マタイによる福音書連続講解説教
2023.8.27.聖霊降臨節第14主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書6章1-4節『 施しについて 』
菅原 力牧師
今日から皆さんとご一緒に読む6章は形の上からも内容という点でもその中心、要になる部分で、山上の説教はここから新しい段階に入っていきます。そこで6章に入る前に5章を少し振り返っておきます。
5章のはじめに八つの幸いが語られていました。祝福の言葉といってもいい。山上の説教は幸いと祝福の言葉で始まっている。主イエスはここで、福音に聞き、福音に生きる者の幸い、祝福を語られたのです。そしてその八つの幸いの最初と最後には、「天の国はその人たちのものである」という約束の言葉、祝福の言葉を語っておられる。天の国とは神の国のことであり、終末の時に実現する神の救いの完成、神の全き救いのことです。その救いが福音に聞く者に約束されているのだ、福音に聞いて生きるものへの祝福の言葉が山上の説教のはじめで語られているのです。そのことをわたしたちはしっかり胸に刻んでこの山上の説教を読み進んでいくことが大事なのです。
イエス・キリストの福音の恵みを受ける、それがわたしたちキリストを信じる信仰者の生きていくスタート地点です。主はさまざまなバリエーションのある語りかけの中でも、そのことを中心に据えて語っていかれた。
その5章に続いて、6章で新しい展開が始まるのです。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」協会共同訳もこの文章全く同じなのですが、ここで「善行」と訳されている言葉は元の言葉では「義」という言葉です。この義という言葉は聖書においてとても大事な言葉なのですが、語られているのは、自分の義、自分の正しさ、自分の正義を人々の前で見せびらかすな、ということです。義ということはここで突然出てきたのではなく、5章ですでに出てきているのです。20節で「あなた方の義が律法学者ファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることはできない」と語られ、義が語られ、義が問題になっている。つまり福音を受けて生きる者の「義」が山上の説教では問題になっているということです。5章では義の内容が語られ、6章ではその義はどう生きられるべきか、ということが語られていくのです。6章に出てくる、「施し」、「祈り」、「断食」、これらは当時のユダヤ人にとっての「義」の生活、信仰の生活そのものでした。
義、正しいこと、それをするときには見せびらかすな、ということです。施しをするのなら、「偽善者たちが人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」自分の前でラッパを吹き鳴らす、というのは比喩的な表現でしょうが、わたしは今から、施しをしますよ、寄付をしたり、貧しい人のためにお金を差し出しますよ、といって人々の目につくように、関心を引くような行動をとることです。多くの人は同感だと思います。自分の善行を見せびらかすなんて、いやらしい、下品だ、と思う人も少なくないでしょう。しかし、キリストはここでごく常識的な、一般的な話をしておられるのでしょうか。
3節「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」これは比喩的な表現ともいえますが、そうでないのかもしれません。主イエスは施しをするとき、人々の目はもちろん、自分自身にも隠せ、という意味でこれを語られたのではないでしょうか。自分自身にも隠せとは、自分の自尊心を満足させるためとか、自己満足、自惚れのために施しをするな、といっておられるのです。
キリストはなぜ、こんな極端な表現をされたのか。
たしかに人前で、見せびらかすような、自己宣伝するような善行や施しは、ためらわれる。しかし一方で、全く評価されないのは嫌だと思っているのではないでしょうか。例えば、自分のしたよいことが、自分からは言わないけれど、それを知った人が、あの人は人目につかない形でこんなにいいことをしている、と言われたら、うれしい。くすぐられるものがある。満たされる、のではないか。つまりこういうことです。わたしたちは、善い行いをしたらそれなりの報いが欲しいと思っている。だが一方で、報い、報酬を期待してよいことをするのは、不純だ、下品だとも思っている。両方持っている。しかしキリストは、よいことをして、天の父に報いをいただくことを不純だとも下品だとも思っていない。あなたの義を十分に生きて、神からの報いをいただいたらいい、そう言っておられる。
ではキリストがここで問題にしておられることは何なのか。「だから、あなたは施しをするときには偽善者たちが人からほめられようと」ラッパを吹き鳴らしてはならない、ということです。偽善者という言葉は、元の言葉は役者、俳優という言葉です。役者というのは、観客にみられるもの、観客の前でさまざまな役を演じて見せるのです。そこでは観客がどう見るか、どう評価するか、ということが大事なことなのです。偽善者というのは、自分が人からどう見られるか、ということばかりに気にしている人のことです。偽善とは人の視線の中の自分ばかり気になって自分を演じてしまう人のことです。キリストがここで問題にしているのは、施しをするときも、よい業をしようとするときも、さらに言えば、自分が生きることそのものが人の視線ばかりを気にすること、偽善者になってしまうことなのです。
よいことをして、それを見せびらかすようにして、自己宣伝するのは、いやらしいし、下品だ、と思う気持ちと、でもほんとのところほめられたい、と思う気持ちと二つの気持ちがわたしたちの中にあると言いました。しかし実際には、それは両方とも、人の視線を気にしているという点で同じことなのではないか。人からどう思われるか、ということが意識無意識に働いて、こんなふうに生きたら人からいやらしいと、下品だと思われるのではないかということと、人からほめられたいということは人から視線、という点で、一つの事なのです。
キリストは今日の聖書箇所で、見せびらかすようにして、自分の義を生きるのはやめなさい、と言われた。偽善者たちの人からの評価を気にして、ラッパを吹き鳴らすようなこともやめなさい、と言われた。それなら、自分の義を見せびらかすのでもなく、偽善者のような人からの視線ばかり気になる生き方ではない歩みはどうしたら開かれていくのでしょうか。それは人の視線を気にしないような心理的な努力とか、精神論の話ではない。
神と自分との生活を確かなものにする、ということです。「隠れたことを見ておられる父が」と4節にありますが、わたしという人間の隠れたことを見ておられる神との生活を生きるということです。わたしたちは人からの視線とか、評価とか、意見に取り囲まれています。それはよい評価であったり、悪い評価であったりするわけですが、しかし、それは最終的な評価ではない。
神が隠れたことを見ておられるということ、わたしという人間のわたしも隠しておきたいこと、人には言えない罪、失敗、数々の過ち、そのすべてをご存知の方、わたしの知らないわたしを知っておられる方、わたしのよいところ、悪いところ、神はすべて知っていてくださる。神はただわたしたちすべて見ておられるというだけでない。5章でわたしたちが聞いた「心の貧しい人々は幸いだ」という主の言葉、心の奥底で絶望し、行き詰まっていて、神に対して誇るようなものを何一つ持っていないもの、そのものたちは幸いだ、天の国はその人たちのものである、といってくださる方、それが神であり、キリストなのです。
わたしたちはこの神の前で、神を信じて仰ぎ見て、生きるのです。それは人間の評価が何であれ、この神の前で、生きるのです。確かにわたしたちが生きると言えば、それは人の前で、人々の前で、社会の中で生きることに他ならない。しかしわたしたちはこの神の前で生きる、その神との生活を生きて、人との生活、人々との生活を生きるのです。
そのためには、イエス・キリストの福音に聞き続けることがなくてならない。隠れたことを見ておられる神、とわたしと出会わなくてはならない。神がどのような方なのか、イエス・キリストの福音においてはっきり知ることなくしては、神の前で生きるということは具体的な生活にはならない。ぼんやりとした、ただ神をなんとなく思う歩みではなく、神の前で生きる生活。イエス・キリストと共に生きる生活。イエス・キリストの福音を受ける、それが5章で語られていることだと申し上げました。そしてそこからスタートするのだ、と。キリストの福音によって示される神の恵みに、出会い続け、その恵みの中で神の前で生きる、神の前で生きるという自覚の中で歩んでいくのです。そして神の前で、今自分が神の御心として受けとめている、今自分が判断している義を行うのです。御心に聞きつつ義を生きる。そこでわたしたちは、人の評価、人の視線から、自由にさせられていく道を歩み始める。そして与えられる神からの報いを信じて、歩んでいきたいと思うのです。