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教会暦・聖書日課による説教

2025.12.28.降誕節第第1主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書2章1-12節『 キリストを拝みに 』

菅原 力牧師

 降誕節の第1主日を迎えました。

 さて今日の聖書箇所は、二つの物語から成っている物語で、一つは東方の博士たちが星に導かれて、生まれて間もない、主イエスを拝みに来た、という話です。もう一つは当時のユダヤの王、ヘロデがその知らせを聞いての物語。博士の物語と王の物語が交錯する、それがマタイ福音書の2章なのです。

 ここに登場する東方の博士たち、こんどの協会共同訳ではかつての「博士」にまた訳が戻っていますが、新共同訳聖書は「占星術の学者」たちと訳しています。この言葉の訳は難しいのですが、とても幅の言葉で、東方の神学や、哲学、さらには自然科学、の研究者だったり、魔術師、とも訳されたり、占星術師、巫術(ふじゅつ)師、と訳されたり、相当幅のある言葉です。

東の方、とだけ言われている地域を特定することはできないのですが、おそらくはペルシアとか、アラビアといった地域で、いろいろな学問が発達していて、同時に魔術や呪術に関しても盛んだった地域でありましょう。博士という訳にはそうしたさまざまな学問に学び続けている人への敬意がにじみ出ています。

 この博士たちは、東方でユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見て、エルサレムにやってきたのです。そしてその方はどこでお生まれになったのですか、と尋ねるのです。その尋ねた相手はエルサレムの町の人々であったのか、王宮に行ったのか、この文章からはわからないのですが、いずれにせよ王の耳に入るのです。王は不安をいだいたとあります。恐れたとか、狼狽した、と訳していい言葉です。ヘロデ王はこの時、一種の傀儡政権の王です。ローマ帝国の力のもと、あくまでもローマが認めた政府なのです。いつどんなことで自分が失脚してもおかしくはない。そんな状況の中で、異邦人の、外国人の博士が「ユダヤ人の王」として生まれた方はどこにいるのか、と尋ねてきたのです。

 星に導かれてきたのだから、エルサレムにわざわざよらなくてもよかったのではないか、そう思う人もいるでしょう。しかし博士たちは、ユダヤ人の王の誕生ということで、エルサレムが町全体沸いていると思ったかも知れない。実際にはエルサレムの町では王のみならず、人々も不安をいだいたというのです。ユダヤ人の王などと言って、国の中がヘロデとその新しい王との競合関係になることを恐れたのではないでしょうか。

 ヘロデ王は博士たちが星に導かれて救い主を拝みに来たことをきっかけにして、祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて救い主の居場所を探し出そうとしました。

 この人々はユダヤの宗教的な最高の権威者たち。彼らは王に対して「ユダヤのベツレヘムです。」と救い主が生まれ場所を直ちに伝えるのです。そして旧約聖書の預言者がこう言っている、と聖句を引用して王に伝えるのです。祭司長たちや、律法学者たちは救い主がどこに生まれるのかわかっていた。ヘロデ王は、博士たちを呼び、星の現れた時期を確認しています。場所がわかり、時がわかる。王は言うのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝むから。」それにしても驚くべきは、救い主のことを調べた祭司長たちや律法学者たち。なぜそこまでわかっているのに、腰を上げようとしないのか。絶望的無関心、とある人が呼んでいるのですが、彼ら聖書の専門家が、聖書の言葉の前で、何の応答も示していないのです。そして王の態度も不思議と言えば不思議。王は自分では何一つせず、ただ祭司長たちや律法学者たちに調べさせ、さらには博士たちを使って調べさせて、拝みに行くからと、噓をついています。

 王は祭司長たちと違い、この救い主・メシヤに関心を示します。しかしそれは、抹殺するための関心と言っていいものです。

 このクリスマスの物語で、博士たちと、ヘロデを取り巻く人々という二つのグループが交差していくのです。

 博士たちは、自分たちで調べ、研究をして、それだけでなく、星の導きを頼りに、ユダヤ人の王の誕生を拝みに来るのです。ユダヤ人の王という言葉が額面通りの意味であれば、博士たち外国人、異邦人にとって何の関係もない話です。どこかの国に新しい王が生まれた。それだけのことです。しかしわざわざ遠く旅して拝みに来るということは、このマタイの文脈で言えば、この生まれた子が、神の子であり、救い主であり、インマヌエルの君である、ということを何らか受けとめて話だったのでしょう。でなければ、異邦人がその誕生を聞いて拝みに来る必要はないのです。救い主の誕生、ということを待ち望んでいた人たちが、異邦人の中にもいた、ということです。

 一方でヘロデ・グループの人々、彼らは聖書をよく知る人々であり、預言にも明るい人々でした。だがその言葉を確認して尚、彼らは動こうとはしなかった。

 さらにヘロデ王自身は「ユダヤ人の王」という彼からすれば物騒この上ない存在を聞かされて、不安を募らせていた。しかもこの聖書箇所を読むとヘロデ王の態度は優柔不断で、博士たちにも尾行をつけず、自分から探そうとするわけでもない、それはこのヘロデ王の漠然とした不安を物語っているのかもしれない。

 そもそもヘロデすれば、「ユダヤ人の王」って何ものだ、と気持ちがあったでしょう。ユダヤ人の王はわたしであって、わたしの血筋でもないものが「王」と呼ばれるとは何事か。博士たちも博士たちです。エルサレムの町で「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねること自体、物議を醸しだすことがわかっていない。

 しかしここで少しだけ思い巡らしたいのですが、ヘロデは王として在位していましたが、それは先ほども申し上げたようにローマ帝国の管理下に置かれ、総督の管理のもとでの傀儡政権のようなものでした。ローマ皇帝の指一本で吹けば飛ぶような王位。そこに「ユダヤ人の王」の誕生の噂。大きく揺さぶられたと思います。

 一方のエルサレムの町の人々。この人々も不安に感じたというのですが、それは、今の自分たちの生活、生き方、それが本当に救い主が来て、見つめられ、見通されて、自分の生活を変えていかなければならないことに対する不安。神に対する態度を根本的に改めていかなくてはならないことに対する不安。そういう不安だったのかもしれません。神の子が来ることで自分の生活が根底から揺さぶられる、それは決して間違っているとは言えないことで、エルサレムの人々はそのことを本能的に受けとめていたともいえましょう。

 確かにヘロデは後にその不安を自分の持てる力で払拭しようとした。幼児殺しという残虐な方法で。力のないものは、救い主を無視したり、遠ざけたり、無関心を装う形で。

 博士たちは、星の導きと、王から聞いた聖書の言葉に従って、ついに幼子がいる場所にたどり着くのです。彼らは幼子が母マリアと共におられるのを見て、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。ひれ伏して拝みという言葉は、地べたにひれ伏して、その足に、衣の裾に、あるいは地べたそのものに接吻する行為で、この聖書箇所では繰り返し使われています。拝吻するとも訳されます。博士たちの救い主への信仰が語られている。しかも彼らは驚くべきことに、当時の最も高価な、大事なものを持参して、献げものをしているのです。外国から来て、何かを受けとって帰るのではなく、ただ赤ちゃんを見て、大事な献げものをして、手ぶらで帰っていくのです。

遠き地より旅して、救い主の誕生を心から喜び、献げものをして自分の国へ帰っていく博士たちと、今の自分たちが握りしめているものを些かたりとも手離したくなくて、救い主の誕生を無視したり、遠ざけようとしたり、力で抑え込もうとするヘロデ王とその周辺の人々の話が交差していきます。

あなたはどちらですか、と単純に問われているようにも読めます。同時に、ヘロデグループの不安もわからないわけではない自分に気づかされる。自分の生活が、自分の生き方が変えられていくことに対する本能的な不安です。救い主を受け入れるということは、この人いいよね、と軽くファンのようになることではないからです。自分の生き方がこの方によって変えられていく、従う生き方へと転換していく。

 わたしたちはクリスマスの度毎に、この大事な問いの前に立っていくのではないか。まことの救い主に出会って、この方こそわたしの救い主、この方に付き従い、この方の言葉とわざに耳傾け、この方と共に歩んでいく、それが問われていくのです。この博士たちも東の国に帰れば、呪術的なもの、魔術的なもの、巫術的なものがさまざまに力を誇っていた。その中で、救い主を信じて生きることが問われていったのです。また一方で、ヘロデが象徴する不安の中に生きる者たちにとって、この後イエス・キリストの歩みをまじかに見ることになっていった人々にとって、この方は何者なのだ、ということが鋭く問われていったでしょう。キリストはこの不安の中に生きるもののまことの救い主であることを福音書はこの後語っていくのです。

 イエス・キリストの誕生、それはわたしたちを揺さぶる大きな出来事です。

 わたしは今、この神の出来事とどう向き合おうとしているのか、あらためてこの二つのグループの交差を目にしながら、神の導きの中で、しっかりと受けとめていきたいと思うのです。