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マタイによる福音書連続講解説教

2023.7.2.聖霊降臨節第6主日礼拝式説教

マタイによる福音書連続講解説教 聖書:マタイによる福音書5章17-20節『 律法を完成する 』

菅原 力牧師

 ユダヤ人にとって、律法の掟を守ることはすなわち信仰生活でした。信仰の生活それはすなわち律法順守の生活でした。しかし掟といっても、その数は600を超えるのですから、簡単なことではありませんでした。しかもそこから派生する不文律のようなものもあったでしょうから、膨大な量のルールがあったのです。そのうちの一つでも掟を守れず破るようなことがあれば、律法全体を疎かにした、ということになるので、厳しいものでした。さまざまな事情で律法を守れず、罪人と呼ばれ、ユダヤ社会からはじき出されていく人々もいたのです。しかしそれでもなお、ユダヤの社会は律法を守ろうとしてきたのです。

 

  今日読みます聖書箇所の背後には、そのユダヤ人にとって大事な大事な律法や預言者をイエスは疎かにし、場合によって廃棄するために来たのではないか、という危惧、批判がユダヤの人々の中にあった、ということです。律法と預言者という場合、旧約聖書そのものを指すこともありました。とすればイエスは旧約聖書そのものを廃棄するために来たのか、という問いが背後にあったのかもしれません。主イエスはそれに答えるような形でここで語り始められたのです。

 

  「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

 

  主イエスはわたしは律法を廃止するためでなく、完成するために来たのだ、といわれたのです。律法を完成する、とはどういうことなのでしょうか。

 

  そもそも多くのユダヤ人は律法というのは、神の掟なのだから、それを順守することが大事なのであって、律法の完成というようなこと考えたこともなかったのではないかと思います。人々は律法を守ることに追われていたのです。

   

  一方でユダヤの人々の間では600を超える戒めを全て均等に守ることなど困難だという思いもあり、律法の要点となることは何か、要となる戒め、は何かということがしばしば議論されていました。

 

  マタイ福音書の22章には、ファリサイ派の人々の中の一人、律法の専門家が主イエスのもとを訪ねたことが記されています。その人はイエスを試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねたのでした。要ということです。すると主イエスはこう応えたのでした。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。声が最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

  主イエスの答えは明確でした。律法は神を全力で愛すること、隣人を自分のように愛すること、この二つの掟を基礎にしているのだ、というのです。この答え自体は皆さんもよく知っているでしょう。ここで主イエスが言っておられることは、律法を守るかどうかということは、神と隣人を愛するということ、そして自分を愛するということが根本にあることなのだ、ということです。このことをていねいにしっかり考えてみたいのです。律法というのはユダヤ社会の行動の掟、ルールです。わたしたちにとってそれがなんであるかといえば、キリスト者としていかに生きるか、どう歩むのか、行動のルールです。

 

  キリストは律法の根本は、神を全力で愛することだと言われたのです。ここをしっかりと受けとめていただきたいのです。何をすることが大事なのか、何をしないことが大事なのか、その行動の掟となること、ルールとなることの根本は神を愛するという神との関係なのだ、とキリストは言っておられるのです。行動のルールを自分の常識で判断して、この方がいい、こちらの方がよりいいのでは、ということでは一切ない。

 

  律法のことは初めから終わりまで、神とわたしたちの関係の事柄だというのです。律法はまさしく神のことだ、とキリストは言われたのです。

 

  わたしたちにとって、どう行動するのか、どう歩むのか、それは神との関係そのものだ、ということです。

 

  よくクリスチャンでAにするかBにするか道に悩んだとき、神に祈った、という人がいます。それでAを示されたとか、祈っているうちにAへと促されたのです、という人がいますが、それは下手をすると自分の内面の声を確認しただけなのかもわからない。神に祈って、ただ自分の内面の、自分がこうしたいと思っているその声を確認しただけなのかもわからない。

 

  キリストが言っておられるのはそういうことではない。律法において根本となることは神とあなたの関係、しかもそれは漠然とした関係のことではなく、神を愛するという関係、だというのです。人間関係の中でさえ、このことについて自分一人で決めるのではなく相手との関係の中で決める場合、余程ていねいに相手の思いを聞こうという思いないといけないものです。そこで思い起こしてほしいのは、山上の説教はわたしたちの倫理的、道徳的な行動がまず求められているのではない、という何度も申し上げてきたことです。まず求められるのは、神があなたを愛し、神があなたをキリスト・イエスにおいて背負い、贖い、恵みのうちに救ってくださったということ、その神の救いを受けとることなのです。その神の救いの意志を知るためにわたしたちはみ言葉にていねいに聞く必要がある。自分勝手な思い込みで神の意志を断定してはいけない。受け取って、神に応答し、神を全力で愛すること、それがすなわち律法を生きることになるというのです。そうすることの全体が、律法の完成ということになっていくのです。

 

  わたしたちキリスト者にとっては、それが主のみ言葉によって生きる、ということの具体的な歩みを形成していくのです。

 

  神を全力で愛するということはどういうことなのでしょうか。心をつくし、精神をつくし、思いをつくして神を愛するとはどういうことなのでしょうか。これもまた自分の思い通りに愛するなどということと違うことは当然のことです。愛する、ということは、自分の思い通りにするとか、自分が思う愛し方を相手ぶつける、ということではなく、相手の思いを受けとめながら共に歩んでいくことに他ならない。そこで、わたしたちにとって神を全力で愛するとは、何よりもまず、神を礼拝することです。そして神の語りかけを聞き、神の差し出しておられるものを差し出してくださるままに、信仰を持って受け止め、その語りかけに聞き従っていくこと、そして神との関係を日々生きること、それが神の御意志に即して神に応答していく道であり、人間が神を愛する道なのです。律法の話はここに究極する、そうキリストは語られたのです。

 

  18節が語っているのは、律法や預言者は終末に至るまで滅びることはない、といっているのですが、それは文字通りの意味のほか、旧約聖書の全体を指す言葉なので、旧約のみ言葉は滅びることがない、といっているのです。そして続いて、この律法を主イエスが言われたように、神との関係を日々生きる中で、律法を生きる、そのものは天の国で大いなる者と呼ばれる。終末の時の神の祝福の中に入れられるというのです。

 

  20節の言葉は、どう受け取るのか。主イエスのたとえ話を思い出してほしいのですが、ファリサイ派の人と徴税人とが、神殿に上ったのです。ファリサイ派の人は、自分はどんなに律法を守っているかを縷々述べて誇り、この徴税人のようなものでもないことを感謝しますと祈った。一方徴税人は、遠く離れて立ち、神さま、罪人のわたしを憐れんでください、と祈った。この二人のうちに義とされて家に帰ったのは、この徴税人であってファリサイ派の人ではない、という話をされたのです。この話を聞くと、あらためて主イエスがどのような人を義の人と見ているのか、よくわかるのです。ファリサイ派の人は律法を確かに守っていた。ルールを順守していた。しかし肝心要の神との関係を生きること抜きに、ただ律法を守っていたとしても、それを神は見ておられるのだ。それは神からすれば、義とは言えない。この徴税人は神との関係に生きて、神に祈っている、義とされたのは、この徴税人だというのです。徴税人はいろいろ欠けがあったかもしれない。しかし徴税人は、神との関係を生きている、その関係の中から祈っている。それをイエス・キリストは義、よしとされるのです。

 

  そしてあなたもそういう義とされる歩みを生き方をしていきなさい、といわれるのです。律法をどう守るのか、わたしたちにとってそれは、キリストを信じ、キリストに従うものとしてどう生きるのか、どう日々の生活を歩む者となるのか、ということです。そしてそれは、自分の頭でひねくり出すものではなく、このわたしを愛してくださっている神の恵みを受けとめ、この自分を贖ってくださるキリストの信実に触れていき、み言葉に聞き、神との関係を生きるそこから生まれていくものだということを今日も、あらためて知らされていきたいと思います。

 

  小さな子どもが親の愛を毎日毎日受けて、愛されている自分を心とからだで感じて、愛するものとなっていくように、毎日毎日、神の愛を心とからだで受けとめていく、み言葉の一つ一つを染み入るように聞いて受けとめていく中で、神に応えて生きる者とされていくのです。心と思いと精神を尽くして神を愛するとは、まさしく、神がわたしたちのために全力の愛を与えてくださっていることを全身で受けとめていくそのことに他ならないのです。そこから生まれていく応答の歩みこそが律法の完成へと向かう道であることを受けとめていきたいと思うのです。