教会暦・聖書日課による説教
2025.10.19.聖霊降臨節第20主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書24章32-51節『 目を覚ましていなさい 』
菅原 力牧師
マタイによる福音書の24章から25章、ここにはずっと主イエスによる終末、再臨の時、に関する教えが続いています。ご自分が十字架にかかっていかれる直前に、これほど一つの事柄について語られる主イエスの姿をわたしたちは真正面からしっかりと受けとめる必要があります。正直、長さに圧倒されるのですが、それほどに語り伝えたい、という主イエスの熱く深い思いがあるということを受けとめて主の言葉の前に立ちたいと思います。
今日与えられた聖書箇所24章の32節から51節にはいちじくの木の話、ノアの箱舟の話、2人の人の話、盗人の話、忠実で賢い僕の話と5つの話が語られています。それらの話を通して、主イエスはご自分の語りたかったことを顕わにしていかれるのです。先週の聖書箇所のメッセージを少し振り返ると、地上でさまざまな混乱、苦しみ、地震、天変地異、神殿の崩壊、戦争、飢饉、さまざまなことがあるが、それらはあくまでも地上の出来事、神が与える天来の出来事ではない。神は神がお定めになる時に、神が思われる仕方で、終末の時をお与えくださる。だからわたしたちは、地上の歩みを貫通する神の救いの御わざ、ご計画、ご支配、それを信じて、惑わされない、慌てない、耐え忍ぶ、その中で人の子を再来を待つ、再臨の約束を仰ぎ見て、今をしっかりと生きる、ということを聞いてきました。
こうした話の根底にあるのは、言うまでもなく、終わりの時がある、ということです。それはあくまでも、神が定める神がなさる終わりの時があるということです。その時を仰ぎ見て、今を生きるということです。それはどうせこの世界は終わるのだから、好きなように生きたらいいと言ってうそぶくことでも、逆に脅しをかけられている、というようなことでもない。
終わりの約束、終わりの救いを信じ仰ぎ見て、今を生きるというキリスト者の生全部に関わる事柄です。
それに続く今日のみ言葉では主イエスは、大きく二つのことを言われています。
一つは、35節のみ言葉「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」ということです。そしてもう一つは42節他に出てくる「目を覚ましていなさい」ということです。
「天地は滅びるが」という滅びるは過ぎ去るという意味もある言葉です。この場合の天地の意味は、被造世界全体を指す言葉でしょう。神によって創造されたこの世界は、滅びる、過ぎ去るというのです。
37節からノアの話を主は短くされるのですが、ノアの洪水物語はわたしたちのよく知るところです。神さまはノアに地が暴虐に満ちたので、わたしは地と共に彼らを滅ぼすと言われた。そしてノアに箱船を創ることを命ずるのです。ノアは箱舟を創る。しかし人々はそれを横目で見て、あきれていたのかもしれない。誰もこの世界が滅ぼされることを真に受けなかった。だから人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていた。人々の気持ちもよくわかるのです。人間は自分が死んでいなくなることは知っている。しかし、この世界の神による滅びということは、まとも見ようとはしない。見て見ぬふり。主がノアの話を持ち出してきたのは、神による滅びの時がある、ということです。
神が定める滅びの時、終わりの時がある、ということです。しかしそれはそれで脅かすためのものではない。すべてのものは過ぎ去ると言って、無常観を煽っているのでもない。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」すべての滅びる天地にあって滅びない言葉、主イエス・キリストの言葉に聞いて、滅びない世界、終末の時の神の救いの世界へと導かれていくよう、語っておられるのです。
主イエスはやがて十字架に架かられる。その時主は「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。主イエスはそこで、人間が神に見棄てられて滅びていくことの恐ろしさを背負われたのです。
人々は主イエスが十字架上で「わが神、わが神」と叫んだとき、その叫びが自分自身にかかわるものだとは思っていなかった。無頓着だった。人間の死が神に見捨てられた死ならば、見捨てられた滅びであるなら、それはどれほどの闇、絶望であるのか、人々はそのことから目を背けている。キリストは罪人の罪を負って死んだのです。罪の罰としての死を死なれた。それはどういうものなのかと言えば、神に棄てられて滅びていく死、ということです。キリストはその滅びを担っていかれた。
そしてキリストがなぜ十字架に架かられたかと言えば、それは人間を滅びから救うためです。滅びから救われ、復活のいのちに生き、キリスト共に生きるためです。そして終わりの日に神の与え給う救いの完成に与るためです。
天地は滅びる、しかし、キリストのいのちのことばは滅びず、わたしたちは神にあるいのちへと導くのです。
ノアの洪水の時には、ノアの家族以外皆滅ぼされた。しかし、終わりの時は違う。再臨の約束の時を信じて今を生きるものに主の約束の道が拓かれるというのです。一人は取られ、一人は残される、というのは終末の審判を物語っているのでしょう。
終末いつ来るのかは誰にもわからない、ただ神のみが御存知のことです。つまりわたしたちの領域のことではない。ただわたしたちは「目を覚まして」今を生きることが大事だ、ということです。
「目を覚まして」今を生きるとはどういうことなのでしょうか。盗人がいつやってくるかわからないからと言ってずっと起きているということではないでしょう。そんなことできない。あるいは主人がいつ帰ってくるかわからないと言って絶えずびくびくしながら生きるということでもないでしょう。
滅びの時、終わりの時はいつやってくるのかわからない。わからなくていい。だが、すべてのものが滅んでも、滅ばないものがあることをしっかり見続けること、聞き続けること、それをこの地上の生においてやめてはいけない、ということなのでしょう。
「目を覚まして」という言葉はわたしたちの中に眠ってしまう精神があることを意識して語られる言葉なのだろうと思います。眠ってしまう精神というのは、主イエスがゲツセマネで祈っている時、弟子たちが眠ってしまうということが、このマタイ福音書でも記されています。もちろん弟子たちは肉体的に眠たかった、ということもあるのでしょうが、それだけではない。キリストが弟子たちの思い描く救い主であるならば、例えば奇跡を起こす主イエスなら、起きて、見つめ続けれど、キリストが苦しみの中で、神に祈り続けるその姿を見たくなかったのではないか。苦しむキリストを見たくない、避けたいという思いが弟子たちを眠らせたともいえるのです。事実弟子たちは十字架のもとには立たず逃げ去っていった。それは眠ってしまう精神があるということです。
ノアの洪水物語で、神は人間の暴虐ぶりを見て滅ぼすと言われたのですが、人間は逆に、神に滅ぼされるような罪を重ねているものだということを見たくないのです。わたしたちは誰でも自分が何の落ち度もない人間だとは思っていない。けれども滅ぼされても仕方がない、滅ぼすべき存在だということは見たくない。キリストが十字架上で「わが神、わが神」と叫ばれたとき、それこそが自分が叫ばなければならない叫びだということは見たくない。
しかしそうやって見たくないものは見ないということが眠ってしまう精神があるということなのです。
終末、終わりの時、再臨の時、ということを思うと、やはり、裁き、審判ということを思わざるを得ないのです。そこで人間のこれまでが裁かれる。わたしという人間も裁かれる。しかし、裁かれるべきわたしのために十字架に架かり、復活されて、わたしたちにいのちを与え、わたしたちを掬ってくださるイエス・キリストがいてくださることをわたしたちは信じることができる。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というキリストの言葉を仰ぎ見ることが許されている。だから、罪人のわたしも目をそらさずに見ることができる。その罪人のために神がなしてくださった救いのわざ、イエス・キリストのわざ、そしてさらに終末においてその救いを完成してくださることをわたしたちは受けとめることができる。だから、罪人のわたしですが、キリストによって背負われ、赦されて、今日を生きる、終末を仰いで今日を生きる、と言えるのです。
そのことをしっかりと受けとめて、今日を生きていきましょう。