マタイによる福音書連続講解説教
2026.3.29.枝の主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書27章57-66節『 墓に葬られたキリスト 』
菅原 力牧師
主イエスが十字架で息を引き取られたとき、これまで主イエスに従っていた弟子たちをはじめ、主イエスを熱烈に迎えた人々も皆いませんでした。そして主イエスの周りには主を嘲弄する人たちだけが取り囲んでいた。マタイによる福音書はそう十字架の場面を描いていました。
確かにそうなのですが、それだけではなく、マタイはそうではなかった人々のことも書き記しています。先週の聖書箇所の最後に「またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従ってきた女たちであった。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」
主イエスの十字架を遠くから見守る一群の女性たちが、いたというのです。遠くから見守るという日本語は、かなり意味の込められた言葉ですが、原文のニュアンスは遠くから見ていた、と言った方がいいのかもしれない。そういう一群の女性たちの存在をマタイは書き記しているのです。
ところがそれだけではなかった。「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。」主イエスはまだ十字架に架かったまま。誰も自分から引き下ろそうとは言わない。まだ少なからず、十字架の周辺には人々がいたかもしれない。その中で誰も遺体を降ろそうとは言わない。関われば、自分の身に及ぶからでしょうし、そもそも関係ない、という人たちだった。ところがここに一人の人がやってくる。アリマタヤ出身の一人の人物です。この人のことについては、四つの福音書全てが書き記しているのです。忘れてはならない人物だからでしょう。ただその細部の記述はそれぞれアクセントの置き方が違うのですが、この人は、お金持ちでマルコ、ルカによれば、身分の高いの議員であったというのです。この場合の議員というのはユダヤの最高法院のことで、それはすなわちユダヤ社会の実力者ということです。その人がピラトのもとに行き、イエスの遺体の引き取りを願い出たのです。勇気ある行動です。弟子の誰一人として、晒しものになっている主イエスのご遺体を取り降ろそうとはしない中、この人は一人、ピラトのもとに行き、引き取りを願い出たのです。ピラトは、ヨセフに難癖をつけることもなく、遺体の引き渡しを命じました。ヨセフは、遺体を受けとると、きれいな亜麻布に包んだのです。きれいな、というの新しい、おろしたての、という意味で当時の習慣に従って、亜麻布に丁寧に包んだのです。何も書かれていませんが、ヨセフは僕に命じて、死体の洗いや、塗油(防腐処理)をしたのでしょう。そして主の遺体を亜麻布に包んだのです。
ヨセフは、この遺体を岩に掘った自分の新しい墓に納めました。ヨセフが新設した新しい墓です。そして当時の習慣に従って、墓の入り口に大きな石を転がし固定してからそこを立ち去ったのです。つまりここを読むと主イエスはまことに丁寧な仕方で、当時の習慣にのっとり埋葬されたのです。
ヨセフはすべきことをして、墓から立ち去っていくのですが、言うまでもなくもしヨセフがいなければ、下手をすれば主イエスのご遺体は野ざらしです。ところが律法によれば、木にかけて処刑された者は神に呪われており、遺体はその日のうちに始末しなければならなかった。しかし誰も手を出せずにいた遺体をヨセフは、引き取り埋葬したのです。
マグダラのマリアともう一人のマリアはそこに残り、墓に向かって座っていた、とあります。もう一人のマリアとは、ヤコブとヨセフの母マリアのことで、紛らわしいのですが、この人はイエスの母マリアではない。また別の女性です。いずにせよこの二人は、遠くから見ていたのだが、埋葬の後も、ヨセフが用意した墓の近くまで来て、座っていた、というのです。
62節からの話は祭司長、ファリサイ派といったユダヤ教の指導者たちが総督ピラトに持ち掛けた話へと移っていきます。彼らはピラトのもとに行き、「閣下、人を惑わすあの者が生きていた時、」と言って相談を持ち掛けるのです。閣下という言葉は主よ、という言葉です。ユダヤ教指導者たちがどれほどローマにおもねっていたか、よく表す言葉です。
あいつは三日後に復活する、などと言っていました。だから三日目まで墓の警護を厳重にしてください。そうでないと弟子たちが死体を盗み出し、イエスは復活したと民衆に言いふらすかもしれません、そんなことになれば、人々は前よりもってひどく騙されます。ピラトは祭司長たちからの申し出に何の異論もなく賛同します。そして番兵を送り出し、主イエスの墓の警護を固めたのです。
今日の聖書箇所、ここに記されていることは、いったい何なのでしょうか。わたしたちはここから何を読み取るのでしょうか。ここにあるのは、十字架の主イエスの遺体の前でのそれぞれの思い、と言ってもいいものです。
女たちはイエスに仕えてガリラヤから従ってきた者たちでした。そして他の弟子たちのように、逃げ出したり、どこかへ行ってしまった人たちとは違いました。ただ遠くから見ていた人たちでした。従い続けてきた人たちではあるけれど、主イエスの受難の歩みの中で何の役割も果たせなかった人たちだともいえます。見ている、という表現の中に、この人たちの在りようの一端があらわされている。
アリマタヤのヨセフの行動と態度を高く評価する人たちはもちろんたくさんいます。この人もイエスの弟子であった、とあるのですが、弟子の中で唯一、主イエスの十字架において役割を担っている人だ、という人もいます。
しかしヨセフ自身、自分の行動と態度をどう思っていたか、複雑微妙です。主イエスの受難の歩みの中で、自分は何をすべきだったのか、どうすべきだったのか。後悔や悔いがこの人になかったとはいえない。逃げてしまった者には、逃げてしまった者の後悔があるのかもしれない。しかしヨセフは逃げた人ではなく、おそらくそこに立ち尽くした人。主イエスが死んで後、埋葬を一人、担ったのは、死の場面で何もできなかった自分への悔いもあったのかもしれない。青の時、自分は何をすべきだったのか。
そして埋葬後の二人の女性。彼女たちは何を思って、墓に向かって座り続けていたのか。少なくとも、その時は何もできなかった、何一つできなかった。
そして祭司長たちとピラト。彼らの思いはこのイエスという人物にまつわる事柄を一刻早く、完全に決着をつけたい、という一念だったかもしれない。死体の盗難や、その後にまき散らされるデマも含め、余分なことが起こらないよう、しっかりと決着をつけたい、ピラトもそこにおいて思いを共有していた。
主イエスの十字架の死、その死の周りでそこにいた人々、来た人、周辺でうごめく人々の姿が、今日の聖書箇所には記されています。それぞれの思いの中で、この十字架の場所に立っているのです。
ここで大事なことは、言うまでもなくイエス・キリストの死です。
十字架において、人間の罪の断罪を受け、神に遺棄されて、死なれたイエス・キリスト。この方の死がこの聖書箇所の背後にあります。
そしてわたしたちが使徒信条で告白するように、「死にて葬られ」たのです。そこには完全な死があります。つまりキリストはわたしたちの罪を負ってくださっただけでなく、わたしたちが死ぬ死を担ってくださったのです。私たち一人一人が必ず経験していく死、その死をキリストも身に受けてくださったのです。これは、フィリピのあの言葉「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形を取り、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」という言葉にある通り、死に至るへりくだりでした。自分を救えないものとしての人間となり、罪の赦しを受ける以外ないものとなられ、神によって裁かれる者としてその死を受けて、死んでいかれた。それはわたしたち罪人である人間とどこまでも共に在るキリストの姿、キリストの死です。存在を共にする、という言葉がありますが、キリストはわたしたち存在だけでなく、死とも共に在り続けるのです。
「死にて葬られ」というあの使徒信条の告白は、死ぬことも、そして葬りもわたしたちと共に在る、という告白です。
死の場面に登場する人たち、見ている女性たち、埋葬に尽力するヨセフ、この人たちもまだ、主イエスの十字架の死が何を物語るのか知らない。神が御子をこの世に遣わし、地上を歩む者とし、受難の歩みを担うものとなり、十字架で死んだ、キリストの召命も、その背後に働く神の意思も受けとめていない。だから、この人たちの姿はいなくなったものの影を追っている姿なのです。女性たちも、ヨセフも。しかし、この人たちが神の恵みの意思に触れる時が来ます。その意思の実現としての甦りの出来事に出会う時がやってきます。復活者キリストに出会う時が来る。この十字架の死の背後にある神の意思に出会う時が来るのです。事実この死の時も、祭この世界は神の意思の中にあるのです。十字架の死の前でうごめく一人一人の人間を包み込む大いなる神の御意志と業があることを知らされるときが来るのです。
その恵みのわざを待ち望むときが、今日の聖書箇所には流れているのです。