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マタイによる福音書連続講解説教

2024.3.10.受難節第4主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書7章24-29節『 岩の上に家を建てた者 』

菅原 力牧師

 今日朗読された聖書箇所には一つの譬が語られていました。譬そのものはむずかしいものではなく、わかりやすいものです。二軒の家の話が出てきます。それぞれの家を建てた人の譬話です。一人の人は岩の上に自分の家を建てた人です。もう一人は、砂の上に家を建てた人です。

 この二軒の家は大きな自然災害に遭遇します。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲うのです。一軒は倒れなかった。岩を土台にしていたからだというのです。もう一軒は倒れた。全壊したというのです。そしてこれが終末における最後の審判の譬であるということも、お分かりいただけるだろうと思います。つまり主イエスは、この説教の聞き手を二つの可能性の前に呼び出しているということです。救われるのか、滅びに至るのか、ということです。

 

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」というこの二つの対比が、二つの可能性として、わたしたちの前にあるというのです。

 ここでわたしたちは、この間繰り返し聞いてきた事柄にまた出会うのです。それは、この山上の説教に聞いて、それを行う、ということです。先々週の個所ではよい実を結ぶ、という話であり、先週の聖書箇所ではその行いがどこから生まれてくるのか、という問題でもありました。ただいずれにしても、信仰ということがただ聞くだけでなく、行い、行為、という深く関係しているということが語られていることをわたしたちは受け取ってきたのです。

 今日の聖書箇所でも聞くことと行うことの関係が語られているのですが、キリストは山上の説教の言葉を「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」の両者の違いを鮮明化するような譬話を語られるのです。

 しかし、ここで改めて丁寧に考えてみたいのですが、そもそも、信仰者にとって、聞いて行う、とはどういうことなのでしょうか。しばしば誤解されるのですが、聞くことと行うこととが、まるで二つの別々のことのようにわたしたちは頭の中でとらえてしまうのです。例えば、神の愛ということについて聞いて、自分なりに納得し、了解して、そしておもむろに愛の行為について考え思い巡らして、自分としての愛の行為をする、という具体に。しかしこれは言うまでもなく、とても観念的というか、頭の中の出来事のように思えます。行いというのは、それ自体独立してあるわけではないのです。

 

 信仰というのは、神に向きなおることだ、と言われることがあります。自分本位というか、自分を世界の真ん中において、その中で人や神を見ている者が、神が中心におられる神の視線の中にいる自分に気づいていくことだ、というのです。ドイツの神学者の中には、脱自的という表現を用いる人がいるのですが、それは自分の外に出るということです。自分ばかり見ているときには、自分の外に出ることはない。そもそも自分の外なる存在と出会わない限り、自分の外に出ることはできない。神と出会う、自分の存在の場所が変わることであり、生きる方向も変わっていく、ということです。自分がいて、自分の考えや思いで世界を見ているという場所から、神の愛、キリストの恵み、信実の中に自分の存在が置かれていて、その中で活かされていく。

 聞く、神の言葉に聞く、キリストの言葉に聞くということはそれ自体存在の転換が起こっていくことなのです。つまり聞くということは、しばしば受動的な、受け身的なことだと思われがちだが、まったくそうではない。キリストの言葉に聞くことは、わたしたちの存在の在りようが、生きる方向性が、世界を見る視点が変化していく、それ自体大きな転換であり、最も深い意味での行動なのです。わたしの生活の転換なのです。

 「聞いて行う」とキリストが一言で言われたこと、ここにはわたしたちの生き方の根本的な転換があるのです。キリストの言葉に聞いて、信じる者とされていくとき、わたしたちは根本的な転換を経験させていただく。そしてその経験の中でみ言葉に導かれて歩み始めていく、生活していく。それが聞いて行うことの始まりです。それは自分の力で生きるのではなく、キリストの恵みによって生きる、新しいいのちの始まり、という経験でもあります。キリストはこのような者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている、と言われた。これも実は不思議な表現です。聞いて行う者は岩の上に家を建てることだ、というのではなく、家を建てた賢い人に似ているというのですから。この場合の賢いとは、何を土台とすることが、大災害に対しても大事なことなのか、見通している、ということでしょう。砂は土台とはならない、ということです。ここでは岩と砂というわかりやすいたとえですが、わたしは何を土台として生きているのか。実際いろいろなものをその時々、土台にもならない砂のようなものを土台にしているのかもしれない。自分の信念のようなものであったり、生きてきた人生の経験知であったり、自分がこれまで学んできた知識だったり、砂を土台として生きてきたのではないか。

 しかしここで問題になっているのは、何を土台とするのかということを知っただけでない、その土台の上に家を建てた、ということを含んでの話なのです。これが土台だと知ってもそこに家を建てない人もいるのです。

 キリストのみ言葉に聞くだけで行わない者、そういう人のことをわたしたちはよく知っている。しかし精確には、聞くだけで行わない者というのは、聞いていないのです。聞いたふり、聞き流し、聞いたつもりになっているのです。しかし聞いていないのです。

 すでに何度も取り上げてきた使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙の2章の言葉。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信実によるのです。」このパウロの言葉は、キリストのみ言葉に聞くということは、わたしが聞くというよりも、わたしのうちに生きて働くキリストが語り続けてくださっている、と言っているのです。生きているのはわたしの力ではない。わたしを底から支えてくださるキリストの信実によるのだ、ということです。つまりわたしという存在を支えているのは、わたしのうちにあるものではなく、キリストの存在、キリストの信実こそがわたしを支えてくださっているのだ、ということです。このわたしを支えるキリストの声がわたしに語り続けてくださっているのだ、というのです。

 そしてそれは、自分の外に出るという経験と深く重なっているのです。自分にしがみついている、自分の中からしか外を見ようとしない自分が、キリストと出会い、キリストの愛にわたしという存在の丸ごとが支えられているということを知る、ということ自体、自分を自分の外から見る経験です。キリストに支えられた自分、キリストに負われている自分が見えてくるという経験です。そしてそのときに、自分が神の言葉を聞いているというよりも、この自分にキリストが呼びかけ続けてくださっている、ということに眼開かれていくのです。神がキリストを通してわたしに呼びかけてくださっている、ということに気づかされていく。キリストがわたしを活かしてくださっている、それはキリストがわたしのうちに遭ってわたしという存在を活かしてくださるということであり、パウロはそのことを語っているのです。

 28節以下には山上の説教を聞いた群衆の反応が短く記されています。律法学者のようにではなく、権威あるものとして教えられたことに非常に驚いた、というのです。主イエスの説教は、たんなる教えや知識ではなく、その人を神と出会わせ、神の言葉の前に立たせ、神の愛の中にある自分と出会わせ、自分という存在を受けとりなおし、自分からではなく、神から、キリストから生きる自由へとわたしたちを転換させる力に満ちたものです。たんなる教えや知識ではない、というのは、神によって新しく生きるものへとわたしたちを招き従わせるものだからです。それがみ言葉の権威なのです。まさしく山上の説教はわたしたちが新たに神によって生きるための説教なのです。み言葉に聞いて行い生きる者となる、そのことを受けとめて、山上の説教にこれからも聞き続けていくものとされたいと思います。