教会暦・聖書日課による説教
2025.6.29.聖霊降臨節第4主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書21章18-22節『 信じて祈るならば 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は短い箇所ですが、ここに二つのことが記されています。18節、19節にはいちじくの木が枯れるという出来事があり、20節から22節には信仰の話が出てきます。しかしこの二つの話がどう繋がっているのか、どう関係しているのか、読んでいてよくわからない。そのことも思い巡らしつつ、順に読んでいきたいと思います。
主イエスがエルサレム入りされてから二日目の朝の出来事です。都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられました。そして道端に一本のいちじくの木があるのをご覧になって近寄られたのですが、葉の他は何もありませんでした。主イエスがエルサレムに入城されたのは過越祭のときですから3月下旬から4月上旬。この時期、葉は青々と茂っていますが、実は未だ6月にならないと実らない。それにもかかわらず主イエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように。」と言われた。すると木はたちまち枯れてしまったというのです。
不思議というよりも訳が分からない、という印象を持たれたかもしれない。なぜこのようなことを言われたのか。
そのことを思う時に、エルサレム入りされてからの主イエスの行動を振り返ることはきわめて大事なことです。もう一度丁寧に思い起こしたいのですが、主は子ろばに乗ってエルサレムに入城されました。それは柔和のしるしであり、主イエスのへりくだりを象徴するものであり、明らかに十字架に向かう主イエスを指し示す象徴的行為でした。けれど、その場に居合わせた弟子たちを含め、多くの群衆たち、エルサレムの人々は、その行動の象徴するものはわかりませんでした。皆それぞれ別の方向を見ていたのです。そしてそれに続いて、主イエスは神殿の境内で、商売人を追い出すという行動をとられた。子ろばに乗るのとは、対照的な過激な行動ともいえます。しかし主イエスは、この行動において、十字架のわざを指し示された。主イエスご自身が十字架にかかることで、ご自身を贖罪の犠牲としてささげられた、それは動物や生き物による犠牲の一掃だったのです。それによって神を真実礼拝する道を拓かれたのです。おそらくその時にその場に居合わせた人々は、その行動の意味するところは分からなかったでしょう。
そして、それに続く今朝の主の行動なのです。主が、葉ばかり茂って実を結んでいないいちじくの木をご覧になって「今から後いつまでも、お前に実がならないように」と言われた。なんとも不思議な、不可解な発言です。しかし考える手掛かりは、前後の文脈を辿ると示されるように思います。エルサレム入城後の主の視線は十字架に向かっておられた。その上で主の視線は終末へと向かっておられた。それはこの箇所以後の主が語られたたとえ話を読むと、終末のときに目を注ぎながら、譬が語られていることからよくわかるのです。
葉ばかり茂って実を結んでいないいちじくの木、それは見ておられる主イエスにとって何かを象徴するものだった。それはいろいろに解釈されてきたのですが、イスラエルのことを指すのだ、という古くからの解釈があります。選民イスラエルが葉ばかり茂って実を結ばないものとして、ここで糾弾されている。主はここでユダヤ教を批判されたのだ、という理解です。しかし、ここはもっと広く、ユダヤ教のみならず、主イエスの弟子たち、群衆、すべてのものへと呼びかけ、と捉えた方がいい。なぜなら、ここでの言葉は、終末に視線を向けての発言だからです。
終末をやがて迎える時、葉ばかり茂って実を結んでいないものが裁かれるというのが、ここでの主の発言の象徴的で意味でありましょう。それは、ユダヤ教の人々だけでなく、やがて生まれてくるキリスト教会に連なる人々も皆、この言葉の対象者でした。主はご自分が十字架にかかられる直前、終末に向かって歩むこと、終末の裁きを仰ぎ見て歩むことを語られたのです。
わたしたちはふつう教会に来るまでは、終末というようなこと考えたことも、イメージしたこともないのではないでしょうか。教会に来て、聖書を読むようになり、天地創造を知り、神の定めたもう終わりの時、救いの完成のときを知らされてきたのです。そしてその終末は、神による裁きのときであることも知らされてきた。裁きとは、神による判定のときです。
葉の他何もない、葉ばかりで実がない、というのは、どういうことなのでしょうか。実を結ぶとは、どういうことなのでしょうか。実を結ぶということで、誤解してはいけないことがあります。それは、終末の裁きの時、神の前で、立派に生きたとか、キリスト者として恥じない生き方をした、というようなことが実を結ぶ、ということではない、ということです。聖書はそういうことを言っていない。
実を結ぶとは、悔い改めて神に立ち帰ることです。悔い改めて福音を信じる、ということです。なんだ、と思う方があるかもしれません。もっと、すごいことを考えていた、という人もいるでしょう。違うのです。自分の力で、自分の考えで、自分の努力で、頑張ろうとするのではなく、神の方に向き直り、神の恵み、神の言葉、福音に聞いて、そこから生きる。実を結ぶのは誤解のないように言えば、わたしの持てるもので実を結ぶのではない。神の恵みから、神の言葉から、福音から歩み始める時に実を結んでいく。神の力で。そのことをこの人生で繰り返すのです。わたしたちの人生は、悔い改めて神に立ち帰る、そのことの繰り返しであるのです。
終末の時、実を結ばないものを神はさばかれる。けれど、わたしたちが忘れてはならないのは、その裁きを主イエスはご自分が受けるため十字架にかかっていかれるということ。大事なことは、わたしたちはキリストの十字架を仰ぎながら、悔い改めて神に立ち帰り、福音を信じていくこと、なのです。
弟子たちは木が枯れるという奇跡に驚き、主イエスに「なぜたちまち枯れてしまったのですか」と問いました。実がないこと、実を結ぶこととはどういうことなのですか、と問うたのではなく、奇跡の現象に驚いて、そのことに目を奪われていた。けれど、主はそのことを今咎めるのではなく、むしろここで、奇跡を受けとる信仰について語り始められるのです。
「よく言っておく。あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、その通りになる。信じているのならば、求めるものは何でも得られる。」ずいぶん飛躍した話のようにも聞こえます。いちじくの木を枯らすことも、山を動かすことも、弟子たちが望んでいることとはあまり思えないからです。
しかしこの話は、以前主イエスが弟子たちに語った話と深く繋がっているのです。それは17章のところなのですが、弟子たちが悪霊に取りつかれているものを追い出すことができなかったときに「どうして私たちは追い出せなかったのですか」と問うたときに、主イエスが言われた言葉です。「信仰が薄いからだ。からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るだろう。あなた方にできないことは何もない。」と主はこたえられた。その際わたしたちが聞いたことは、わたしが持っていると思っている信仰はいずれにせよ薄い、小さい。イエス・キリストを信じる信仰は、イエス・キリストにおいて働いてくださっている神にわたしたちの視線を向けること。イエス・キリストにおいて働いてくださって神にわたしは活かされているということを受けとめていく、その信仰がからし種一粒ほどもあれば、神の働きの中にある自分を知ることになる。いちじくの木が枯れるとか、山を動かす、というようなことはもちろんわたしたちにはできない。しかしここでいわれる信仰は、神の力がイエス・キリストにおいて生きて働いておられることを信じる信仰である。わたしたちもまたその生きて働く神の恵みの力の中におかれているのです。その信仰に生きる時、神が働き、神の力が示される。キリストは弟子たちのそのように奇跡を受けとることを示された。
いちじくの木の話と、21節以下の話は、信仰ということで繋がっているのです。わたしたちにとっての実とは、悔い改めて、福音を信じる、神の御手のうちにある自分を受けとめていくことでした。福音によって生きること。そこでわたしたちは神の恵みの力を知らされていく。奇跡を信じる信仰も同じ。わたしが何かをするというのではない。イエス・キリストにおいて働く神の力を仰ぐのです。十字架と復活において働く神の力の中にある自分を知るのです。自分の力では終末の時のふさわしい実など結べないわたしたちですが、自分の力で実を結ぶことはできないしその必要もない。ただ、イエス・キリストにおいて働く神の力と恵みと信実を仰ぎ見るのです。その恵みの力の中にすでに置かれている自分を知らされるのです。それでいいのです。
実を結ぶことも奇跡もすべて神の御わざです。わたしの力によるものではない。大事なことは、自分を見ている自分から、イエス・キリストに向き直り、イエス・キリストにおいて働く神の力と御業に悔い改めて立ち帰っていくことなのです。