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マタイによる福音書連続講解説教

2023.6.18.聖霊降臨節第4主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章10-12節『 義のために迫害される人 』

菅原 力牧師

 山上の説教、幸いだで始まる祝福の言葉、八つ語られていくのですが、今日の箇所が最後です。しかし、今日の聖書箇所、読んでみてとても厳しい、つらいと思った方も少なくないでしょう。迫害ということがテーマになっているからです。

 今日の聖書箇所は10節でまず、従来と同じ形で、幸いが語られ、約束の言葉が続いているのですが、そのあと11節と12節で、さらに10節で語られたことが繰り返され説明されている、これはこれまでにはない形です。

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。義という言葉は一般的には正義という意味ですが、ここではそうした一般的な意味ではなく、11節で「わたしのためにののしられ、迫害され」とあるように、キリストのゆえに、ということです。義は、ここで神の義のことなのですが、神の正義、神の信実、神の恵み、それはすべてイエス・キリストによってあらわされ啓示されたものです。だからキリストの義といってもいいし、もっとわかりやすく、キリストの福音といってもいい。すなわちここでいっているのはキリストの福音のために迫害される人は幸いだ、ということです。

 迫害されると訳されているところは、これから迫害されるという意味ではなく、迫害されてきた人々、と原文ではなっています。協会共同訳は迫害された人々と訳していますが、もうすでにキリストの福音のために迫害された人々、今現在迫害されている人は幸いだ、というのです。

 幸いだという時、単純にまず自分がより良い状態になるとか、幸運が巡ってくるのだのということ思います。自分にとって良いこと、今の自分にとってプラスだと思えること、そうしたことが与えられること、それが幸いだと思っています。しかしここでは正反対のことが語られています。キリストの福音のゆえにあなたが迫害を受けているなら、あなたは幸いだ、というのですから。

 聖書が書かれた時代、最初のキリスト教会はユダヤ教の会堂から追い出され、追放されることを経験していました。そして時代が少し下っていくと、ローマ帝国による迫害が始まり、以後300年にわたってキリスト教会は迫害を受けていきました。そのことは、キリスト教会の創成の歴史は対抗勢力との戦いや葛藤、迫害の続く歴史だったということです。そういう中でこの主イエスが語られた山上の説教は、最初期の教会の人々を深く励ました、といわれています。

 どうして深く励ましたのでしょうか。

 まずわたしたちが受けとめたいのは、主イエス・キリストの地上の歩みそのものが、受難の歩みだったということです。わたしたちはあらためてそのことを受けとめたいと思うのです。どうしてイエス・キリストの生涯は、対抗勢力の多い、受難の歩みだったのか。今その中心にあることを言えば、キリストはすべての人間が罪人であることを熟知しておられた、ということ。かつその罪人の救いに仕えようとしたからです。すべての人が罪人であるということは、律法を遵守し、律法を守っていると自負してきたユダヤ人には到底許しがたきことであり、かつ罪人を救うために仕えるという生き方そのものが、自分たち以外の罪人を穢れた者として退けるものからすれば、赦しがたきことだった、ということが根底にあったのです。

 だから、主イエスの歩みは最初から最後まで、攻撃を受ける、受難の歩みだったのです。対抗勢力から受ける苦しみの連続だったのです。そしてそれは主イエスにとって、たまたまユダヤ人からそのような攻撃を受けるというようなことではなく、必然的であり、受難の歩みは必至だったということです。

 そのイエス・キリストが山上の説教でこう語られたのです。義のために、福音のために迫害されてきた人は幸いだ、わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 この言葉がわたしたちに語っているのは、福音のため、キリストの福音のために迫害された人はつらいだろうけれど、耐え忍べ、ということではなく、今迫害を受けているなら、それは幸いだ、喜ばしいことだ、ということです。どうしてこんなことが言えるのか。キリストは、ご自分の生き方が本質的に受難の歩みだということ知っておられた。ということは、もしあなたが自分のためではなく、キリストの福音のために生きようとする中で何らかの攻撃や迫害を受けるとするなら、それはわたしにつながっているからに他ならない。キリストの歩みに何らか繋がっているのだ、つまりあなたはその時神に由来する生き方をしているのだ、そう主は言っておられる。ここには視点の転換があります。自分の生き方とか、歩み方ということで、最初に申し上げた自分にとって幸いなこと、自分にとって良しとすること、それが増えることが幸いなことだという視点から、キリストにつながる生き方、神につながる生き方へと自分が歩み出ているのなら、それが本当の幸いだという視点の転換があります。

 だから視点の転換のないところでこれを読めば、とんでもない話、わけのわからない話、ということになるのです。実際、迫害されている人は幸いだ、というこの言葉は視点という以上に、自分という存在の受け取り方の転換が起こっていくところで聞く以外では理解不可能な言葉なのでしょう。そしてそれは、これまで読んできた山上の説教の言葉のように、まず自分が何かをするというのではなく、キリストの恵み、福音の信実を受けとめていくところから始まる、その中で、先週申し上げたキリストをまねる、学び(まねび)倣う、という方向に向かっていくことと繋がっているのです。

 少し角度を変えて、考えてみたいと思います。迫害という言葉を聞くと、身震いしてしまうし、現実感が薄れる人も多いかもしれませんが、わたしたちは実にさまざまなもの、人に取り囲まれて生きています。その中でわたしたちが、キリスト者であることを明らかにすると、いろいろな反応も生まれてきます。ましてや、具体的な話の中で、わたしたちがイエス・キリストの福音に立って発言すると、信仰者にとって当たり前のことと、信仰を持っていな人との間に、明らかな違いが出てくることがあります。例えばそれは、死の捉え方にはっきりと表れてきます。死について語ることそれ自体を忌み嫌う文化もある中で、死後の永遠のいのちを知らされているわたしたちとでは大きな違いが出てきます。

 あるいは些細なことで言えば、わたしたちは人々の勝手に作ったクリスチャンというイメージの中で、ときに批判されることがあるかもしれない。「クリスチャンのくせに」といわれて、咎められる。そんな大げさなことはなくても、「あなたはクリスチャンだからそういうけれど普通の人はね、」などと揶揄されることもある。ささやかなことです。しかしわたしたちはそういうことに囲まれて暮らしているのです。それは、あえて迫害というようなことではない。けれども私がキリストのまねびの中で生き始めると、さまざまな力がこの世に働いていることに気づき始めるのです。それは大きく言えば、神などいないよ、神など無視して生きていけばいい、という人間の声がのしかかってくるということです。

 若い牧師がある時こういうことを語ってくれました。小学校の高学年になる息子さんがある時、「お父さん、イエス・キリストが十字架にかかって死んだというのはわかるけど、死んで復活した、というのはありえないことだよね。お父さんはそれを本当に信じてるの。そんなこと証明できないよね。」「そもそもどうしてこのイエスという人が救い主だということがわかるの。」いろいろ答えてはみたけれど、自分自身ちゃんと応えられた、というものがないのですが、どう語っていけばいいのですかね、という問いかけでした。

 わたしはとても大事な息子さんからの問いかけだと思いました。と同時に、わたしたちがキリストの福音において歩んでいくなら、そういう声にも出会うし、実は私たちはそうした声に取り囲まれているのです。家族や、親しい友からも、キリスト教に対する問いかけの声が聞こえてくる。それはある種の対抗勢力からの声であり、わたしたちを心底揺さぶる声なのです。

 わたしたちは今、迫害されている、ということは多くの人の場合ないでしょう。悪口を浴びせられるということも、無いかもしれない。しかし、そこで本当に受けとめていかなければならないことは、キリストの福音のために、福音に生きることで、自分に対して、自分の周囲に、神なしで生きる、神抜きで生きる声があり、時にはそれが自分に向かってくることも、直接問いかけられることもある。場合によってはそれによってののしられることもある。それはあってはならないこと、というわけではない。キリスト者になったらみんなから受け入れられ、尊敬される、というわけではない。信仰者になったら自分にとって良いと思われることがやってくるというわけではない。むしろ、キリストの福音に立って生き始めれば、対抗する者の存在が、声が聞こえてくる、これが本当の姿です。そしてそれを遠ざけてはいけない。むしろそこで、自分がキリストに繋がっているからこそ、こうした揺さぶり、声、存在に出会っていくのだ、ということを感謝と喜びで受けとめることが大事だ。なぜなら、わたしがキリストに繋がって生きること、キリストのまねびの中で生きることは「天には大きな報いがある」つまりそのこと自体を喜んでくださる神がおられるからであり、この者たち者こそ終末における天の国の住人なのだ、というのです。わたしたちしばしば「神さまが喜んでくださる生き方」というようなことを言いますが、それはキリストの福音によって生き、キリストに倣う生き方です。福音によって生きるとは、わたしがキリストにおいて救われ、生かされ、神に愛されている、ということを心から受けとめて、そこから生きていこうとする、そこでこそ聞いていく言葉ができる言葉、なのです。「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」。