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教会暦・聖書日課による説教

2025.12.21.降誕祭主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書2章1-20節『 キリスト降誕 』

菅原 力牧師

 2025年のクリスマス礼拝を迎えました。今朝はルカによる福音書2章の御言葉に聞いて、神を礼拝してまいりたいと思います。

 さて朗読されたルカ福音書2章の1-20節はルカの書き記したキリスト降誕の出来事が物語られている聖書箇所です。この聖書箇所は二つの部分から成っており、1節から7節までのキリストの誕生の記述。そして8節から20節までの羊飼いたちに天使が現われた記述とで成っています。

 最初の1節から7節。ここにはイエス・キリストの生まれた時の歴史的な背景が語られています。ルカ1章の記述と併せるとキリスト降誕の時代背景として、その時イスラエルをはじめ地中海世界を支配していたローマ帝国の皇帝アウグストゥス、それからユダヤ地方全体の総督であったキリニウス、そしてユダヤ人の王ヘロデ、この三者のことが記されています。中でも皆さんも学校の歴史で学んだことと思いますが、この時ローマ帝国・ローマ皇帝の力は強大で、他を圧倒し、地中海世界を独占的に支配していました。そしてローマの平和と呼ばれる、帝国が力で抑え込んで築かれた平和があったのです。ルカはそうした歴史の中でイエス・キリストがお生まれになったことを書き記しています。そしてもう一つ大事なこと、先週のマタイ福音書でも見たように主イエスがダビデの家系であるヨセフを父とし、ダビデ家ゆかりのベツレヘムでお生まれになったことを書き記しています。ところがイエス・キリスト誕生の記述はわずか2節。ヨセフとマリアがベツレヘムにいるうちに「マリアは月が満ちて、初子の男子を生み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まるところがなかったからである。」

 そして8節から舞台は変わります。ベツレヘムの郊外で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに舞台のスポットはあたるのです。野宿していた羊飼いたちに主の天使が現われ、主の言葉を告げ知らせるのです。「恐れるな。わたしは、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」天使の言葉は羊飼いはもとより、それを聞いた誰であれ驚くべき言葉でした。

 すべての民に告げ知らされる大きな喜び。ユダヤの民だけではない、ローマ帝国の支配の中にあるものだけでもない、すべての民に告げ知らされる大きな喜び、福音を告げるのです。今日、ダビデの町にあなた方のために救い主がお生まれになった、というのです。救い主という言葉、それはわたしたちが聞いたヨセフにも語られた天使の言葉でした。クリスマスの出来事の中で繰り返し語られるキーワードというか、核心となる言葉「救い主」。実は当時、ローマ皇帝のアウグストゥスは「救い主」と呼ばれていた。呼ばせていたのかどうかはわからないけれど、皇帝こそがこの地上世界における救い主、と言われて圧倒的な絶対的な力を振るっていた。

 ルカは2章の冒頭でこの世の権力者たちのことを書き記しているのですから、そのことは知らないはずはない。むしろここではそのことのコントラストを示すように、描かれていると言ってもいい。アウグストゥスが「救い主」と呼ばれているこの世界の中にあって、天使が告げ知らせた神の御言葉は「あなた方のために救い主がお生まれになった」、と語り告げるのです。

 しかもそのお生まれになった救い主は、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子だというのです。それがあなたがたへのしるしであるというのです。なんという拍子抜けのしるしなのでしょうか。偉大な救い主、その救い主がよりによって、飼い葉桶に寝ている乳飲み子とは。その乳飲み子には日本的に言えば後光が射しているとか、キリスト教の絵画で言えば光輪が輝いているとかいうしるしの一つもない。飼い葉桶に寝ているということは、真っ暗ですよ。光も射しこまない薄汚い真っ暗闇の中に寝ているということです。それがいったい何のしるしだというのでしょうか。

 すると突然天の大軍が現れ、天使と共に神を讃美したのです。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、

  地には平和、御心に適う人にあれ。」

 この世界に救い主を降誕させ給う神に栄光あれ、地にはこの救い主によって平和が、御心に適う人にあれ。御心に適う人とは、すべての民に与えられる福音なのですから、すべてのものに救い主による平和が、あれということであり、それがまさにローマの平和とコントラストを為しているのです。

 しかし、この讃美を聞いている羊飼いたちは、ローマの平和と、イエス・キリストの齎す平和とはどう違うのか、ここでは何も聞いていません。そもそも、ローマ皇帝が与える救いと、イエス・キリストの救いとは何がどう違うのか、何も聞いていません。ルカはこの福音書の全体で、さらに言えば、ルカ福音書の続編である使徒言行録と併せて、神がイエス・キリストにおいてもたらす救いと平和を語り告げるのです。けれども羊飼いたちはこの時まだ、何も知らない。しかしこの時羊飼いが受けとめていたことがあるのです。それは、天使の言葉を神が自分たちに告げ知らせた言葉だ、と信じて受けとめ、他ならぬ自分がその言葉に応答しようとした、ということです。

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」

 羊飼いたちは、主が天使を通して知らせてくださったこと、その出来事を見ようと言いました。その出来事と訳されている言葉は日本語にはない言葉です。しかしとても大事な言葉。敢えて訳せば「出来事に具体化する言葉」という一つの単語です。つまり天使たちが告げ知らせた言葉は、神の言葉であって、その言葉は必ず出来事になる言葉だと信じて受けとめているのです。この羊飼いは。「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった」その出来事となった言葉を見に行くのです。羊飼いたちは見る前に、救い主にお生まれになったということを信じて受けとめていた、ということです。羊飼いたちがベツレヘムに行ったのは、幼子を見て確認するだけではなかった。その目的がどこにあったのか、聖書はしっかりと書き記しているのです。

 羊飼いたちはマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探しあてた。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。」羊飼いたちは飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた、それで目的を果たした、と考えても不思議ではない。よかったよかった、天使の言ったとおりだった、しかし羊飼いたちは、天使から告げられたことを人々に知らせた、というのです。おそらく今日の聖書箇所で唐突感のある個所になっているかもしれません。ここに出てくる人々って誰なんだ、という感じです。よくわからない。しかし前後の文脈から考えれば、この人たちは天使の語りかけには聞いていない人たちです。幼子を見たのかどうかもわからない。その場に居合わせた人たちなのかどうか、何もわからない。しかしいずれにせよ羊飼いは出会った人たちに、自分たちが天使から告げられたこと、このギリシア語は出来事に具体化する言葉という単語がまたつかわれているのです。神の言葉がこの地上で具体的な出来事となって救い主がお生まれになった、と告げたのです。聞いた者はみな、羊飼いたちの話を不思議に思った、とあります。不思議に思ったということは、内容的には聞いた者はいぶかしく思い疑ったということでしょう。ある意味で普通の感覚でしょう。いったいなぜ飼い葉桶に寝ている小さな子どもが、神の与え給う救い主だと思うのでしょうか。

 しかしわたしたちはこれまで何度も何度もクリスマスの聖書を読んできて、知らされてきている。それはクリスマスの出来事は信ずることなくしては受け取れないことの連鎖だということ。天使から「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と言われたマリア。主の天使に「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。」語りかけられたヨセフ。そして天使から「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった」と告げ知らされた羊飼いたち。この人たちは自分に語りかけられた主の言葉、告げ知らされた主の言葉と一人一人真正面から向き合い、その言葉の中に自分を置こうとしたのです。そしてその言葉を受けとめて歩み始めた。「お言葉どおりこの身になりますように」と言って歩みだしたマリア。マリアを妻に迎えたヨセフ。幼子を探し当て、人々に自分たちの告げられた出来事となった言葉を語った羊飼いたち。そこで大事な鍵になっているのは、今日の聖書箇所の言葉、語彙で言えば「主が知らせてくださったその出来事」「天使から告げられたこと」これは皆先ほどのギリシア語「出来事として具体化する言葉」であり19節のマリアがこれらのことをすべて、というこれらのこともその言葉なのです。

 知らされた、告げられた言葉、言葉を語りの主体である神を仰ぎ、信じて、その言葉を信じて生きる人たちがクリスマスの出来事の中で大胆に用いられていくのです。クリスマスは神のある意味一方的な働きですが、神はそこで信じる者を大胆に用いられる。そして、クリスマスという出来事をわたしたちが受けとめるためには、その人たちと同様、信じて聞いて生きる信仰が求められるということなのです。

 羊飼いたちが天使から告げられたことを人々に知らせた、しかしその人々はその話を不思議に、いぶかしく思った。一方マリアはその出来事となって具体化した言葉を心に留めて思い巡らした、とあります。さらに羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神を崇め、讃美しながら帰っていった、というのです。マリアも、羊飼いも神の言葉の前で、まったく同じ態度というわけではない。それぞれ御言葉に向き合う態度は違ってくる。けれども、神が告げた言葉、神が知らせてくださった言葉を信じて自分の中で受け取ろうとする信仰においては同じなのです。クリスマスは、神の御言葉を信じて、受けとめ、その言葉によって生きようとし、その言葉の中に身を置こうとする者たちの中で、出来事となっていくのです。