教会暦・聖書日課による説教
2024.12.1.アドヴェント第1主日礼拝説教
聖書:ルカによる福音書1章26-38節『 神からの恵みを受ける 』
菅原 力牧師
2024年のアドヴェント最初の主の日を迎えました。
今朝ご一緒に聞きますのは、皆さんのよくご存じの、マリアへの受胎告知の場面です。
ナザレというガリラヤの町に住む一人のおとめのところに天使ガブリエルが遣わされ、主のみ言葉を語った、という出来事です。マリアはどんなに驚いたか、と思います。天使が現われることそれ自体が驚きですが、もっと驚きなのが、自分自身に対して神の言葉が天使を通して語りかけられられたことではなかったかと思うのです。
天使はこう語り始めるのです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。マリアは戸惑ったというのです。しかしここは戸惑いというよりも、狼狽したとか、心を乱された、というような激しいものです。激しく混乱したのです。
すると天使はさらに言葉を続けます。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」ものすごい情報量の天使の言葉です。これほどのこと一気に口頭で言われて、マリアはまさに狼狽、混乱したのではないか、と思います。
天使はここで、敢えて言えば五つのことを語っています。一つは、あなたは神から恵みをいただいたということ。二つ、あなたは男の子を産む。三つはその子をイエスと名付けなさい。四つ。その子は偉大な人、いと高き方の子と言われる。五つ。神は彼にダビデの王座を与える。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配も永遠。これは聞けば聞くほど、読めば読むほど、驚くべき言葉です。
というのは、この天使の言葉において神の救いのご計画が、鮮やかに、明確に示されているからです。しかもそれは人々が予想もしない形で、起こっていく出来事として示されたのです。
いと高き方の子、すなわち神の子が生まれ、イエスと名付けられるその子において、永遠にわたる神の救いの支配の中におかれる、と天使は語るのです。しかも、その神の子は、他ならぬマリアが身ごもり、その子を産むのだ、と天使は語るのです。マリアは狼狽し、混乱した中で、はじめて口を開くのです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」マリアの口から出てきたのは、疑問、問いでした。どうして結婚もしていない、男の人を知らないわたしが身ごもるというようなことがありえましょうか。マリアの問いは当然すぎる問い、しかしそれだけに切実な問いだった。彼女はイエスと名付けることや、その子が神の子であること、永遠の神の支配の中にその子によっておかれること以前に自分が身ごもる、というわけのわからない話に混乱している。
天使はマリアにすぐに答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアの問いかけに対して天使が応えたのは、神の力によってあなたは身ごもる、ということでした。聖霊が降り、神の力があなたを包むのだ。神の力によってあなたは妊娠し、聖霊の働きの中で、あなたは子どもを産むのだ、と天使は言うのです。
さらに天使は、マリアの妊娠と、エリサベトの妊娠が神によるものであることを語り、マリアに神の力の豊かさを語るのです。
しかし、それにしても。マリアにすれば、あまりに唐突。そしてなぜ自分がよりによってこんな大事な神の働きの当事者になるのか、全く分からない、という感じだったのではないでしょうか。とっかかりがないというか、この自分がこれをやるのだ、という引っ掛かりがなさすぎるというか、わけがわからない。
以前もお話ししたことがあると思いますが、マリアのこの時の年齢ですが、10代だったことはほぼ間違いがない。15,6才前後と推定する人が多いのですが、大人、というよりもまだ子ども、ですよ。もちろん今とは違う社会制度の中で、彼女もやがて結婚するという年齢ではあった。しかし、社会的にも宗教的にも何か優れた地位にあったわけでもなく、特別なポジションについているわけでもなく、ただどこにでもいる貧しい一人の女性。
ある人はマリアのことをこう評しました。ルカによる福音書を見ていると、マリアは神に愛され、思慮深く、従順で、信仰深く、神をあがめ、理想的な信仰者なのではないか、と。確かにそうなのかもしれない。しかし、少なくとも、今日皆さんとご一緒に読んだこの聖書箇所において、天使はそのようなことは一言も語っていない。そもそも天使が語り告げる神の言葉において、なぜマリアが選ばれ、なぜマリアがこの大役の当事者となるのか、その理由については一切語られていない。何らか理由を探ろうとするのは、人間の側であって、天使の言葉は、神が彼女を選んだ理由については、いっさい触れられていない。あえて言えばそういう関心を寄せ付けない言葉。仮に理由があるとしても、それはただ神の目的の中に秘められている、としか言いようがないのです。つまり人間の側から、理由はわからないのです。そもそも神に人間が選ばれるとき、その理由はわからない。確かにマリアは今突然のように自分に降りかかった大きな役割に驚いている。しかしそれはマリアに限らず、神の招きを受けることそれ自体が理由のわからないことなのです。なぜわたしという人間が神の招きを受け、召しを受けたのか、わからない。ただその招きの中で、その選びの中で、神の御言葉に聞く恵みを与えられていくのです。
30節で天使は、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と語りかけられています。37節では「神にはできないことは何一つない。」と語りかけられています。
実はこの二つの言葉は、元の言葉では同じ言葉が使われています。マリア、恐れることはない。あなたは神のもとで恵まれている、そして37節では神のもとでは、何事もできないことはないからだ、というのがもともとの意味です。神のもとで恵まれている、神のもとでは何事もできないことはない、と二度繰り返して強調されているのです。神のもととは神の御腕の中で神の御手の中で、恵みの中におかれているということ、なのでしょう。マリアの現実に関わらず、マリアの事情に関わらず、既にマリアは神の御腕の中にあって、恵みの中におかれている、という宣言とも読めるのです。この神の御腕の中にあって、できないことは何一つない、と天使は言うのです。
マリアは神の救いのご計画はもとより、なぜ自分が神に召され、自分が用いられ、自分が当事者になるのか、まったく分からないまま、ただ神が生きて働き、自分を恵みの中においてくださり、神の力によってこれらの出来事が進められていくのだ、ということだけを受けとめた。受けとめていこうとした。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」マリアはそのように応答したのです。信仰です。マリアのこの言葉を聞くと、わたしたちは大抵の場合、自分の中にある理屈や、自分のこだわりや、自分の言い分が、信仰の邪魔をしていることにはっきりわかるのです。何かをぎゅっと握りしめていて、それを振りかざして、神への信仰を邪魔している。マリアのここでの信仰は素晴らしい、という評価も、邪魔です。信仰は、こうなのです。神が働き、神の御計画があり、神の目的があり、神が人を用いる道筋がある。しかしわたしたちにわかることは全部ではない。限られたことです。しかもなぜわたしが呼ばれ、わたしが用いられるのかは、まったく分からない。しかし、わたしを救うことを、わたしを真実の支配の中におき、まことの恵みの中においてくださる神の御心を信じて、み言葉に向かって進み出る、これがここで示されている信仰です。
アドヴェントのとき、わたしたちは、神からの呼びかけに聞き、神がわたしのためにわたしたちのために差し出してくださっている恵みをただ受けて、神が共にいてくださることを知らされ、神に聞き従っていく、神に用いられていくことを心から望む、そのような信仰に生きたいと思います。神への信仰を邪魔するわたしたちの中の何かを、神のもとにおいて、神の御腕の中で、手離していかせていただきたいと思います。