ルカによる福音書連続講解説教
2026.5.31.聖霊降臨節第2主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書1章57-80節『 ヨハネの誕生 』
菅原 力牧師
ルカは今日の聖書箇所において、ヨハネの誕生とそれにまつわる出来事、そしてザカリアの預言、讃歌を書き記しています。
さて、エリサベトは月が満ちて、男の子を産みました。「近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」彼女の周りの人々は、彼女が高齢であるにもかかわらず子どもを授かったことで、神の恵みを喜び合ったのです。
その人々が、誕生八日目にやってきて、幼子に割礼をほどこす。そしてそれ続けて、命名、名付けの時になるのですが、エリサベトの周囲の人々は父の名を取ってザカリアとするのがよいと思っていると、エリサベトはそれに対して、「いいえ、ヨハネとしなければなりません」とはっきりと言ったのです。人々は驚きました。親族にはそのような名前の人は一人もいないからです。そこで人々は父親であるザカリアに「この子になんと名をつけたいか」と手ぶりで尋ねたのです。ザカリアは、口だけでなく、耳も聞こえない状態になっていたのです。するとザカリアは書き板を持ってこさせ、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は、驚きよりも不思議に思った。エリサベトも、ザカリアも揃って「ヨハネ」と命名する、当時の習慣から言えば、まったく予想もつかない名前なのですから。人々が不思議に思っていると、ザカリアの口が開き、舌がほどけると彼は神をほめたたえたのでした。夫婦の周囲の人々は驚き、不思議から、さらに恐れをいだくようになるのです。そしてこのことすべてが、ユダヤの山里中で話題となり、聞いた人々は皆これを心に留め、「この子はいったいどんな人になるのだろう」と言ったのです。
これがルカの書き記しているヨハネ誕生の物語です。
この物語においてルカが伝えようとしているのは、この出来事と同時に、この出来事の背後にあることです。すなわちこの出来事の背後にある力、働き、そのことが伝えたいことの核心にあるのです。
近所の人たち親類縁者の人たちは最初のうち、ただ喜んでいました。今でいう高齢出産だけれど、本当によかったね、無事生まれてよかったね、と喜んでいた。それが命名の際に、夫婦が共に誰も知らない名前を付けると言い出して、不思議がった。命名と同時に、口のきけなかったザカリアの口が開き、ザカリアは口がきけなかった文句ではなく、逆に神をほめたたえた。この一連の出来事の中で、最初はただ喜んでいた人たちが、子どもの名付けの際に不思議に思うようになり、ザカリアの口が神を讃美するに至って、恐れを感じたというのです。
何か大きな力が働いている、ということを感じ始めている。よくはわからないけれど、人が織りなす偶然の力ではなく、ここには神の働きがある、ということを感じ始めた人たちの反応があるのです。
そもそもこの夫婦に子が与えられるということ自体、神の御わざです。しかしザカリア自身、その神の御わざを心から受け入れ信じることができなかった。そして、子が生まれ、命名の際には、夫婦はともに天使が命じた名前「ヨハネ」を名付けた。それは何を意味しているかと言えば、この夫婦が子どもの誕生を神の業と受けとめていった、ということに他ならない。だから天使が命じた、つまり神に命じられた名前を付けたのです。名付け親は神なのです。するとたちまち「ザカリアは口が開き」、は正確に訳すと「ザカリアの口が開かれた」であって、開いたの偶然ではなく、神が開かれた、ということなのです。
人々がこれらのことを見聞きして、恐れた、というのは、必然的なことなのです。神がこの出来事の主(あるじ)であり、まことの主語なのだということに気づき始めた人々は恐ろしくなったのです。それは畏怖と言っていいことでしょう。
ルカはこの物語において、ザカリアやエリサベトはもちろん、この出来事に遭遇した人々の対応の変化をも書き記しています。なぜなら、それが人間が生きて働く神を受けとめていくプロセスだからでしょう。
神がいるとか、神が働いているということを、わたしたちは頭でとらえています。観念でとらえています。しかしここに登場する人々は、皆次第に神の働きの前で変化していくのです。そして66節ではこの出来事を見聞きした人々が皆これらを心に留める者となり、「この子は一体、どんな人になるのだろうか」と言ったのです。それはどんな立派な人になるのだろう、という意味の言葉ではなく、この子において働く神の力を感じ始めた者たちが、この子において神はどのように働かれるのだろう、と思い巡らしたということです。ルカは「主の御手がこの子と共にあった」とヨハネ誕生の物語を締めくくっています。
そして父ザカリアは聖霊に満たされ、68節から79節までの預言であると同時に、主をほめたたえる讃歌をここで詠うのです。
この讃歌は68節から75節までと、76節から79節までの二つの部分によって構成されています。前半部分で「主はその民を訪れて、これを贖い、我らのために救いの角を、僕ダビデの家に起こされた。」とザカリアは詠います。神はその民を訪れ贖われた、というのです。贖うというのは、もともと身代金を払って奴隷を買い取り解放することです。神がわたしたちのもとを訪れたのは、敵の手にある我々を贖うため、奴隷だったわたしたちを解き放つためだ、とザカリアは詠うのです。我らのために救いの角をダビデの家に起こされた、救いの角というのはメシア・救い主のことです。救い主をダビデの家に起こされた。そしてこの救い主によって我らを敵の手から解き放ってくださった。敵というのは、ここでは具体的には語られていないのですが、神に敵対するもののことです。神からわたしたち引き離そうとするもの、神なしで神抜きで生きさせようとする力のこと、つまり罪の力です。この罪からわたしたちを贖うために、救い主をダビデの家におこし、わたしたちのもとにやってきてくださった。
「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手から救の救い。」この救いは古(いにしえ)からの約束であり、神はこの約束を救い主によって実現してくださる。「こうして我らは敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。」救われてそれで終わりなのではなく、主に仕える者となるのです。
「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。」この幼子とはヨハネのことです。ヨハネはいと高き方、イエス・キリストの預言者と呼ばれる。まことヨハネこそが、キリストを預言する預言者であり、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」預言者なのです。
「これはわれらの神の憐れみの心による。この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」神が御子であるイエス、救い主をこの世界に与え、我らを敵の手から贖ってくださるのは、神の憐れみ以外の何ものでもない。この憐れみによって高い所から、天からの救いの光である曙の光がわたしたちを訪れる。わたしたちを救う力は、憐れみの神のもとから来る。そして、罪と死の縄目の中にあるわたしたちを贖い、解き放って、我らの足を、平和の道にみちびく。平和の道とは、イエス・キリストの道のことで、この道を歩むことで、わたしたちは神との和解の道、贖いの道へと招かれる。そして贖われてわたしたちはキリストに従い、キリストに仕えていく道を歩む者とされていくのです。
ザカリアは神に仕える祭司でした。神と人との間に立って、民のために執り成しの祈りをささげる祭司でした。ときには、民のために犠牲の供え物を献げて民の贖いを願う祭司でした。その祭司であるザカリアが天使の言葉を聞く。天使は、子どもが与えられること、そしてその子は主のための道備えをするのだ、と語る。だがザカリアはその神からの言葉を信じて受けとることができなかった。それは無理なのではないか、という自分の中の思いがみ言葉を聞くことの障壁となった。
ザカリアはその不信仰のゆえに口がきけなくなった。けれど、ザカリアはその沈黙の時を経て、次第に変えられていく。一方エリサベトは、自分の身に起こった変化とともに、心を神に向けていく。夫婦の周囲の人々も、はじめから神と深く向き合っていたわけではない。一般的、常識の範囲。しかし一つ一つの出来事の中で、次第に心が、神に向き始めていく。出来事の奥で働いておられる神の御わざに心を向けるようになる。66節の「心に留める」とはたんに大事なことだと思ったというようなことではなく、自分の心を神に向けて、神のなさろうとすることを見ようとすることです。ザカリアの讃歌は、その心に留めることの延長線上にある。心を神に向けて、天使の語った言葉の一つ一つ、何度も何度も受けとめて、神が今なさろうとしておられることに耳を傾ける。目を向ける。
「主はその民を訪れて、これを贖い、我らのために救いの角を僕ダビデの家に起こされた。」ザカリアは天使の言葉を通して、神がこの世界に対してなさろうとしておられる救いの業を受けとり始めていくのです。その御業がどのようなものなのか、すでに知っているわけではないけれど、その偉大な御業を感じているのです。そしてその御業の中で、自分たち夫婦に授けられた子どもヨハネは、大切な役割を担っていく。いと高き方の預言者と呼ばれる、事を受けとめていくのです。まさに出来事の奥にある、背後にある神の働きを受けとめ、それを信じる信仰によってザカリア自身力を与えられているのです。
「これはわれらの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から、曙の光が我らを照らし、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」そのような信仰告白へと導かれていったのです。このヨハネの誕生の物語からあなたは何と出会い、何を聞き、力を与えられ、生かされていくのか、ルカは問いかけているのだと思います。