ヨハネによる福音書19:16b〜24 「十字架につけられる」

石井和典牧師

 十字架のおそばに行きますと、驚くべきことを常に見出します。主イエスは自ら進んで十字架を担われたことがわかります。ヨハネ福音書19:17。

 イエスは自ら十字架を負い、

 処刑されるために自ら進んで向かわれました。隣には犯罪者が十字架にかけられます。主イエスは何も罪を犯しておられません。しかし、十字架にかけられます。天の父なる神の心を知っておられるので、抵抗もなさいません。ご自身が潰されて、命が注ぎだされることを望んでおられました。ゲッセマネの園、あぶらしぼりの園でオリーブのたねから油が注ぎだされるのと同じようにして、ご自分の命から命が注がれることを思われて、常にゲッセマネの園で主イエスは祈り続けて来られました。

 だから十字架に向かわれ、自らの命が命を生み出すために潰されることにためらいはありませんでした。何度も言いますが、自ら進んで十字架におかかりになられました。

 その痛みたるや、計り知れないものがあります。肌はローマの鞭で引き裂かれ、人々の嘲りの中です。しかし、そのご意思は全く揺らぎません。主イエスは私たちの主です。単なる人間とは違います。

 隣に重犯罪人がいて、そのものと同じ扱いを受けることになったらどうですか。無罪にもかかわらず。。。私だったら泣き叫びます。なんと命のある内に、過ちを正してくれと。

 もっとも汚らわしい人、忌まわしい人、個人的に絶対に許せない人。そういった人と同じテーブルにつく。それだけでも嫌なんじゃないですか。しかし、主イエスは、その中でもまっすぐに主なる神の心を見つめ、一切ブレることなく、主の業に向かっていかれます。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものはそれを得るのである。(ルカによる福音書9:23)

 主イエスは命を与えるために、命を捨てられたお方です。命を得る道は、自分を捨て隣人のために命を捨てるという道であるということを、ご自分のご存在のすべてを通して証してくださっているのが主イエスです。

 たしかに、主イエスのお姿を見ると、そこに命が満ち溢れているのを覚えます。主のお心がこのこころに満ちてきて、主イエスにいのちと永遠が見えてくるのです。

 死を迎えるその限界の只中で、主は、私たちの命を得ることをお考えくださっています。自分が汚れるとか、自分があのような重犯罪人のようになりたくないとか、そのようなことではなくて、愛に満たされて、愛するものたちに命が満たされるようにと願っているだけなのです。その一点のために命を捨てられてお仕えくださった主イエス。

 十字架は神様のご計画の成就であります。前回も申し上げましたが、ありえないことが起こっています。イエス様の罪状が確定しないまま、単なる印象とも言うべき適当な理由で裁きの場が設けられ、主イエスが連れてこられているのです。本来ならば、こういうことはありえません。少なくとも罪状がある程度固まって、その証拠があげられてでないと人を裁くことなどできません。ヨハネ福音書18:30に、どういう理由でイエスさまを人々が捕らえてつれてきたのかが記されています。

 「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言って具体的な罪状を挙げないがゆえに、ローマ総督ピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言っています。ここから裁判が進んでいくなどということはありえないことがでしたが、それが起こってしまいます。これが神の業です。

 ユダヤの指導者たちやその群衆たちの悪意があまりも強すぎて、その思いにおされるようにして、ピラトはイエスさまを十字架にかけるということを決めざるを得ない状態でありました。しかし、これが神の業です。人々の悪意や妬みの只中で、そのご計画が進んでいきます。私たちは悪意が少しでもあれば、なにか良きことは頓挫してしまうのではないかと思います。しかし、全能者、神はそのようにはお考えにならない。何があってもご自身のご意思を貫徹されます。人間の悪意に邪魔はされません。

 ピラト。彼も用いれました。ユダヤ教の指導者たちの悪意に押されて、その声に恐れをなして、自分がローマ皇帝に訴えられてしまうのではないかという思いを持ちつつ、イエス様を殺すという決断をしてしまいました。こんなことが起こっていいのかというようなことが起こり、話が決せられていったのです。

 本来ありえないことも、神様の人類救済のご計画の前にみな従うようにして、ありえないことが起こっていきました。

 十字架を前にしてピラトが頑固にもイエス様の頭のうえに掲げられる文字を変えなかったということも極めて大きなことです。ピラトはユダヤの指導者たちを恐れていたはずです。こんなところでこだわって彼が主張するのは、流れ的に考えにくいことです。特にピラトとしてはイエスさまがどのように評されるのかについては、心を割くような状況ではないはずです。自分の立場や命が危なくなるのを恐れてイエスさまを犠牲にしたのですから。しかし、ピラトはイエス様の十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記されることを譲ることはしませんでした。ヨハネ福音書19:21。

 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。

 と記されています。自分でそううそぶいていた偽り者であると記すのか、実際にユダヤ人の王と記すのかというのは大違いです。大違いであるからこそ、祭司長たちは、うそぶいて偽りをのべ、神を冒涜したのだということにしたいわけですが、ピラトはそう記すことはしませんでした。これこそが神様の御業。しかも、この言葉は全世界に向かって記されていきました。全世界にむかってということは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で記されたと書かれていることからも明らかです。

 このキリストの十字架の出来事は、アブラハム契約が決して反故にされることはなく、すべての民に対して神様がその御手を開いておられるということを指し示す内容となったのでした。創世記12:1〜3。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪うものをわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福にはいる。

 ユダヤの民がアブラハム契約に生きているといことは、恐ろしく重要な内容です。これが間違いなく守られて受け継がれて、そしてのべつたえられるところ、そこにこそ、神の国の福音が伝えられていくのです。だから、イエス様はユダヤ人の王でなければなりませんし、ユダヤの伝統、律法、預言者、諸書、旧約聖書全体に記されている神様の約束が実現していくといことをもって、はじめて救いが達成され、全世界の民が救われるという、人類救済の道筋が立つことになるのです。我々日本人が救われるためには、このアブラハム契約がなければなりませんでした。ユダヤの土台がなければなりませんでした。

 全人類に対する救済のご意思は、ユダヤ民族のはじめのはじめから示され続けていることであり。その神のご意思の中に王として現れてくださったユダヤ人の王。そのことをピラトが認め、それを十字架の上に掲げ、祭司長たちがそれを引き下げようとしても、ピラトはなぜなのか堅い意思をもって「ユダヤ人の王」という主イエスの称号を守ったのです。

 神様のご計画は決して破られることはない。ユダヤ民族を通して伝えられ続けてきた救済の約束、それは何があっても守られるのです。すべての民への福音であることが、当時の周辺の国々の言語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語に訳されて掲げられていたこと。これが「全世界の民への福音である」という神様のご意思を指し示しています。

 十字架の周りにいた兵士たちは主イエスの服をくじを引いて分け合いました。それは詩篇22編に記されている言葉が実現するためであったと、ヨハネ福音書は記しています。イエス様ご自身は聖書はご自分について証する書物であるとおっしゃられています。ヨハネ福音書5:39。

 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 新旧約聖書全巻を通して、父なる神、子なるイエス、聖霊なる神。神様がいかなるお方であるかを証しするためにあります。それゆえに、聖書に記されていたことは、主イエスを指し示すものであり、その中には預言的な言葉も記されているのです。ダビデの祈りは特に預言的な内容がつぎつぎと入ってきている。そんな祈りの言葉になるのです。不思議です。ダビデ自身は、主イエスのお顔も拝見したことがないはずなのに、後に起こる主イエスに起こったことが分かっていたかのような言葉を使います。詩篇22編は、十字架の主イエスを指し示す言葉となりました。詩篇22:17〜19。

 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 そしてこの詩篇22編は、見事に主イエスにおいて実現していくアブラハム契約を視野に入れた言葉となっています。22:28。

 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち返り/国々の民が御前にひれ伏しますように。

 

 神の思いの中に立ち続けるイエス様のお姿を見て、弟子の中にはすでに回心が与えられているものがいました。それは、十字架の近くにいた「愛する弟子」と言われている弟子です。これはヨハネだと言われることが多いですが、実際に名前が記されていないということは非常に大きな含みのある言葉であります。私は、すべての主イエスに従う者たちが、主イエスのお姿をみて、回心が与えられ。その十字架のもとで大きな変化をさせられるのだという含みがあると読んでいます。

 イエス様は十字架の上から、子どもを失ってしまうマリアに対して、その子どもとしてこれから生きていくようにこの弟子に使命を授けています。十字架のもとで新しい関係性と新しい使命を見出しました。

 神が与えられた恐ろしいほど耐え難き試練の中で、人類のために屠られていくイエス様。そのイエスさまの態度と眼差しによって動かされた弟子が、その命と思いを受け止めて、使命に生き始めるのです。

 命の瀬戸際の現場、命が尽き果てる時、命を受け取って新たに人が生き始めます。

 十字架の現場というのは、死を意味すると同時に、御子イエスから手渡された命をも意味します。

 そこから、新しい命の歩みがはじめられます。

 神の独り子が命を捧げ尽くしてくださった。この出来事の前に、人は生まれ変わります。この十字架の現場に帰ってきて、生まれ変わります。これまで経験したことも、今経験していることも、主イエスの十字架の御もとにやってきますと、意味が変化し、目覚めさせられ、新しい使命を見出します。

 キリストの心によって人が生まれ変わる現場、それが十字架のイエスのお姿を見るところであり、教会です。

 神の御業を十字架のこの悲惨な場面に見てください。そして、同時にこの十字架のもとに自分が集められている意味を見出してください。使命があります。新しい関係性があります。新しい命があります。アーメン。