁を負われた、という実感をお持ちの方は少ないかもしれません。しかし、話せば長いけれど、端的に言えば、敵意も壁もわたしたちの罪が築き上げるものなのです。だから、十字架でキリストが負われたのは、罪であり、敵意であり、壁なのです。そしてキリストはその罪の赦しをわたしたちに与え、新しいいのちへと招かれる。それがパウロの言うところの新しい人に作り上げて平和を実現する、ということなのです。

 「平和を実現する人々は、幸いである」それはまさしくイエス・キリストのことです。わたしたちはそのことの中身を知らなくてはならない。キリストが与え給う平和の中身を知らなくてはならない。そして平和をつくり出すものとはまさしくイエス・キリストなのだということを知らなくてはならない。そしてこの方こそ神の子であるのだ、ということを知らなくてはならない。

 わたしたちにとって、山上の説教の今日のみ言葉を聞くということは、まず何よりもキリストの実現してくださる平和を知るということです。それを心から受け入れ、感謝することです。キリストは神とわたしたちという関係を平安で満たし、わたしと他者、壁を作り、敵意の中に生きる両者の間に平和を実現してくださる。そのことを何よりもまず受け取るものでなければならない。

 そのうえで、もう一歩踏み込んで、み言葉に聞きたい。それはこれまで繰り返し語ってきたように、この山上の説教がわたしたちの倫理的、道徳的な行動から始まるものではなく、キリストの福音に聞くこと拠る幸いなのだ、ということを信じ受けとめて、そこから如何に歩みだすか、ということです。神からの平安、キリストによる平和を受けとめて、わたしはどう生きるのか、ということです。

 

 まねびという言葉があります。漢字は学ぶという「学」の字なのですが、意味はまねるということです。もともと学ぶとは、相手の言ったことをそっくりそのままいう、ということに原型があったからもしれません。お読みになった方もおられるかもしれませんが、キリスト教の古典で、イミタティオ・クリスティ「キリストに倣いて」という有名な信仰の書物があります。あの倣いてとはあることをお手本としてそれに従う、まねる、ということです。キリストにまねる、キリストに倣う、ということです。ここで、「平和を実現する人々は、幸いだ」というキリストが言われるとき、神の平安に満たされ、キリストの平和に生かされた者が、キリストをまねるよう招かれているのでしょう。もちろん、わたしたちはキリストではないし、キリストのように十字架にかかるわけでもない。しかしキリストの恵みを受けていく中で、キリストにまねる、倣うのです。何をどうまねるのか、それは一人一人の信仰者の主体的な判断です。それはもちろん好き勝手ということではない。キリストのまねるのですから。キリストの導かれながら、自分としてまねる、倣うのです。そこにその人固有の信仰者として生き方が生まれてくるのです。み言葉に聞いて生きる、ということはそこでこそ具体的になっていくのです。それは試行錯誤の連続であってもいい。悩みながらのものであってもいい。しかし、基本は神の平安に満たされながらなのです。キリストの十字架に突き動かされながらなのです。

 「その人たちは神の子と呼ばれる」。神の子という称号は考えうる最高の称号といった人がいますが、その通りです。神の子と呼ばれる幸いこそ、わたしたちにとって最高の、それ自体恵みに溢れた、最高の幸いです。本来、イエス・キリストにのみ与えられた事柄です。しかし、繰り返しますが、神からの平安を受け、キリストの平和に生かされていくもの、そしてキリストにまねび、キリストに倣うものとして歩もうとするもの、そのものは神の子と呼ばれるだろうというのです。終末的な約束の言葉です。

 この大きな幸いへと招かれているものとしての人生を生きていきましょう。