-->

マタイによる福音書連続講解説教

2023.6.25.聖霊降臨節第5主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章13-16節『 地の塩、世の光 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所の言葉、皆さんはよく耳にしてこられたのではないかと思います。地の塩、世の光、という言葉です。

 しかし、「地の塩」とはどういうことを言っているのか、あらためて考えてみると、決してわかりやすいとはいえないのです。しかもこのキリストの言葉はあなたもこれから地の塩になろう、と呼びかけているわけではないのです。そうではなくて、「あなた方は地の塩である。」と語っているのです。

 そもそも塩とは何なのでしょうか。いうまでもなく塩には味付け、調味料の一つとしてなくてならぬ働きがあり、清めの働きがあるとされてきました。それだけでなく、古代においては保存料としての塩の働きが大きかったようです。もちろん今日でもその働きは欠かせないものなのですが、他の保存料となるものがなかった時代においては塩の保存の役割は、きわめて大きかった。保存ということはまた防腐としての役割があるということです。実際塩漬けすることで、その食材が長持ちするわけで、塩には防腐と保存の働きがあるのです。とすれば、塩の働きをするというのは、この世の防腐剤としての働き、この世が腐敗しないための働きを担っていくということ、また相手を生かすという働きがあるということです。そんな大それたこと、自分の任ではない、と思う人も少ないでしょうし、まして保存の働きといわれても何をどう保存するのか、よくわからない、というのが、正直なところかもしれません。

 そもそもこのあなた方、とは誰を指しているのか。ここでこの言葉が向けられているのは、キリストの弟子たちであり、キリストのみ言葉を聞くために集まってきた群衆です。すなわちキリストはこれをキリスト者に向かって、教会に向かって語られたと読むことが重要なのです。誰でも人は、という話ではない。教会に行きキリストの福音に出会い、それによって活かされている者、あなた方は地の塩だ、というのです。

 

 あなたがたは地の塩だ。この世の中にあって、この社会にあって、防腐の役割をこの社会が腐っていかない役割を負っているのだ、塩がほかの食材を生かしていくよう、相手の味を引き出していくような働き、そういう役割を負っているのだ、そうキリストは語られたということです。

 思い起こしてください。八つの祝福を一つ一つ聞いてきたときに、これはまずわたしたちの倫理性や、道徳性が求められている話ではない、ということを繰り返し聞いてきたことを。この八つの祝福でまずわたしたちに語りかけられているのは、あなたという存在、その存在がイエス・キリストによって負われ、贖われ、救われ、生かされている存在だということを受けとる、存在の了解がまず求められているのだ、というお話をしてきました。そしてその上で、つまり自分という存在をしっかり神において受けとめたのちに、どう生きるのか、示されていくのです。言葉で言えば、存在から行為へ、ということです。

 「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」という言葉が続いて出て聞います。これは少し説明が必要かもしれませんが、今日であれば、塩が塩気を失うということなど考えにくいのですが、聖書の時代の不純物を多く含む岩塩の場合、保存の方法が良くなければ、塩気を失うということがあったようです。塩であるのに、塩として機能を果たさなくなる。そうなったら外に投げ捨てられ、踏みつけられるだけだ、というのです。

 なぜこういうことをキリストはあなた方は地の塩だ、といわれた直後に語られたのか。その理由ははっきりしています。塩に塩気がなくなれば捨てられる、ということは、キリスト者がキリストによって活かされているということを、証ししていかないならば、その役割を負わないなら、それは塩気のない塩になってしまう、塩ではない、キリストはそう言っておられる。これを厳しいと受け取るのか、当然と受け取るのか、大事な主の言葉です。

 わたしたちは一人一人、今出会っているものがその人の歩みの中に、必ず現れてくるものだ、といった人います。例えば、今自分に与えられている関係を感謝して、喜んでいる人がいるとして、そのことは必ずその人において現れてくるのです。別に何といって特別言葉にしたりしなくても、その人の歩みの中で、その感謝や喜び、うれしい思いが現れる。また反対に大きな課題にぶつかり、悩み苦しんでいるとして、それもまた何らかの形でその人の歩みの中に現れる。もしその人がキリストの恵みに出会い、キリストの愛に感謝しているのなら、それは必ずその人においてあらわになる。

 今ここでキリストがあなた方は地の塩である、という時、あなた方受けとめているもの、出会っているものを心深く受けて生きることそれ自体が、地の塩としての歩みになるのだ、という響きがあります。塩には防腐の働きがある。腐敗を防ぐのです。その場合の腐敗というのは、神から遠ざかっていくこの世の力のようなものです。神との関係を見失って、人間中心で生きようとする力のことです。

 しかし自分には、そんな役割を担うだけの力も能力もない、そうほとんどの人が思うのかもしれない。しかし少し考えればわかるようにそれは大変傲慢なことです。なぜなら、もしわたしたちが地の塩としての役割をどんな形であれ担うとしたら、それはわたしの力によるものでは100%ないからです。イエス・キリストの力、福音の力、神の力だからです。神の力をわたしたちは見損なってはならないのです。この言葉はキリスト者は地の塩として、各自それぞれの遣わされた場で努力せよ、という言葉ではない。地の塩になっていこう、という言葉でもない。キリストによって活かされている自分を受けとっていくそこで、地の塩として生かされている自分を生きるということなのです。

 それは続く14節の言葉でもっと鮮明になるのです。「あなた方は世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」あなた方はキリストによって活かされているということにおいて、世の光である、というのです。確かに、わたしが光であるわけもなく、光を放つとも思えない。光を放つどころか、わたし自身が悩みを抱え、苦しみを覚え、ときに暗闇の中にいると思っている一人の人間にすぎない。その自分が世の光だと言われることに地の塩以上に戸惑いを覚えるのです。しかし何度でも繰り返しますが、キリストによって担われ、キリストによって贖われ、キリストによって救われ、キリストによって活かされているあなたは、つまりキリストによってわたしという存在が生かされているあなたは、世の光なのです。あなたという土の器にすぎないものがキリストの光をこの世に放つものになる。それは言うまでもなく自分の中からの光ではない。太陽の光の照り返す月のようなものです。わたしたちを生かしている、恵みのうちに活かしてくださっている、キリストの光があなたを通して放たれるというのです。そしてそれは隠れることができない、というのです。なぜ隠れることができないのか、といえばそれは光だからでしょう。ひかりはどこにいてもその光を放つからでしょう。この山上の説教の聴衆は、すなわち教会といってもいい、ということを申し上げました。教会は、この世界で隠れることはできないのです。15節の言葉はわたしたちに与えられている光をわざわざ升の下に置くことはなく、むしろ部屋全体を照らし出す燭台の上に置くのだ、というのです。教会はたとえそれがどんなに小さな群れであっても、この世を照らし出す光だということです。真っ暗な部屋で光が放たれるとき、ともし火が部屋全体を照らし出した時、その部屋の中の全体があらわになるのです。キリストの光とは、この世の姿が、この世の全体を照らし出していく光だということを、わたしたちがキリスト者が忘れてはならない。

 あなた方は地の塩、世の光である、これはまさに福音において聞く言葉です。しかしここに、キリスト者の真実の姿があるのです。

 最後になぜキリストがこの2つを並べるようにして語られたのか、考えておきたいのです。塩は、例えば食材の中に溶け込んでいってその真価を発揮するのです。塩と食材が別々にある間はその役割を果たさない。塩は食材の中に入り込み、溶け込んでいくことで、食材を生かし、相手を生かしていく。一方光は、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい、といわれているように、高く掲げていくことが大事であり、それでその役割を果たせる。山の上にある町が隠れることがないように、わたしたち教会も逃げ隠れせずに誰でも見えるようにそこにある、ということが大事なのです。

 今これを敢えて言葉にするなら、塩の働きは潜在化といえます。一方で光の働きは顕在化といえましょう。しかも両者ともその場所は、地であり、世なのです。キリスト者は、教会は自分たちだけで秘密結社をつくる組織なのではない。この世界に向かって福音を宣べ伝えていく群れなのです。しかしその歩みは、この地上の生活で、日々の生活において、この社会の中で、塩のように溶け込み、潜在化して、塩としての働きを発揮していくのと同時に、キリストの光を掲げて、この世界を照らし出していく顕在化させていく、そういう二面性があるそのどちらか一つだけが大事、というのではなく、その二つが二つながらに大事だ、そうキリストは言っておられる。わたしはもっぱら潜在化の方でご奉仕します、ということではない、ということでしょう。

 大事なことは、わたしたち一人一人が今何と出会い、何に聞いているか、どのような恵みに出会い、愛と出会っているか、ということなのです。そしてその自分を受けとめながら、「あなた方は地の塩である、世の光である」というキリストの言葉に道を示されていきたいと思うのです。