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マタイによる福音書連続講解説教

2023.8.13.聖霊降臨節第12主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章38-42節『 無暴力について 』

菅原 力牧師

 主イエスの山上の説教に聞き続けています。今朝ご一緒に聞きます聖書箇所は、短い箇所ですが、わたしたちに語りかけられているものは、とても豊かなものです。この段落の構成は、これまでわたしたちが聞いてきた特徴を持っています。Aと命じられている、しかしわたしは言うBだと。というあの形式です。

 「あなた方も聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

この律法、レビ記にも出エジプト記にも記されていますが、皆さんもよくご存じの言葉だと思います。さまざまな言い方があるのですが、「同害報復法」と呼んだり、「同態復讐法」と呼ばれる掟です。

 この律法の話は皆さん何度も聞いておられると思いますが、ユダヤ社会だけでなく、古代社会にあって多くの国で生きていた法で、被害を被った場合、その被害量と等しい刑罰、もしくは復讐をすることができる、という法でした。

 一見残酷で野蛮なルールのように思われる方がいるかもしれませんが、このルールが働いていない社会では、被害を被ったものが、憎しみのあまり、それ以上の復讐をするということが往々にして起こったのです。例えば目を潰されたものは、相手の命を奪おうとする、歯を折られたものは相手の腕を足を折ろうとする、そういうことが起こっていく、人間の復讐心というものは、復讐が復讐を生んでいくものなのです。「目には目を、歯には歯を」という同態復讐法は、目をやられたら、それと同じだけの復讐で良しとしなさい、という掟なのです。それは残酷、野蛮な復讐をやめさせて、人間同士の間に起こる憎しみの増幅をある秩序のもとに置こうとするすぐれた知恵ともいえるものでした。 

 ところが主イエスはこの律法に対して、「しかし、わたしは言っておく。」といわれて語り始められるのです。

 「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」目には目、歯には歯、それが社会にいきわたっている律法でした。しかし主イエスは、同害報復ではなく、そもそも悪人に手向かってはならない、というのです。右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさいというのです。あまりにもよく知られたキリストの言葉です。ある意味この言葉だけが独り歩きして、キリスト教的な愛の精神のような言葉として受けとられてきらいもあるのです。

 右を頬を打たれるというのは、右利きの場合、手のひらではなく、手の甲で打つことになります。これは、殴るとか暴力というよりも侮蔑に近い行動だったと言われています。相手を侮蔑する行動、それに対して、同害報復ではなく、左の頬も差し出しなさい、というのです。

 主イエスの言葉は続きます。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせない。」これは実のところわたしたちにはピンとこない言葉かもしれません。訴えて下着を取る、というのは、借金の差し押さえとして、借金のかたとして訴訟を起こして取り上げるということです。当時、下着といえども繊維製品は高価なものでした。それで例えば貧しい人に金を貸しているものは、その借金のかたとして、訴えて下着を取ることもあったのです。そのときには、上着も差し出してやれ、というのです。

 「誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」この「強いるなら」という言葉は強制労働というように使われる言葉です。この場合誰かとは、官憲とか権力者のことを指しています。例えばユダヤ社会を支配していたローマ帝国が強制労働のため、あなたを一ミリオン物を運ぶ労働へと強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさいというのです。一ミリオンというのは、約1.5kのことです。

 42節の言葉はそれまでの言葉をまとめるようにして語られています。

 あなた方はAと命じられている。しかしわたしは言うBだ。先週この形式の話をしたときに、この主イエスの語りは、単純にAではなくB、という話ではない、ということを申し上げました。実際、Bは無理難題だったり、実行不可だったりするのです。わたしたちは、この無理難題を正直に受けとめていくべきです。できるつもりになっていったり、スローガンのようにして読んだりすることは、ある種の精神主義に他なりません。

 誰かがあなたの右の頬を打つのなら、というのは侮蔑の行動だと言いました。人から侮蔑されたら、どうぞこちらも、と言って左の頬も差し出す、というのは侮辱、屈辱を黙って受け、それに対抗したり、身を守ったりしない、ということです。そういう生き方をしていけば、人間としてボロボロになってしまうのではないでしょうか。

 さらに、貧しいものが借金のかたに下着を取ろうとされて、上着まで差し出していけばどういうことになるのか、今わたしたち山のような衣類に囲まれて暮らしているのとは、全く違うのです。

 上着は寝具でもあったと言われています。出エジプト記には、もし仮に隣人の上着を質に取った場合でも、日没までには返さなければならない、という掟が語られています。そうしなければ、上着を奪われた人は裸で寝るしかない、ということにもなりかねないからです。

 官憲や権力者に強いられて、労働につかされるのなら、抵抗することなく、一ミリオン求められたら、二ミリオン行きなさい、というのは、無理難題、むちゃな話です。官憲から強いられることは、例えば「徴兵」ということが挙げられます。徴兵は基本的に拒否できない、強制なのです。そうやって強いられたら倍の働きをせよ、というのです。求めるものには与えなさい、という言葉に至っては、貧しいものにとって死活問題になっていくのです。

 この39節以下の言葉は、無理難題、というだけでなく、悪人に対して無抵抗ということになり、悪人が喜ぶ行動になってしまう。左の頬を向けたり、上着を差し出したり、強いられたらそれ以上についていけ、求めるものには与えよ、というのは、富める者、強い者が、貧しいもの、弱い者を苦しめても誰も文句を言わない。言わないどころか、さらに与える、というのであれば、悪人を悦ばせ、助長させるだけだ、ともいえるのです。

 キリストはこうしたこともよくご存じだったでしょう。それなのに、なぜこうした言葉を語られたのか。

 

 先週の聖書箇所と同様、わたしたちはAとBとの間で右往左往するのです。そして右往左往しながら、帰るべきところに帰らなくてはならない。イエス・キリストの福音に帰るのです。福音に帰るということは、福音に聞きなおすということです。神がこの世界にイエス・キリストを与え、キリストが神の国、神の支配を宣べ伝え、弟子たちを召し、共に伝道され、そして十字架にかかられ、わたしたちの罪を負い、十字架において死に、神によって復活させられる、その福音にもう一度はじめから聞くのです。そこでAとBを受け直すのです。それを皆さん一人一人が自分の経験として聞きなおしていくのです。

 

 まず、最初のAのことを思い巡らしていくと、気づかされていくことがあります。まず、ここで主イエスはAと命じられている、しかし、と言われているのですが、このしかしは、Aの否定というわけではない、ということです。Aを否定してBと読みがちですが、そうではない。実際、Aは今も社会の中で、生きていルール、あるいはルールの基礎になっている。死刑制度なども、ある意味で同害報復が根本にあるし、裁判における賠償金制度というのは、同害を金銭に置き換える制度です。わたしたちの社会には有形無形、同害報復という考え方はいきわたっているのです。

 ではいったいこの「しかし」はどういう「しかし」なのでしょうか。それは、Aとは違う世界がある、ということにわたしたちの心を向けさせる「しかし」ではないでしょうか。こう考えるとわかってくる。もし、神と人間との関係が「目には目を、歯には歯を」という掟で動いていくとするなら、わたしは、存在しているのかどうか。わたしの神に対する罪に対して、神が同態復讐法で、同害報復法で対応するとなるとわたしはどうなるのか、という疑問が出てくる。もしわたしの悪が、罪が、神に逆らう行為行動が同害報復でジャッジされるのなら、どうなるのか、ということです。

 39節以下の言葉は、わたしたちの努力目標が語られているのではない。ここには、イエス・キリストの福音が語られているのです。右の頬を打つなら、左の頬を向けて、下着を取ろうとする者に上着まで与え、一ミリオン強いられたら、二それ以上に共に行こうとされる、求めるものに与え続ける、それはまさしくイエス・キリストの十字架に向かう歩みです。「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分となり、人間と同じものになられました。へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした」というあのキリストの行為行動です。

 これはわたしたちの努力目標ではない。福音そのものです。

 わたしたちはこの福音によって活かされていく。しかしこの福音はしるしとして与えられて、今はまだ隠されているのです。この世界の福音があまねく現実となっているのではない。

 悪人に手向かってはならない、という言葉は、いまそのままで適用することはできないのです。悪人の悪を抑制することも必要だし、そのためのルールも必要です。警察の働きも、裁判の働きも必要であり重要なのです。弱い者の権利も守られなければならない。下着を取られたものが上着をも取られないようするルールも必要なのです。

 福音は、神による支配の知らせです。神の国は近づいた、なのです、神の国がこの地上で完成した、とは言われていない。いまだ、なのです。その完成は言うまでもなく終末の時、再臨の時なのです。いままだ近づいた徴が与えられているときなのです。そして福音に聞いた者は、その福音に活かされながら、現世をAの世界を生きていく責任と自由があるのです。福音に聞いて、現世を否定するとか、Aを全否定するというような生き方は、福音的な生き方ではないのです。この二重性を生きることがキリスト者の倫理、キリスト者の生き方の根本にあるのです。山上の説教は、そのような生き方へとわたしたちを招いていく、そういう言葉なのです。