-->

マタイによる福音書連続講解説教

2023.7.16.聖霊降臨節第8主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章27-32節『 結婚の秘儀 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所で、わたしたちが用いている新共同訳聖書と新しく出た協会共同訳聖書とで翻訳ではっきりと違う箇所が二か所あります。

 その最初の箇所は「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、すでに心の中でその女を犯したのである」というところ「他人の妻」という言葉です。協会共同訳聖書はここを「情欲を抱いて女を見る者は誰でも心の中で姦淫を犯したのである」と訳していて、「他人の妻」を「女」と訳し変えました。実は以前私たちが使っていました口語訳聖書では「だれでも、情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫をしたのである」と訳していて、協会共同訳は以前の聖書の訳にほぼ戻したということになります。この翻訳の違いは、実は大きな意味を持っています。

 情欲を抱いて女を見る者は誰でも心の中で姦淫を犯したのである、といわれたら、年頃の多くの男性は姦淫の罪を犯したことになってしまいます。事実このみ言葉で悩んできた人は少なくないのです。しかも29節には「もし右の眼があなたを躓かせるなら、抉り出して捨ててしまいなさい。」とまで言われているのです。「もし右の手があなたを躓かせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」えげつないことを言われる。

 しかし、ここがたんに「女」ではなく「他人の妻」ということであれば、話は大きく変わってきます。つまり夫婦として歩んでいる女性に対して、みだらな思いで見る者は、心ですでに姦淫しているのだ、ということになります。

 どうしてこういう翻訳の違いが出てきたのか。元の言葉は、「女」とも「妻」とも訳せる言葉で、「他人の」という言葉は新共同訳聖書の翻訳者が書き込んだものです。わかりやすくするためだったのでしょう。

 最初に言っておけば、主イエス・キリストは性的な欲望を抱くことそれ自体を罪とする、というような考えはない。また聖書には、男女の性的な関係を罪とするような考えはないのです。

 そもそも主はここでの段落を、「姦淫するな」という文脈で話を始めておられるのです。ということは、ここで問題になっている一般的な男女関係ではなく、夫婦の関係に関わる話なのです。姦淫というのは、当時のユダヤ社会では既婚女性が夫以外の男性と関係を持つこと、既婚男性が他人の夫婦関係に割り込んでいって、その既婚女性と関係を持つことでした。その意味で、この箇所の翻訳は「他人の妻」と訳すことが文脈に適っていると言えるのです。ただし、「すでに心の中でその女を犯したのである」というところは精確ではなく、「心の中で姦淫を犯したのである」という訳文になるべきでしょう。つまりここで主イエスはあくまでも夫婦の関係における問題を語ろうとしておられるのです。もっとわかりやすく言うと、ここで主イエスは我々が自分の夫婦関係、他の人の夫婦関係を大切に、大事にしていきなさい、という話をしておられるのです。

 しかしそこで主が言われるのは、「姦淫するな」とは不倫をしない、ということにとどまることではなく、「心の中で姦淫」してはならない、ということです。そこで主が言わんとされたことは何だったのか。そのことを語るのが31節32節なのです。ここもわたしたちには一読よくわからないところですが、「妻を離縁するものは、離縁状を渡せ」という掟が取り上げられています。

 当時の離縁状というのは、現代から見れば、きわめて女性に対して差別的な制度で、夫から見て、妻に落ち度があった場合、離縁することが容易で、その場合、離縁状を渡せ、というものなのです。その落ち度というのも、料理を焦げ付かせた、というようなふざけた理由も、落ち度に入るような今から言えば無茶苦茶な制度だったのですが、しかし一方で、離縁状は女性にとって「独身証明書」となり、それで新しい歩みが開けていくので、離縁そのものは理不尽でも離縁状は重要な意味を持っていた。しかし、主イエスはその掟に対して、そもそも「不法な結婚でもないのに、妻を離縁するものは、その女に姦通の罪を犯させることになる」といわれたのです。ここが、最初に言った翻訳のもう一つの箇所です。

 「不法な結婚でもないのに」と訳されている言葉、協会共同訳聖書では「淫らな行い以外の理由で」となっています。口語訳聖書では「不品行以外の理由で」となっています。淫らな行い、不品行と訳されている言葉の意味は「姦淫」ということです。つまり姦淫以外の理由で離縁するようことはいけない、といっており、これは協会共同訳や口語訳の方が原文に忠実です。新共同訳聖書がどうしてこうした原文から離れた訳をしたかといえば、カトリック教会との共同訳だったからで、カトリックは基本離婚を認めておらず、ここで姦淫以外の理由で離縁するのはよろしくない、とすれば、姦淫したら離婚してもいいということになり、カトリック教会はそれを呑めなかった、という話を聞いたことがあります。これは言うまでもなく翻訳に持ち込む態度ではなく、ここは、みだらな行い以外の理由で、例えば料理を焦げ付かせたというような男の身勝手理由で離縁してはならない、ということを言っているのです。言うまでもなく、今日でいえば、離婚の理由は千差万別、いろいろな理由があるものです。しかしここでいっているのは、男が自分勝手な理由で離縁していいのではなく、姦淫以外の理由で好き勝手に離縁してはならない、ということなのです。

 しかし主イエスはそのうえで、そのことにおいて、何を弟子たちに、人々に語りたかったのでしょうか。姦淫するな、みだらな思いで他人の妻を見るな、身勝手な離縁をするな、先週も申し上げた、〇〇するな、という禁止令。それで主は何を語ろうとしておられるのか。それは禁止令にとどまるものではなく、夫婦の愛ということだと思われます。

 29節の過激とも思える言葉、もし右の手目があなたを躓かせるなら、抉り出して捨ててしまいなさい、それは文字通りの勧めをしているわけではない。目であれ、手であれ、からだの一部を自分から捨ててしまうというようなことはとんでもないことです。しかしここで主が言われる姦淫というのは、夫婦の関係を破壊し、失わせていくことで、それは、からだの一部を失うこと以上のことなのだ、ということです。そのことをこの過激な表現は語っている。

 それだけでなく、ここで語られていくのは、そもそも人が人を愛するということの中には、相手のために自分の体の一部を差し出すような、相手のためならそれをいとわないようなものだ、ということが語られているのです。

 人間は夫婦であっても身勝手な我儘を相手にぶつけたり、自分本位なことも平気でしてしまうものです。親子の関係においても、自分のわがままを子どもにぶつけたり、自分本位な愛を押し付けていくことも少なくない。

 しかし愛は、パウロがコリント前書で語るように、「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ものなのです。その意味でわたしたちの愛は破れている、中途半端、いつも愛から脱落していく、そういうものかもしれない。

 しかしキリストはここまでの説教と同様、いたずらにわたしたちの理想の愛を語り、理想の愛を投げかけているわけではない。そうではなく、キリストはご自身においてわたしたちへの愛を生きてくださった。ご自分の存在において示してくださった。それはわたしたちのために自分の目も手も、その体の全部を差し出してくださる愛なのです。

 

 確かにわたしたちの愛が、それが愛と呼べるかどうかはともかく、パウロの言葉からずり落ちていくようなものであることは少なくない。忍耐強くなかったり、情け深くなく、すべてを忍ぶことができず、すべてを信じていくことが叶わないそういう中途半端な愛であるのです。姦淫や離縁の問題は、それが適法かどうか、ユダヤ社会で言えば、律法に適っているかどうかの問題にとどまるものではない。どういう愛を育んでいくか、どういう愛を形づくろうとするのか、愛の内実の問題に深くかかわるのです。中途半端な愛というのは、形容矛盾なのかもしれません。しかし、わたしたちは中途半端な愛の中で、右往左往しているのです。

 けれども大事なことは、わたしたちがその中途半端な愛の中で、何を見つめているのか、ということ。そこで何を受けとり続けていくのか、ということ。破れている愛の中であっても、自分がどのような愛に活かされ、どのような愛の中におかれているか受け取り続けることこそが大事なことなのです。

 夫婦の愛も、親子の愛も、友人との関係も自分たちだけで完成というか、満たされたものとはならない。わたしたちのエゴや、自分勝手な、自分本位な歩みは、わたしたちの愛が、どこかで破れを持っていくのです。しかしわたしたちは、その中でなお、キリストの愛がわたしたちを覆っていることを知らされていくのです。キリストの愛がわたしたちを一番下から支えてくださっていることを知らされてきたのです。キリストの恵みの中にあるのです。だから、わたしたちは破れていても、中途半端な愛であっても、また愛に向かっていけるのです。愛そうとして歩みだしていけるのです。

  キリストはわたしたちが愛する者として今日も歩みだしていかれることを、深く深く望んでくださっているのです。