教団聖書日課による説教
2025.11.2.聖徒の日礼拝式説教
聖書:ヨハネによる福音書14章1-6節『 父のもとに行く 』
菅原 力牧師
2025年の聖徒の日を迎えました。この日はわたしたちの教会にさまざまな形で連なった者たち、ご家族、さまざまな繋がりを与えられ、地上の生涯を終えて、神の御許に召されていかれた方々を覚えつつ、神を礼拝する日です。神の御言葉に聞き、神の御心を示され、神をほめたたえ礼拝してまいりたいと思います。
朗読された聖書箇所は、教会暦に基づく聖書日課で聖徒の日に読むよう与えられた聖書の箇所です。
1節「心を騒がせてはならない。」という主イエスの言葉で今日の聖書箇所は始まっています。心を騒がせてはならない、という言葉は心をかき乱されてはならない、という意味ですが、なぜ主イエスはこのような言葉を語られたのか。このヨハネによる福音書の14章というのは、皆さんご存知のキリストが十字架に架かる直前に弟子たちと食事した、いわゆる最後の晩餐の席上の話なのです。この14章の前の部分ではイエス・キリストは弟子たちにご自分がこの後の十字架に架かって地上を去ることを語っているのです。ですからこの14章を含むこの前後は、別れの説教、訣別説教と呼ばれたりするのです。
弟子たちは自分たちの主であると受けとめ、共に生活し共に歩んできた主イエスが地上を去る、死んでいくということで、大きな不安に襲われていたのです。なぜ、主イエスが死ななければならないのか、半信半疑だったであろう弟子たちにとって、大きな不安を抱かされていたのです。
だからこの1節の主の言葉は弟子たちが心騒がせていることを承知しながら、しかし、自分がこれから語る言葉を受けとめてほしい、という願いのこもった一言でした。
2節「わたしの父の家には住まいがたくさんある。」面白い表現だと思います。父の家とは、神の御許。そこには住居がたくさんあるというのです。この住まいというギリシア語はとどまるという意味の言葉で、滞在するところ、とどまるところ、という意味です。滞在すると言っても、ちょっと滞在するというのではなく、わたしたちの居場所です。地上の生涯を終えて神の御許に用意されているわたしたちの居場所。なかなか想像力が追いついていかないのですが、神の御腕の中の居場所、そういう場所が用意されているというのです。それはたんなる場所ではなく、父の家にある住まい、父の御許にある居場所なのです。たくさんあるというのは、文字通りの意味もあるでしょうが、語っているのは、あなたの場所がある、ということです。
主イエスが地上にあって共に在るとき、そこが弟子たちの居場所だったのです。主イエスと共に在って、その恵みの中にあり、愛の中にあり、主の言葉の中にあった。そしてそのことによって神の愛の中にあったのです。弟子たちはイエス・キリストともにあり、そのことにおいて神と共に在ったのです。
しかし今主イエスが地上を去る、ということの中で、弟子たちは心騒がされる。孤児・みなしごになるのではないか、という不安。キリストの愛の中にあった自分が奪われる。キリストと共に在ることで神と共に在った自分も奪われる。そういう不安です。だが主イエスはその弟子たちに向かって、わたしたちに向かって、わたしの父の家にはあなたの場所がある、と語られるのです。
「もしなければ、わたしは言っておいたであろう。あなた方のために場所を用意しに行くのだ。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところにあなた方もいることになる。」
もしその場所がなければ、あなた方のための場所を確保するというようなことは言わない、という意味で、語っているのは、神の御許にあなた方の場所はまちがいなくある、ということ。そしてわたしは父のもとへ行ってあなた方の場所を用意しに行く。そして用意ができたら戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える、というのです。つまり主イエスは天にある神のもとでの居場所と同時に、自分が地上を去った後も戻ってきて、地上にいるあなた方を迎えるというのです。主イエスはここで二つのことを語っておられる。一つは、わたしたちが今マタイによる福音書で聞いている再臨ということ。終末の時、あなた方を迎える、ということ。しかしもう一つは、ここにアクセントが置かれているのですが、主が地上を去った後、聖霊が降り、聖霊が働いて、地上を去った主イエスが今もあなた方と共に在ることを聖霊の働きおいてに受けとめさせてくださる。だから、わたしは地上を離れても、あなた方と共に在るのだ、ということを語ってくださっているのです。
「こうして、わたしのいるところにあなた方もいることになる、とはそういうことなのです。わたしのいるところというのは、この後キリストが地上を去って、神のもとに行く、確かにそこにあなたの居場所は用意されている。しかし今あなたはまだ地上生活を送っている。わたしがこの地上を去ってあなた方は孤児になるのではない。
わたしは神のもとに行っても聖霊を送り、聖霊の働きにおいて、わたしがあなた方と一緒だということを明らかにする。だから今あなたが生きているその場所がわたしと一緒にいる場所だ。イエス・キリストと共に一緒にいる場所だ。聖霊の働きは目に見えない。触れることもできない。しかしわたしたちが一緒にあることをあなたに明らかにする。だから今あなたが生きているその場所がわたしがあなたと共に生きる場所。そして神の愛にあなたが出会う場所だ。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」とキリストが言うと、弟子の一人トマスは「主よ、どこに行かれるのかわたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう。」尋ねてきた。トマスはわからなかった。主イエスが地上を去ってどこへ行くのか、主イエスの歩む道がどうなるのかわからない、と正直に、聞いたのです。トマスだけでない。他の弟子たちも大なり小なりわからなかったのではないか。
すると主イエスは「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と応えられた。とても有名な言葉で、これだけが独立して格言のようにして、広まっている言葉。
主イエスはここで、この言葉においてわたしそのものが道であって、わたしという道を歩けば、父のもとへ行き、真理に至り、いのちに至ると言っておられるのです。道という言葉で、いろいろなイメージを持たれることと思いますが、キリストという道を歩く、とはどういうことでしょうか。一つには、キリストの言葉を歩く、ということです。イエス・キリストの語られた言葉、なさったこと、わざ、その一つ一つをかみしめながら、わたしたちの人生を歩くのです。このキリストの言葉を歩くことで、わたしたちはキリストに背負われ、キリストに愛され、キリストの恵みの中にある自分を知る。キリストの言葉を歩くことで、神のもとへ導かれて行く、その道で神の愛を受ける、神の恵みの中にある自分を知る、どんなに途上であっても、その道を歩くことで恵みを受けていく。そしてこの道を行くものは真理と出会い、真理へと導かれる。そしていのちを受ける。そうキリストは語っておられるのです。
聖徒の日、召天者を覚えて神の礼拝するこの時に、この聖書箇所に聞くよう与えられた主イエスのみ言葉に聞きました。主イエスはご自分が地上を去って神の御許に行く日が近い中で、弟子たちに大事なことをお伝えになりました。
一つは、あなたがたには神の御許に住まいがあるのだ、居場所があるのだ、ということ。すなわちわたしたちが覚える召天者たち、一人一人は神の御許にある住まいに、居場所におかれているのだ、ということ。そここそが一人一人にとって地上の歩みを終えた置かれるべき居場所、神の愛の中にあり、キリストの恵みの中にある場所なのだ、ということ。
そしてもう一つは、地上の生を尚生きるわたしたちに対して、あなたたちは一人一人聖霊の働きの中におかれて、わたしと共に在ることを知らされていきなさい。あなたはわたしの道を歩き、真理に出会い、いのちを受け、何より私が今も変わらず共にいることを、今生きている場所で、受け取っていきなさい、そうキリストが言っておられるということです。
わたしたちはこの二つのことを今日改めて信仰において受けとめていく。「心を騒がせてはならない。神を信じ、またわたしを信じなさい。」