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教会暦・聖書日課による説教

2025.12.14.アドヴェント第3主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書1章18-25節『 インマヌエル預言 』

菅原 力牧師

 アドヴェントの第3主日を迎えました。今朝の聖書箇所は教会暦による聖書日課で与えられた箇所で、わたしたちが聞き続けているマタイによる福音書のイエス・キリストの降誕の記事です。示されたみ言葉に聞き、アドヴェントの時、神を礼拝してまいりたいと思います。

 さて今日の聖書箇所は18節「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。」で始まっています。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」この文章は、婚約していたヨセフとマリア、だが二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもったことをマリアは知った、と理解すべきでしょう。ヨセフがそのことを知ったのは、20節以下の、天使の言葉を聞いて後のこと、と受け取るのが自然です。

 つまり、ヨセフは19節の段階ではこの妊娠が聖霊によるものとは思わず、マリアの不貞行為だと思い、当時にユダヤの法に従い、マリアと離縁しようとしたのです。婚約は結婚と法的には等しかったので、正式に離婚の手続きをとる必要があったのです。「マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」という文章は、マリアが離縁されることで、晒しものになること避けるため、ひそかに離縁しようとした、ということです。

 ヨセフがそうしたことを思い巡らしていた時、夢で天使が現われ、主の言葉を伝えたのです。主の天使はこう語る。「ダビデの子ヨセフ、おそれずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」天使はヨセフのことをダビデの子、と呼んでいます。確かに、今日の聖書箇所の前には、系図が記されており、16節には、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあるのです。この系図と今日の聖書箇所を合わせ読んで不思議に思う方は少なくないと思うのです。確かに系図にはダビデ家の血統としてのヨセフが記されている。しかし生まれてくる子はヨセフとマリアの子ではなく、聖霊によって身ごもった子どもであるのなら、この系図そのものにこだわる理由がなくなるのです。にもかかわらず天使はヨセフにダビデの子ヨセフと呼びかけるのです。どうしてなのでしょうか。

 天使の言葉は続きます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」天使はヨセフに二つのことを命じました。一つは、マリアを妻に迎える、ということです。

 そしてもう一つは、生まれてくる子どもに、「イエス」と名付けなさい、ということです。この二つのこと、常識的に考えてわけのわからないこと、とんでもないこと、と言うべきでしょう。マリアのおなかの中の子どもは聖霊によって身ごもった子ども、誰がそんなことを信じるでしょうか。前代未聞とはこのことです。マリアを妻に迎えるとは、マリアのおなかの中にいる子どもを認知することを含めて、夫婦となることです。さらに、名付けは古代社会においてとても大事な父親の仕事でした。それを一方的に、天使から名前まで指定されて命じられる。

まさにわけのわからない、とんでもない話です。

もしこの天使の言葉を受け入れるとすれば、それは真正面からこの出来事の主語は、真の主導者は神である、ということを信じて受け入れる他ない。天使は「恐れず妻マリアを迎えなさい」と言いました。恐れず、とはいろいろな意味があるでしょうが、ここで語られていることは、信じて従って生きること。ただ信じるだけではない、信じて自分の人生の新しい歩みに始めることです。頭だけで信じるのではなく、夫婦となり、子どもを受け入れ、それは現代の感覚から言えば、養子を迎えるということ、そして共に歩んでいく。それは頭だけの信仰ではなく、生活の全部に関わる、自分という存在をその信仰の中に置くとでも言うべきものです。

天使は言葉を続けます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスと言う名をつける理由を天使は語るのです。イエスと言う名前は「彼は救うであろう」という意味の言葉です。それは名前の意味という以上に、生まれてくる方の存在をあらわす言葉と言ってもいい。天使はこのイエスと言う短い言葉の中に、主イエスと言う存在がこの世界においてどんな存在であり、どんな業をなさる方なのか、この名において指し示すのです。

天使の言葉はここで終わるのですが、福音書の著者マタイは、ここに大事なことを書き加えるのです。それは、主イエス・キリストの存在においてわたしたちが受けとることになるもう一つの大事なこと、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルということです。マタイはそのことを旧約のイザヤの預言の言葉を引用して、22節23節の言葉でわたしたちに告げ知らせます。

 イザヤの預言をここで引用しているということは、これが旧約における救い主の預言として忘れてならぬものだからですが、救い主は、インマヌエルの主だということです。インマヌエルという言葉はこれだけでまたゆっくり学び、味わい受けとりたいと思いますが、今わたしたちが聞くのは、インマヌエルとは、23節の後半にあるようにこれは「神はわたしたちと共におられる」という意味である、ということ。そして、この場合、神とはヤハウェのことではなく、イエス・キリストのことなのです。イエス・キリストという神の独り子なる神が、この福音書の最後で語るように、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と語ってくださる、インマヌエルの神なのです。つまりイエス・キリストは、わたしたちと終末のその時まで、ずっと、どんな時も、生きる時も、地上の生を終える時も、死んでからも、共にいてくださる神である、ということ、それがこの福音書を貫通している根本メッセージなのです。もちろん旧約の預言者はイエス・キリストのことを直接には知らない。しかし神が預言者に告げたその預言は、今この時、クリスマスの時に実現した、ということ、マタイはそれを伝えているのです。

天使はヨセフにこの方、イエス・キリストは自分の民を罪から救う救い主なのだ、と語り、マタイは、インマヌエル=イエス・キリストを旧約の言葉を引用して告げ知らせたのです。 22節に「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」という言葉が記されています。

このすべてのこととは、イエス・キリストの降誕という出来事のことですが、それは、神がこれまでの旧約の歴史の中で、預言者において語り続けてこられたことの成就だった、というのです。つまりもう少し別の言い方をすれば、イエス・キリストの降誕ということは、神がこれまでの歴史を貫いて、意思し、御心のうちに願っておられたことの実現に他ならないということです。

人間の罪を救うこと、しかもその救うは、われわれ人間と共に在ること、あり続ける救いなのです。十字架は、人間の罪を担うこと負うことです。それは罪人である人間を見棄てることなく負い続けることです。十字架の死は人間の死の苦しみ、悲しみ、困難を担うということです。共に在り続ける神なのです。クリスマスとは、この十字架の主がこの世界にお生まれになった、ということです。 ここには、神のご意志の発現があるということです。

 それが「主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」、ということなのでしょう。

そうであれば、天使がヨセフをダビデの子ヨセフ、と呼んだ理由もわかってくるのです。イエス・キリストは確かに聖霊によって生まれる神の子です。しかし、同時に、神がこれまで旧約の歴史において示してくださったみこころの発現であり、ダビデの血筋として、ヨセフが父となり、マリアが母となること、それも神がこの歴史の中で生きて働くことのしるしに他ならないのです。

ヨセフは目覚めて起きると、天使の命じたことをそのまま従うのです。マリアを妻として迎えた、そして生まれてきた子に「イエス」と名付けたのです。

それは天使の言葉を信じて、生活の全部においてその言葉に従って生きる、ということでした。天使の言葉を真正面から受け止めて生きることでした。

クリスマスは、確かに神の主導権のもとで起こった神の業です。聖霊によって身ごもったのです。しかし、神はそこでヨセフであれ、マリアであれ、一人の信仰者を丸ごと御用いになられる。信じて生きるものを用いられる。そこでこの世界におけるクリスマスが始まったことをわたしたちは受けとめていきたい。 クリスマスの出来事の核心をしっかりと見つめ、信じて生きるものとさせていただきたい、と願うのです。