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マタイによる福音書連続講解説教

2023.7.9.聖霊降臨節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章21-26節『 怒りと和解 』

菅原 力牧師

 主イエスの山上の説教に聞き続けていますが、この説教は大事なことが山ほど積み込まれている中身の濃い説教です。一度にこれほど長くて盛りだくさんの説教をしたのかどうか、わかりませんが、しかし全体としてまとまりのある説教で相互に深く関係しています。今日の聖書箇所も先週読んだ律法に関する主の言葉と深く関係している箇所です。

 さて、主はこう言われました。「あなた方も聞いている通り、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」

「殺してはならない」というのは十戒の第六戒、十戒の戒めです。人を殺した者は裁きを受けるというのは律法の掟です。あなた方も聞いている通り、あるようにユダヤの人ならだれでも知っていること、というか、どこの国の人でも誰でも知っていることです。人を殺してはならない。主イエスはあえて、その誰でも知っている掟を取り上げたのです。そのうえで、「しかし、わたしは言っておく」といって、それに対する新たな言葉を語り始められたのです。

 語られる内容は驚くようなことです。

 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』というものは、最高法院に引き渡され、『愚か者』というものは、火の地獄に投げ込まれる。」ごく普通に考えれば、人を殺したら、裁かれる、当然のことです。しかし主イエスは、たとえ殺さなくても、兄弟に対して腹を立てたら、それも裁きの対象だというのです。さらに、腹を立てるだけでなく、兄弟に『ばか』というものは、最高法院に引き渡され、『愚か者』というものは火の地獄に投げ込まれる、という具合に裁きが厳しいものになっていくのです。

 これを読んで、殺すな、という律法が大事なことは誰もがよくわかっている。だがそれを守っていれば、本当にいいのか、心の中でだれかに腹を立てること、まして、バカとか、愚か者ということは殺しではないけれど、こうした憎しみや怒りが殺しの根にあるのだから、それも裁かれるのだ。ただたんに殺人というだけが悪なのではない。相手に対する怒りや、憎しみの表現も裁きの対象なのだ、という意味に読んだ人は多いと思います。

 そのうえで、そんな無茶な話があるか、と思った人も多いと思います。人に腹を立てただけで裁きとか、わけわからん。まして、ちょっと『ばか』とか言っただけで最高法院だなんて、こんなこと実際にあったら息苦しくて、何もできなくなってしまう。そう思った人もいるでしょう。

 先週読んだ20節の主イエスの言葉、「言っておくが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない」この言葉を改めて思い起こして、その意味を、ただ殺すなだけでなく、腹を立てることも、バカとも言わない、そこまで深くとらえて、はじめてファリサイ派の人々よりも、律法を根本から守ったと言えるのだ、そう読んだ人もいるのではないでしょうか。

 しかし主イエスはそういう意味でここでこの言葉を語られたのでしょうか。言ってみれば、律法にさらに厳密な戒めを重ねるような、屋上屋を架すようなことを主は言われたのでしょうか。

 そうではないと思います。

 主イエスが語られたこと、それは『殺すな』という誰もが知っている戒め、掟、それは、神が与えたいのちを人間の勝手にしてはならないということです。だからそれは他の人を殺すな、というだけでなく自分も、殺してはならないということです。しかし誰もが知っているこの戒め、掟があるにもかかわらず、人間の歴史の中で、殺人はなくならなかった。古代社会や聖書の時代だけでない。現代においても、殺人はなくならない。その意味ではこの『殺すな』という律法はその目的を実現できていないのです。主イエスは律法を完成するために来た、といわれました。それはこの律法を目指すところを実現するために来た、ということに他ならないのです。

 23節以下を何度も読んでみて下さい。そこで語られているのは、反感を持っている人がいることを思いだしたら、仲直りをしなさい。供え物をささげるというのは、礼拝へ行くということですが、礼拝に行く、という大事なことの前に、仲直りしなさい、ということです。あなたを訴える人がいるなら、和解しなさい、というのです。この説教のはじめは、『殺すな』という戒めであり、腹を立てることも、兄弟をばか呼ばわりすることも皆裁きの対象だ、という話でした。そこから仲直りと和解の話へ向かっていかれるのです。

 「殺すな」は〇〇するな、という禁止の戒めです。しかし主イエスがここで語られているのは、〇〇するな、という禁止の戒めではなく、仲直りしなさい、和解しなさい、という新たな関係づくりへとわたしたちを向かわせるものなのです。

 主イエスがここで語ろうとしておられることを誤解してはならないのです。『殺すな』を、屋上屋を架すことで、もっと厳しい掟を科すことでそれで人を縛り付けて、戒めを守らせようとするのではなく、むしろ禁止ではなく、新しい関係の形成、○○しなさい、と呼びかける言葉なのです。

 人を殺すということの根本には、人間の怒りや憎しみがあります。確かにわたしたちは誰もが殺人という罪を犯しているわけではない。しかし、誰かに対して腹を立てる、ということならだれもが経験していること。さらに言えば日常的なことです。『ばか』とか『愚か者』と相手に言うことは言わないまでも、心の中で思うことは普通にあること。その怒りや憎しみの感情が人を殺すということの根本にあるとするなら、確かに『殺すな』の律法も我々に無関係ではないし、無関係どころか、深く繋がっている。キリストはそれをよくよくご存じで、そのわたしたちに向かって、仲直りと和解に生きるよう語りかけてくださっているのです。

 しかしそれがたんなる仲直り、和解の勧めなら、新たな戒めの一つといえるのです。頑張って、仲直りしてね、和解してね、というだけなら。

 けれども、イエス・キリストの説教はキリストご自身が責任を持ってくださる説教なのです。すなわち、キリストがここで語られていることは、ご自分がこの世に来られて、わたしたち人間の罪を背負い、わたしたちの内にある怒りや憎しみを負って、十字架にかかって死んでくださった、そのキリストの恵みの中で語られているのです。

 もちろんキリストはこの時まだ、死んではおられない。しかし主イエスがこの世に来られたのは、そのためであったのです。キリストはその使命の自覚の中でこの説教も語っておられるのです。

 

 人間はこの「殺すな」、というこの一つの戒めも十全に生きることはできないものです。まして怒りや憎しみとなれば、大きなものであれ、小さなものであれ、それらと縁を切ることもできないままに生きているのです。

 そしてわたしたちは人に対してだけでなく、神に対して、腹を立てたり、怒りや憎しみをぶつけたり、してきているのです。わたしたちは神と敵対関係の中にそれと知らずに入ってしまっているのです。

 しかし、イエス・キリストがそのようなわたしたちの罪を背負い、わたしたちの怒りや憎しみを負い、わたしたちのために死んでくださって、神はそれによってわたしたちの罪を赦し、新しいいのちへと招き、和解へとわたしたちを呼びだしてくださったのです。

 さまざまな罪を抱え込んでいるこのわたしを神はキリストのゆえに赦してくださって、わたしたちに和解の手を差し出し、このわたしを愛してくださっているのです。キリストによって与えられたこのいのちの中で、わたしたちは腹を立てることも、怒りも憎しみもあるままに、キリストに背負われているものとして、キリストが共に歩んでくださるものとして、仲直りへと、和解へと招かれ導かれているのです。

 言っておくが、あなた方の義が律法学者ファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない、というあのキリストの言葉は、あなたがファリサイ派の人より、立派な人になるとか、ファリサイ派よりも厳格に律法を守る人になるということではない。そうではなく、キリスト・イエスによって背負われ、救われた者として、さまざまな悪を内に抱えつつも、なお赦されて新しい関係へと向かう、そういうあなたなのだ、ということを受けとめて生きる、それが大事なことなのです。さまざまな争いや、葛藤、怒りや憎しみのある世界の中で生きているわたしたちですが、キリストの十字架の愛の中にある自分を受けとめて、歩んでいきたいと思います。