ルカによる福音書連続講解説教
2026.8.9.聖霊降臨節第12主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書5章12-16節『 主イエスによる癒し 』
菅原 力牧師
主イエスの福音宣教の歩みが始まり、主は御言葉を語られるとともに、力ある業もなされ、主イエスに対する人々の思いもさまざま広がっていきました。
「イエスがある町におられたとき、そこに、全身「規定の病」を患っている人がいた。」この記述からすると、主イエスが滞在していた町に全身「規定の病」を患っている人がいた、ということです。「規定の病」という言葉は初めて聞かれた方もいると思いますが、以前の新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳されていた言葉、さらにその前口語訳聖書では「らい病」と訳されていた言葉です。
これは特定の病を指す言葉ではなく、旧約聖書レビ記に規定された病のことで、当時の判断で「汚れている」とされたり、感染性があると判断されて隔離を余儀なくされた病気のことで、この協会共同訳聖書が新しく用いた言葉で、苦心の訳だと思われます。
この人は全身「規定の病」と患っていたというのですから、かなり重い症状だったのでしょう。そのような場合、ここに記されているように町に滞在すること自体が律法違反、ということになります。万一人のいるところを通る場合、衣服を引き裂き、自分で「汚れている、汚れている」と声を出して叫ばなければならない、と定められており、いずれにせよ、宿営の外で一人離れて住まなければならない、と規定されていました。この人は14節からすれば男の人だったのですが、自分の意思であえてこの町に来たということになります。さまざまな困難があるにもかかわらず、この町に来た理由は、イエスに出会いたいということだったのです。
「イエスを見てひれ伏し、『主よ、お望みならば、わたしを清くすることがおできになります。』と願った。」この人は主イエスに出会うとまずひれ伏しています。これはたんなる敬意の態度というのではなく、信仰の態度です。ひれ伏す、というのは相手の存在の前で、自分を限りなく低くするということです。先週の聖書箇所で、主イエスの力ある業を見た後のシモンの態度と、同じ。しかし彼は、まずひれ伏しているのです。そして、「主よ、お望みならば、わたしを清くすることがおできになります」と願うのです。これはわかりにくく聞こえる表現ですが、噛み砕いて言うなら、主よ、あなたにわたしを清くする力があることは知っております。しかしそうであっても、それを望まれるかどうかは、あなたのご判断です、と言っているのです。
自分の願いが切実であればあるほど、人は相手に対して有無を言わさずこうしてくれ、と叫びがちです。治してくれ、癒してくれ、と。しかしこの人はそうではない。主イエスと出会ってまずひれ伏して、そしてあなたのお考え通りになさってください、と言っているのです。
主イエスはこの人を見て、何をどう思ったのでしょうか。
主イエスはこの人に語りかける前に手を差し伸べておられます。そして彼に触れて「わたしは望む。清くなれ」と言われたのでした。
この規定の病に罹っている人は当時の社会においては「汚れた者」という烙印を押された人でした。その人に触れることは、当然触れた人も「汚れた者」になるということでした。
マルコによる福音書の同じ個所を見ると、ここでキリストは「深く憐れんで、手を差し伸べた」となっています。キリストのこの人を思う深い感情を書き記しているのです。ところがルカ福音書にはその言葉はありません。普通に考えてなぜルカはこの言葉を削ったのか。
おそらくルカが捉えていた視点は、相手に対する感情よりも、相手の存在を負うキリストのご意思により深く目を凝らしていた、ということなのでしょう。
当時の社会において、さまざまな治癒者、治療者がいたのでしょう。さまざまな癒しを行う人がいた。しかし主イエスは病の癒しや、悪霊の追い出しをなさったけれど、他のどんな治癒者とも違っていた。それは言うまでもなく主イエスが福音の宣教者であり、救い主である、という根本の違い、なのです。
イエス・キリストはわたしたちを救うためにこの世においでくださった。その救いは、十字架と復活による救いです。それはわたしたちを負う、ということと深く繋がっているものでした。
規定の病を患えば、家族はもとより、地域の人々からも、そもそも住んでいた町全体から隔離され、疎外されていきます。自分のことを「汚れた者」と叫びながら人と行き交うしかない存在、その存在にキリストは手を伸ばして触れる。そしてそれは主イエスが「汚れた者」と人から呼ばれる行為なのです。ここに現れているキリストのご意思は何なのでしょうか。
それは罪人の罪を負って、ご自分が罪人の一人とされて、神の審判を受ける、ご自分が罪をその身に負うてわたしたちに代わって罰を受けていく、その十字架の主イエス・キリストの姿なのです。ルカはそれをキリストのこの地上における御意志と見ている。福音の宣教の歩みを始めて後変わることのないご意思と見ている。
だから、「深く憐れんで」という主イエスの感情はもちろんルカ自身十分感じたでしょうが、それ以上に確かなこととして主イエス・キリストによる人間の根本的な癒しへの意思、それは人間の罪を負い、人間に代わって罪の裁きを受け、人間を罪の縄目から解き放つ、そのことへの意思をルカはこの出来事の中にはっきりと見ていたのでしょう。
「わたしは望む。清くなれ。」という主イエスの言葉は人間を縛り付けているもの、人間を汚すものから解き離れていくことを命ずる主イエスの言葉です。
その主イエスの癒しは、手を差し伸べて触れること、つまりその人の病を何らか身に負うこと、そして言葉を語ることでした。
この業と言葉には、主イエスの意思が、そして神の御意思が働いています。病は去った、という言葉の前で、わたしたちはわたしたちの理解を超えたものに出会っています。出来事の前で立ち尽くしている自分がいるかもしれません。この業と言葉の前で、神の仰ぎたいと思うのです。
「イエスは彼に厳しくお命じになった。『誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げものをし、人々に証明しなさい。』」規定の病に罹った人は、ただ治ればいいというものではなく、祭司に体を見せて、癒されたことが祭司によって確認され、律法に定められた献げものをなし、人々に治癒を証明し、それで今の言い方で社会復帰することになるのです。
主イエスがこの人が祭司に自分の体を見せ、治癒が証明されるまで、誰にも話してはならない、と厳しく命じられた理由は聖書には書いてありません。想像するに、主イエスのことが単に奇跡行為者、治療者、呪術者としてだけ伝わることをよしとされなかった、ということが理由として考えられます。主は福音の宣教者であり、神の霊の力において働かれる神の子でした。
おそらく、この段階で主イエスのことをそのように正確を見ていた人は、弟子となった者も含めて、いなかったでしょう。
しかし主イエスはこの人の中に、信仰の姿を見ておられたのではないか。たとえどんなに不十分であろうとも、信じて生きる者の姿を見ておられたのではないか。だからこそ、たんに奇跡行為者に自分は治してもらった、運がよかった、で終わるのではなく、あの方は一体どなたなのだろう、という根本的な問いを持ちつつ神を仰いで歩んでほしい、という願いをもって、誰にも話してはならない、と言われたのではないか。
福音書を丁寧に読み進むと、主イエスに出会った多くの人々は、主イエスが何者なのか、ただちに分かったわけではないことはわかります。先週読んだシモンの物語においても、シモン自身、主イエスに声をかけられながら、主イエスが何者であるか、わかったわけではないことがよくわかります。自分でわかったつもりになっている人や、いち早く主イエスを敵と決めつける人も出てきます。しかし、いったいあの方はどなたなのだろう、という問いを自分の内にしっかりと持って主イエスと、そして自分自身とコミュニケーション、対話する人たちも出てきます。信仰において主イエスに出会う、ということを受けとめようとする人たちも出てくるのです。
主イエスはこの人が規定の病の治癒を証明し、日常の生活も回復し、社会的に復帰し、新たに歩みだす中で、そこから信仰によって歩みだしてほしいという祈りを持っておられたのではないでしょうか。
「しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聴いたり、病気をい直してもらうために集まってきた。だが、イエスは寂しいところに白沿いて祈っておられた。」
主イエスと一人一人との出会いには、大事な固有なドラマがあります。一方で評判が広まり大勢の人々が集まってくる、ということも起こってきます。人間の渦の中に巻き込まれていくということも起こってきます。その中で主イエスご自身、神への祈りの時と場を無くてならぬものとして守り続けられた。その主イエスの歩みそのものの中に、わたしたちへの大事な、示唆があるのではないか。ただたんに模範というようなことではない。生きるということは、いろんなものに巻き込まれ、時にもみくちゃにされながらも、神と向き合う中で自分が自分であること、神の御手の中にある自分を取り戻していくこと、そのことが本当に大事なことなのだ、ということを主イエスから示されていくのです。