-->

マタイによる福音書連続講解説教

2023.8.6.聖霊降臨節第11主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章33-37節『 偽りの誓いを立てるな 』

菅原 力牧師

 主イエスが語られた山上の説教に聞き続けています。こうして改めてマタイによる福音書を読み、主イエスの説教に耳を傾けていくと、むずかしい、という印象を強くされた方も少なくないと思うのです。

 しかしさらに読み進んでいくと、この山上の説教で語られているその語り口は、同じような語り口のパターンがあって、それがわかってくると、むずかしいという印象も変わってくるのです。

 今日の聖書箇所も形としてはまさに典型的なのですが、「昔の人は〇〇と命じられている。しかし、わたしは言っておく、□□である」というパターンです。

 この昔の人は命じられているというのは、ユダヤの律法の掟を言い表しています。律法ではAと命じられている、しかし、わたしは言う、Bだと。この形です。

 しかし、これだけ聞くと、AじゃなくてBだ、ということになり、Aは否定されたことになります。確かに物言いとしてはそうなのですが、読めばわかるように、じゃあBということなのか、といえばBは無理難題を言っているのです。無理な要求なのです。右の眼があなたを躓かせるなら、抉り出して捨ててしまえ、というのは無理難題なのですよ。ということは、Aもダメ、Bも無理、ということになり、わたしたちは主イエスの言葉の前で右往左往するのです。

 この右往左往が実は大事なのです。右にも、左にも行けない、どうすればいいのか。主イエスの真意はAかBか、という単純な二者択一が困難になり、キリストの福音に立ち帰って、その中で、Bを理解し、さらにはAも考え直していく、そういう語りなのです。たとえそのことが直接的に語られなくても、山上の説教の全体は、この福音を大前提としているのです。それが最初にはわかりにくく感じるのですが、福音からBもAも受けとめていく、ということがとてもな大事なことなのです。

 さて、今日の聖書箇所では誓いということが取り上げられています。「もう二度と嘘は言いません、誓います」というような具合に使われるあの誓いです。

 長い話は避けますが、聖書の時代、ユダヤの社会では誓いということは実に頻繁に行われたようです。あまりに頻繁に行われる、ということもあってか、神の名に懸けて誓う、ということしない、というしきたりがあったようです。

 それで、神の名に懸けて誓うことをしない代わりに、天にかけてとか、地にかけて、誓うということが日常的にあったようです。しかし、天にかけて誓うとか、地にかけて誓うと言っても、それは表現を変えただけで、天とは神の玉座のあるところ、地とは神の足台の場であって、結局は神を引き合いに出しているにすぎない、そういうことがユダヤ社会の中で行われていたのです。

 それではなぜ、「誓う」ということが問題なのでしょうか。誓うといってもそれは当然幅とか奥行きのある事柄で、全部を十把一絡げにすることはできません。

今、日常的な場面を考えてみると、さっき言ったような「もう二度と嘘は言いません、神に懸けて誓います」というような誓いを取り上げてみます。日本でも、「天地神明にかけて」とか「神仏にかけて」というような言い方はよくしますし、注意して、メディアなど見ていると、○○というようなことはなかった、と誓って申し上げたいと思います、そうやって誓いという言葉は溢れています。

 そもそもなぜ誓うのでしょうか。飛躍するように聞こえるかもしれませんが、人が誓う、ということの中には、自分の真実を認め切れていない、ということがあるのではないか。ある人は、人が誓うのは逆説的だが、人が自分の中の空虚、虚の部分を感じているからではないか、というのです。

 もし自分というものを心から信じ、自分は言うこととやることが一致している、という確信があるのなら、誓うというのではなく、○○します、といえば十分です。さらに言えば、何も言わなくていい。思ったことをその通りにするのですから。それをよりによって神を引き合いに出して、神を引っ張り出してきて、神さまの絶対性を引きずり込んできて、そのうえで誓う、というは自分の中に確たるものがないからです。自分の真実を信じきれていないからでしょう。ある人が面白いことを言っているのですが、神さまを引き合い出して、神に懸けて誓うという場合に、神さまの許可を得ているのか、というのです。神さまの前で、自分はこの件に関して、今後これこれこういう態度、言明でぶれることなく生きていきます、ですからどうぞあなたのお名前をこのわたしにお貸しください、と依頼しているのか、というのです。それもしないで、人間は自分の都合で神さまを持ち出して、誓う。しかし「二度と嘘は言いません」と誓いながら、それは無理だろう、と思っている自分もいるのではないか。二度と嘘は言いません、という言葉が嘘を含んでいるのではないか、という予感があるのです。

 自分の真実を信じきれない、自分の中の虚の部分を感じている、だから神を持ち出して誓うことで、自分の誓いを真実なものに見せかけたい、神に懸けて誓うことで、自分の誓いを実あるものとしたい、それが人間の神を持ち出す誓いの姿なのです。

 キリストはここで「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」つまりここでキリストは偽りの誓いを立てるな、神に対して誓ったことは必ず果たせ」と律法では言うが、あえてわたしは言う。誓いを立てるな、といっているわけです。最初に申し上げた、Aといわれているが、Bなのだ、という論法です。誓いをみだらにするな、誓った以上は実行せよ、といわれているが、そもそも誓うな、という話です。額面はその通りです。しかし、キリストはここで、誓いというもの、それを全部やめてしまえ、といっているのでしょうか。もっと言えば、誓いというものをやめれば、それで済む話をここで主はされておられるのか。少し考えればわかることですが、もしそうなら、わたしたちは誓いに限らず、約束も、何もできなくなっていき、身動きが取れなくなってしまう。そうではない、と思います。キリストはそんな窮屈なことを言っておられるのではない。誓いの中にある、人間の自分の真実を信じきれない、虚を含んだ自分、その自分が受けとめられていること、その自分がキリストの信実に支えられて、キリストの実に支えられて、生かされていることを受けとめる。つまりキリストに全面的に支えられ受けとめられていかされていることを知る。福音の中にある自分を知るのです。

 そのときわたしたちは自分勝手な、自分の都合で神を引き合いに出して誓う、

神の名を借りた自分に嘘をつくような誓いは、やめるのです。自分本位な自分の力で守り抜こうとする誓いはやめる。

 しかし一方で生きていくわたしたちはさまざまな誓いを立てていくのです。洗礼においても誓約をする、教師・牧師になる際にも誓約をする、結婚式にも誓約を交わす、さまざまな誓いを立てて生きていくのです。

 それは、ここでキリストが一切誓いを立ててはならない、といわれた言葉と矛盾するのでしょうか。そうではない。福音の中にある自分を知って、キリストの信実と、キリストの実の中で活かされていくこと知って、誓約して生きること、キリストはその生き方へこそわたしたちを招いておられるのです。

 

 自分の力で誓いを立て、誓いを守り抜こうとする、それはやめさない、といわれる。しかしそれで終わりなのではない。神とキリストの恵みの中で、十字架の恵みと復活の力の中で、誓いを立て、神の導きを仰ぎ見て、その誓いを真摯に責任を負って生きることをこそ神は望んでおられる。そう生きてほしいと願っておられる。

 律法が命じているように、偽りの誓いを立てるな、主に対して誓ったことは必ず果たせ、とはその通りです。だがそうばかりはできない人間の現実、姿がある。だから、誓いを立てることそのものをやめなさい、と語られた。これだけで聞けば、Aはダメ、Bでいけ、と聞こえる。しかし主イエスは福音の中にあるわたしたちに向かって、福音の中で、AもBも聞け、と語っておられる。そうすると、自分の力で誓いを立て、神を利用して、自分本位に誓いを立てるそういう生き方はやめなさい。福音の中にすでにあり、福音に活かされているあなたは、キリストの信実に支えられて、必要な誓い、約束、を精一杯責任を負っていきなさい。37節の言葉は「然り」と「否」という言葉しか言ってはいけないという意味ではなくて、キリストの支えの中で、その都度自分として判断して生きていきなさい、という意味の言葉です。

 誓い、ということを主が語り始められたのは、前の部分で語られている結婚の事柄と関係しているのかもしれません。結婚ももし人間同士の誓いであるのなら、そこに欠けや、破れが生ずるのは当然のことです。しかし福音の中で活かされている者は、その欠けや破れを負ってくださる方を知っています。その欠けや破れを痛みの中で、苦しみの中で負ってくださる方を知っています。そしてそこで尚、わたしたちを愛の中で活かしてくださる方を知っています。その福音の中で、まさに誓いを生きる力が与えられるのです。洗礼の誓いを、教師となる誓いを生きる力が与えられるのです。キリストは、わたしたちが福音の中にあるものとして、一つ一つのことを受けとめていくことをこそ望んでおられるのです。