マタイによる福音書連続講解説教
2024.10.27.聖霊降臨節第24主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書15章1-20節『 人を汚すもの 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所はお読みになってむずかしい、と思った方も少なくないでしょう。むずかしい、という意味はいろいろありますが、今日の聖書箇所はその背景となっているユダヤ教のあれこれがわからないから、よくわからない、わかりにくい、という箇所だと言えましょう。実際この箇所はユダヤ教の律法や、それにまつわるいろいろなことが背後にある箇所で、それらを整理しながら、主イエスの語っておられることを聞き分けて、聞き取っていきたいと思います。
1節「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。』」
ユダヤ人、ユダヤ教徒は信仰と生活は基本的に旧約聖書の教え、言葉に依拠して、それに沿った生活を実践をしていく、ということを大切にしていました。それはわたしたちの想像を遥かに超えて徹底しており、生活の細部まで、この時にはどうする、こうする、という細かい規定を定めようとしました。そのために旧約聖書を実際の生活に適用するために、細かく解釈したり、演繹していく必要もあります。そうしてできた解釈は、解釈の枠を超えて、自分たちでつくり出していくルールを持を生み出し、それらを時代とともに積み重ねていきました。そうしてできていったものが、「ミシュナ」と呼ばれるもので、ユダヤ人はこれを口伝の伝承として大事にしてきました。それが今日の聖書で言われている「昔の人の言い伝え」です。だからそれはわたしたちが普通に言う、先祖の言い伝えとか、おじいさんから言い伝え、というようなものとは全く違うのです。ユダヤ人からすれば、聖書を源泉とする言い伝えなのでした。
ファリサイ派とか、律法学者という人たちは、こうした「昔の人の言い伝え」を厳密厳格に守っている代表格の人たちでした。この人たちはイエスの為すこと語ることに、非難と怒りのまなざしを注いでいました。
その一つの事として弟子たちが食事の前に手を洗わない、ということをファリサイ派は取り上げたのです。これは誤解のないように言えば、今日いう衛生上の事柄としての手洗いではありません。そのことではなく、宗教的な清めとしての手洗いのことです。マルコによる福音書の平行箇所には、清めの規定がさらに詳しく書かれています。手を洗うというのは、その膨大な清めの行為の一つなのです。清めという以上、自分自身の身を清めることはもちろん、食べるものも穢れていると定められたもの避け、清いものを食べる、広がりのあることでした。
ファリサイ派の人たちは主イエスの弟子たちがその清めの行為をしていないと言って、非難してきた。わざわざエルサレムからやってきて、この言葉を投げかけてきたのですから、それはたんなる注意というようなものではない。イエスに対して、きわめて攻撃的であると同時に、殺意にまでエスカレートするようなものであったと言っていいでしょう。しかしそれに対する主イエスの応答はファリサイ派からすれば思わぬものでありました。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」というのですから。
主イエスがここで言われていることを少し噛み砕いて言うとこうなります。「あなた方は「昔の人の言い伝え」という自分たち人間が作った律法の解釈やルールで、肝心要の神の言葉、神の掟を破っているのではないか。」神の言葉を守るつもりでどんどん自分たちの言葉を積み重ねていって、肝心の神の言葉を結果的に破ることになっている、というのです。
主イエスが4節から6節で語っている例話は、父と母を敬え、という十戒のうちの第五戒、それをあなたに差し上げるべきものは神への供え物にすると言って、父への態度をないがしろにする。神への供え物にすると言えば、すべてに優先するというのは、いわば「昔の人の言い伝え」。それでもって十戒の大事な戒めを反故にする、これは典型的な本末転倒だ、と主は言っておられるのです。清めの行為としての手を洗う、ということは、本来、祭司とか、神殿に仕える者たちの規定だったようです。それをどんどん民衆のところへ降ろしてきて、みんなに守らせようとした。その発端は善意だったかもしれないが、気がつくとそれはとても煩瑣な宗教的なしきたりになっていった。そしてそのしきたりに忙しく、神との豊かな交わり、関係というものが疎かになるとすれば、本末転倒が起こっている、という話なのです。
そのことを主イエスは預言者イザヤの言葉を引用して語っているのです。
人間の戒めを教えとして教え、空しくわたしをあがめている。出発点は聖書の言葉を聞いて、それを自分たちの日常生活の規範としてルール化して、それに従って生きる、ということだった。しかし、自分たちの理解したことや言い伝えを重ねて、いつのまにか、神の教えから遠く離れた人間の教えになってしまった、というのです。そして自分たちの言い伝えが最優先されている。
食事の前の清めの行為も、さまざまに広がり、これは汚れているこれは口にしてはいけない、という煩瑣な規定が生まれていきました。主はそれに対して、群衆を呼び寄せ、人々に向かってこう語ったのです。「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。」これは主イエスの皮肉も入った言葉ではないかと思うのです。清めということで、これは食べてはいけない、あれは食べてはいけない、という食物規定があるが、人間を本当に汚すのは、人間の口から出る言葉、こうして昔の人の言い伝えと言って人間を縛るもの、それこそ人を汚すのだ、と言われているのです。口から入るものではなく、口から出るものが、と主イエスが言っておられる言葉に注目してほしいのです。この同じマタイ福音書の12章で主は「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうしてよいことが言えようか。人の口からは、心に溢れていることが出てくるのである。」激しい言葉です。
わたしたちの口から出るものは、わたしたちが罪人である以上、罪の言葉が出て来る。ただ神の赦しを受け、神との関係の中に生きる時に、わたしたちの心に溢れてくることが変えられていく。つまり清めの問題は、どうやって手洗うのか、どう他の食器を洗い、自分の身を清め、どう清めの宗教的所作をするか、ということではなく、今ここで、神と向き合い、神が招き給う関係の中を生きることそのものが、清めの根本的な事柄だ、という思いが、この11節に込められた主イエスのみ心なのです。
以下13節からの主イエスの言葉はこのことを繰り返し語った説明になっているのです。わたしたちは今日の聖書箇所から何を受けとっていくことが大事なのか、思い巡らしたいのです。
わたしたちは、こうしたユダヤ人の「昔の人の言い伝え」ということを聞いても、ピンとこないし、それほど接点があるとも思っていないかもしれません。しかし、信仰というものを考える時、生活の中でルールを作ったり、これを守ろうとする、何らかの規範にするということはあることです。これはしないでおこうとか、これは大事にしていこう、そうやって小さなルール化をしていくということはあるでしょう。それはとても分かりやすいことですし、信仰が生活になるというのは、悪い気はしないし、そしてそれは必ずしも悪いことではなく、ときに大事な意味を持っているかもしれません。しかしそこにはいつも落とし穴があるように思います。落とし穴といういい方がよくなければ、死角が生まれていく、というべきか。信仰というものは、いつもどんな時でも、自分でつくり出していくものではないのです。神から与えられ、神の恵み、神の信実によって生まれていくのです。ということはわたしたちの側から言えば、いつでも、新しく神と出会い続けていく中で、与えられ、示されていくものなのです。イエス・キリストの十字架と復活、その信実に新たに出会っていく、そこで与えられ、生まれていくものなのです。信仰を生活の中でルール化しようとしたり規範化しようとすることは、神との生きた関係を阻害するものにもなりかねないのです。自分の作ったルールの中に安住してしまうのです。神と出会い続けて、その自分の中のルールが絶えず崩され、新たなものにされていく、ということがなければ、その人の信仰は自分が作り上げたものになってしまうのです。
キリスト者に限らず、教会に通われている方は、聖書に聞く、という態度が身についている方が少なくありません。礼拝で、祈祷会で、自分一人で、聖書を読み、聖書に聞く、という態度が身についている、それこそキリスト教信仰の基本的な姿勢と言っていいのでしょう。それは絶えず新たに神の御言葉に聞いて、神の恵みに出会い直し、神の信実を新たに受け取る姿勢なのです。自分で信仰をつくり出していかない、与えられるものによって歩んでいく、示されるものによって形成されていく、それがキリスト教信仰なのです。
しかし聖書に聞く、ということはよくわからないこともあるし、わかったと思っても思いこみ、ということもあったり、不定形、形に定まらないことも多く、ルール化するようなわかりやすさとはかけ離れていることも少なくないのです。しかし神は必ずわたしに恵みを、信実を与えてくださることを信じて、聞き続けていくことこそ肝要なことです。必ず示されるのです。そもそもすでに恵みは与えられている。救いも与えられている。そのことを日々新たに聞き、受けとめ、信じ、従っていく。そこにこそ生きた信仰があり、人間が作り上げていくのではない、神によって活かされていく道があるのです。