-->

マタイによる福音書連続講解説教

2023.8.20.聖霊降臨節第13主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書5章43-48節『 愛敵について 』

菅原 力牧師

 礼拝において主の山上の説教に聞き続けてきました。今朝は5章の終わりの聖書箇所なのですが、ここで17節から始まった旧約の律法の掟に対する主の言葉、Aと命じられている、しかしわたしはBという、という形式で語られてきたものの締めくくりを迎えるのです。主はこの形式で六つのことを語られました。そしてその最後が今日ご一緒に聞こうとしている「愛敵の教え」なのです。

 「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」キリスト教の文化圏だけでなく、そうでない人々の間でも、このキリストの愛敵の言葉は読み継がれ、さまざまな影響を与えてきた聖書の言葉です。

 『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられてきたとあるのですが、旧約聖書の律法には、これと同じ律法があるわけではありません。レビ記19章に「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉があり、ここから隣人を愛し、と言われているのは、よくわかります。しかし敵を憎め、という掟は旧約聖書にはないのです。では主イエスは律法にはない言葉をここで語られたのか。それは、ユダヤの律法で『隣人を愛せよ』という時、隣人とは、身内、ユダヤ人、同じ神を信じる者、ということであり、隣人を愛するということが、隣人以外という垣根をつくることになっていったのです。人間は相当に厄介なものです。隣人を愛そうとすることで、「敵」を作ることになっていったからです。これはわたしたちも胸に手を当てて考えるとよくわかることです。自分の仲間、自分と同じ思いを分かち合うもの、そうした自称隣人の結束が固くなればなるほど、そうでない者との関係は内と外になっていくのです。隣人を愛せよとは、隣人のみを愛せよ、に容易に変化し、やがて敵をつくり、さらに敵を憎み始めるのです。主イエスはそうした現実を、ユダヤ社会の現実を知っておられたし、ユダヤ社会のルールが『隣人を愛し、敵を憎め』になっていたことを熟知して、あえてこう語ったのです。

 「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

そもそも隣人を愛する、ということが困難であり、たくさんの壁があるのです。しかしその隣人を愛するということが「敵」を作っていくことにもなる、という厄介さをわたしたちは誰でも抱えているのです。

 ところが主イエスは、敵を愛せよ、というのです。迫害する者のために祈りなさい、といわれるのです。これは驚くべき言葉です。これはほとんど無制限の人間愛、といっているに等しいのです。広大無辺な言葉です。

 しかし、主イエスがさらに語られた言葉はもっと驚かされる。「あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方である。」この主イエスの言葉、何の抵抗もなく、読まれた方もいるかもしれません。しかしこれは、驚くべき言葉です。

 神がわるい人にも、良い人にも同じように太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも同じように雨を降らせる、というのであれば、神は悪人善人関係なく、分け隔てなさらない、ということです。

 神は善人をよしとされ、悪人の悪をよしとされない方、神は正義の味方であって、悪人も善人も同じように扱う、などということはありえない、とわたしたちは考えているのではないか。それなのに、ここでは、神は悪人も善人もひとしく太陽を昇らせ、雨を降らせる方なのだと主は言われる。それは誤解を恐れず言えば神の無条件で、無差別の人間に対する態度だと言わざるを得ない。それはすなわち現実的には神の無為とならざるを得ない、と思う人もいるでしょう。

 この45節を巡っては、44節の愛敵の言葉以上に議論の歴史があります。いまここでわたしたちがこの45節の言葉から受け取るのは、主イエスが神をどう受けとめておられたのか、主イエスにおいて神はどのような神であるのか、ということです。キリストがここで語られるのは、神は、わたしたち人間を無条件に、無差別に受け入れ、愛される方だというのです。悪人だから受け入れない、というのではなく、悪いものだから愛さないというのではない。神は悪人にも善人にも等しく太陽を昇らせ、ひとしく雨を降らせる方なのだ、キリストはそう言われるのです。そこに神の強烈な意思を見ておられるのです。

 45節を読む時、自分を悪人との方に入れて読んでいるか、善人の方に入れて読んでいるか、どうですか。多くの人が、自分をあいまいに見ていて、いろいろ悪いところもあるけれど、善人の方に自分をカウントして読んでいるのかもしれません。しかし、わたしたちは神の前に悪人です。これははっきりしています。人の前では、そこそこよい人だとか、まあまあの善人、とか思われているとしても、神の前では悪人です。罪人です。もし神が45節で主が語られるような方でなければ、いいかえれば、神が、善人を味方のものとみなし、悪人を敵とみなして、善人には愛を注ぎ、悪人は憎む方であれば、わたしは神に憎まれ続ける存在です。

 神が悪人にも善人にも太陽を昇らせる、という方でなかったなら、わたしは神に憎まれたままで、滅ぼされてしまう存在なのです。

 この45節で語られている神の愛、恵みに、わたしたち自身が触れていかなければなりません。この神に本当に出会っていくことがどうしても必要です。正しい者にも正しくないものにも雨を降らせてくださる神の恵みの真実にわたしが出会うこと抜きに、主イエス・キリストのみ言葉は聞くことができない。そしてその恵みのうちに、ありがとうございます、と感謝し喜び、そこから歩みだしていこうとするところ、そこで聖書の言葉はわたしたちの生きる力、励まし、招き、として生きて働くのです。

 山上の説教の同一の形式のくり返し、Aと命じられてきた、しかしわたしは言うBだと。この繰り返しが六回も続くということはどういうことなのか、これを思わないわけにはいかない。繰り返されているということ自体、ここに大事なことがあることの証左です。この繰り返しを読みながら、次第に気づかされていくことはいくつかあります。その一つは、AとBが語られているのですが、その中心にはCがある。Cは前提となっているともいえるのですが、もっと言えば、Cはこの福音書全体のメッセージ、この福音書が手渡そうとしている福音そのものです。だからCはこの聖書箇所を読み、福音書全体を読みという循環を繰り返すことで、鮮明になってくるのです。それはイエス・キリストの愛、恵み、信実、贖いです。

 この繰り返しの中で、わたしたちをBはどうしたら可能かとか、自分にはどれだけBは実行できるのだろうか、という関心から、Cに活かされている自分に気づかされていく、そこへと招かれている自分、恵みの中にある自分という具合に関心が移動していくのです。

 かつて日本の教会ではこの山上の説教のことを「山上の垂訓」と呼んでいました。それは生きていく上での教訓、生きることの倫理的手引きとして受けとられてきたということのしるしでした。つまりここで語られているのは、わたしがどう行動し、どう倫理的に生きるかの教えだと、受けとめられてきたのです。しかしここで主が語られているのは、倫理的な手引きではないのです。まして教訓でもない。

 ここにあるのは、神の恵みの中にあるわたし、キリストの信実の中に活かされている自分、それを受けとること、そのことへの招きなのです。だからこれは山上の垂訓ではなく、山上の説教なのです。

 確かにここには、倫理的なことが語られている。倫理的な要求が連続しているようにも見える。

 しかし、ここでキリストが語られているのは、そういう倫理的な事柄の前で、破れている自分を知ること、目には目を、歯には歯を、と言われても、そもそもそれすら、まとも生きられない。小さなことでも、赦せなくて、相手を恨むことにおいて、目には目を超えている自分がいる。ましてや右を頬を打たれたから左の頬を向けるなんて、自分の中で生きられていない。隣人だってちゃんと愛せていない自分、その自分が敵を愛するなんて、倫理的には破産している。そういう自分。その自分を負ってくださっている方がここで語っているのです。

 敵を愛せるかどうか、どれだけきちんと敵を愛せるか、それがここで追及されているのではない。要となることは、AとBのはざまの中で、AとBの間で座礁してしまって、身動きのとれななくなった船のような自分が、Cによって活かされている自分を受けとることです。キリストの十字架の恵みによって活かされている、その自分に気づかされ、その恵みの中で、水位が上がって船が動き出し、敵を愛するということに向かって、一歩でも二歩でも歩き出していくことです。ほんとに一歩かもしれない。しかもその一歩は、後退の多い、なかなか前に進んでいかない一歩かもしれない。それでもいいのです。キリストによって活かされていく、それこそが眼目なのです。

 実際、わたしたちの愛敵の歩みは、しばしば惨憺たるものです。しかしそれを列挙することがいま必要なことではない。その惨憺たるわたしがキリストの十字架の恵みによって活かされている、そのことを感謝と喜びと信仰をもって受け取り、キリストの信実に応答し、愛するという方向に向かって歩みだしていくことなのです。