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ルカによる福音書連続講解説教

2026.6.28.聖霊降臨節第6主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書3章1-20節『 洗礼者ヨハネの宣教 』

菅原 力牧師

 新約聖書にある四つの福音書はみな洗礼者ヨハネのことを大切に取り上げています。主イエス以外の人物をこれほど丁寧に紹介しているのは、ヨハネだけ、と言っていいことです。中でもルカによる福音書は主イエスの誕生物語に先だってヨハネの誕生物語を書き記している唯一の福音書で、ヨハネのことをルカ固有の仕方で、わたしたちに物語ろうとしているのが伝わってきます。

 さて、3章の1節から2節の皇帝、総督、領主の人名の表記は、歴史的環境、世界史的状況を語るもので、こうした歴史の只中で、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」のでした。この表現は旧約における預言者への神の働きかけと重なるもので、ヨハネへの神の召命がここには表れています。そしてこの神の言葉を受けて、ヨハネはヨルダン川の地方一帯で宣教を始めるのですが、ルカはこれは預言者イザヤの言葉に書いてあるとおりであると、言うのです。つまりヨハネの宣教活動は預言者の言葉に連なる者、預言者としての働きだ、と語っているのです。

 イザヤの預言は「荒野で叫ぶ者の声がする」とはじまり、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ、谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを見る。」というものでした。これは神の前で、高ぶる者が低くされ、驕る者も低くされ、そしてすべての人は神の救いを見る、と預言したのです。

 高ぶるものが低くされるとは、神の前で一人一人の人間が自分の罪を自覚し、悔い改めて神の前に立つことで、人は皆神の救いを見る、というのです。ヨハネはまさにそのような預言活動、宣教活動を主から与えられた言葉によって始めたのです。

 7節から9節にヨハネの語った宣教の言葉が記されています。「毒蛇の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちをつくり出すことがおできになる。斧はすでに木の根元におかれている。よい実を結ばない木は皆、切り倒され、火に投げ込まれる。」単刀直入、ヨハネの語るところがよく伝わってきます。聞いているのは、ヨハネに洗礼を授けてもらおうと願っている者たちです。つまり神を信じて歩みたいと願っている者たち、その人々に対して、毒蛇の子らよと呼びかけている。差し迫っている神の時、終末の時、審判の時に神の怒りを免れると思っているのか。自分たちの父祖はアブラハムであり、自分たちはユダヤ人だから救われる、などと思ってもみるな。神の前に立つとは、一個人として立つのであって、ユダヤ民族の一人として立つのではない、ヨハネはそう言っている。神の裁きの時は近づいている。悔い改めて、それにふさわしい実を結べ。そうでなければ、よい実を結ばない木は切り倒され、火に投げ込まれる、そうヨハネは語ったのです。

 激烈とでも言うべき言葉。恐ろしいほどにストレートな言葉です。

 悔い改めとは、たんに心の中の事柄ではない、悔悛の情があればいいということでもない。具体的な行為行動を伴う事柄なのだ、と語るのです。

 このヨハネの言葉はまさに預言者イザヤの言葉に重なり合う言葉であり、主の道を備える言葉なのです。主の道とは、救い主が来られる道であり、その道へ人々を導くということです。預言者ヨハネは、一人一人は神の前での自分の罪を自覚し、悔い改めて、それにふさわしい実を結び、救い主を待ち望め、という道備えを語るのです。

 するとこの言葉を聞いて、人々がヨハネに質問しました。

 多くの群衆は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。するとヨハネは「下着を二枚持っているものは、持たないものに分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」と応答するのです。

 このヨハネの言葉は群衆にとって二重の意味で驚きでした。一つは、悔い改めて犠牲の献げもの、祈り、断食等のユダヤ教の伝統的な悔い改めの行いをするのではなく、自分の持てるものを差し出せ、という極めて日常的な実際的な行為であるということ。もう一つはこれが富裕層に向けて語られた言葉なのではなく、群衆という当時の社会の貧しい階層の人たちに向けて語られた言葉であるということでした。続く徴税人の質問も全く同じ。それに対してヨハネは「規定以上の者は取り立てるな」と応答された。当時徴税人がしばしば職権乱用で規定以上のものを取り立てていた。兵士たちも全く同じ質問をする。するとヨハネは「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」と応答する。兵士たちが自分の立場を悪用するな、と応答します。ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結べ、と語りました。そしてそれは宗教的な行為行動態度ではなく、日常の中での貧しいものに対する差し出し、提供であったり、自分自身の節制であったり、きわめて倫理的な行為行動態度を示した。あえて言えば現実的、実際的な態度決定を促すもの。わかりやすく端的。

 他の福音書を読むとわかるように、このヨハネのもとに続々と人々は押し寄せ、ヨハネの言葉を聞き、洗礼を受け、ヨハネは大きな影響力を人々に与えました。それで、ある人々の間ではこのヨハネこそが来るべきメシア・救い主なのではないか、ということが囁かれた。その時、ヨハネは皆に向って、自分はメシア・救い主ではない、ということをはっきりと語った。「わたしはあなた方に水で洗礼を授けているが、わたしよりも力のある方が来られる。わたしは、その方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる。」

 ヨハネは自分を評価する多くの人にかこまれながら、自分を見誤ることがなかった。たくさんの支持者、信奉者に取り囲まれながら、自分を過大評価することがなかった。これは当たり前のようで、実は稀有なことです。まさにヨハネその人が、神の前に一個の罪人として立っていたからに他ならない。自分という一人の罪人が神の前でどのような存在であるのか、腹の底から自覚していた人だったからなのでしょう。毒蛇の子らよ、と人々に対して呼びかけたのは、たんなる威嚇の言葉ではなく、自分自身に対する言葉でもあったのでしょう。ヨハネが授ける洗礼は水による洗礼だというのは、あくまで水で洗う清めの洗礼だということです。一方キリストによる洗礼は聖霊による洗礼だというのは、その人を新たにする洗礼なのだ、ということをヨハネは知らされていた、ということです。

 もちろんヨハネはまだイエス・キリストの福音を聞いていない。十字架と復活も知らない。したがって、主の名による洗礼がどのようなものなのか、十全な形で知らなかった。しかしヨハネの救い主イエス・キリストを仰ぎ見て、遥かに預言しているのです。

 ヨハネの役割は人々が一人の人間として、もう一度改めて神の前に立ち、神の怒りを免れることのできない罪人としての自分を自覚し、罪を悔い改め、清めの洗礼を受け、悔い改めにふさわしい実、神の御前で身を糾し、救い主の御わざを待ち望む、そのことを宣べ伝えていくことだった。

 そのことはつまり、ヨハネの役割は、本人の自覚がどうだったかは別として、旧約の最後の預言者に位置づけられるものだったのです。

 悔い改めにふさわしい実を結ぶということは、それを自分の行為行動態度で現す、という真摯なものです。そしてそれは、律法守って生きる生き方に連なるものであり、人間の行いに重点を置くものでした。

 主イエスも同じように悔い改めを語りました。しかしそれは「悔い改めて、福音を信じなさい。」だったのです。

 主イエスにとって悔い改めは神から目を逸らしていた自分が、神に向き直ることです。迷子になっていた羊が、自分を捜し続けて見出してくださる羊飼いに出会うことそれ自体が悔い改めだ、ということをこのルカ福音書の中で主イエスは語っていかれます。神の前での罪を自覚し、悔い改めて自分の行為行動態度を改めていく。それでは救われない人間のためにイエス・キリストはおいでくださったのです。自分の行動や態度の変化ではどうにもならない人間の罪を贖うためにキリストはおいでくださったのです。

言ってみれば、洗礼者ヨハネは旧約の歴史の終わりに立っているのです。そしてヨハネは新しい扉のとば口に立って、その新しい扉を指差しているのです。

ヨハネ自身、まだ見たことも聞いたこともないキリストの福音。しかし彼はその福音こそが本当に人を救うものだということを予感していた。今日の聖書箇所のヨハネの言葉を読むと、よい実を結ばない木は皆、切り倒され、火に投げ込まれる、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる、という裁きのイメージが繰り返し語られています。それはヨハネ自身がイエス・キリストの十字架ということを知らないことを物語っている。

けれども大事なことは、洗礼者ヨハネが懸命に、やってくる救い主を指し示して、わたしはその人のための道備えに尽くす歩みを全力で行ったということです。イエス・キリストを指差す人生を生きたということです。

彼は神の前での一人一人が罪を自覚し悔い改めることを語った。それは時の権力者であろうが、誰であろうが、同じように語った。そのために彼は捕らえられ、牢獄にいれられたことが今日の聖書箇所の最後に記されています。ヨハネの真実に生きようとした生き方そのものに胸打たれます。

わたしたちの洗礼者ヨハネに対する最も必要な、そして大事な態度は、彼が指さしたイエス・キリストの福音に一人一人に聞くことです。その福音の豊かさ、恵みの大きさ、愛の深さにしっかりと出会うことです。そしてそのキリストの救いを受けて、その贖いの業に応えて生きること、それが洗礼者ヨハネに対する、わたしたちの信仰的な態度なのだろうと思います。