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教会暦聖書日課による説教

2022.4.10.棕櫚主日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書12章12-19節 『エルサレムに入られる主』

菅原 力牧師

 今朝朗読された聖書箇所は、主イエスはエルサレムに入られるとき、これをエルサレム入城と呼びますが、その時の様子を書き記した聖書箇所です。

 この聖書箇所を読むとすぐにわかるように、ここには迎え入れた群衆と主イエスとの間に大きなずれ、誤解があります。群衆がエルサレムに入られる主イエスを歓迎しました。群衆の中に主イエスに対する大きな期待があったからでしょう。しかしその期待は、主イエスの言葉や行動を御心に沿って受けとめたというのではなく、逆に自分たちの中にある期待、願望を押し付けている、と言えるものでした。

 ところがこの場面で驚くのは、主イエスが群衆が誤解に満ちた歓迎ぶりに乗っかっている、ということです。こういう歓迎に対してただ素通りしていってもいいのに、わざわざ驢馬の子に乗って、その歓迎の中を行かれたというのです。なぜ、こんなパフォーマンス、行動をとられたのか。群衆の歓迎は、それはそれとして、黙々とエルサレムに入っていかれる、というのでいいのではないか。実際他の福音書を見ると、エルサレム入りされた主は夕方になると、人目につかないよう都の外に出ていかれたことが記されています。すでにこの時、主イエスに対して殺意を抱いている人々は、主イエスのぐるりを取り囲んでいたのです。わざわざこんな形で人目につくような、賑々しい、パレードじみたことをなぜしたのか、しかもそれは誤解に基づく歓迎なのです。それはここを読んだ者の普通に感じる疑問です。

 ヨハネによる福音書は、実にはっきりと、弟子たちは最初これらのことがわからなかった、と書き記しています。「これら」という言葉は、子驢馬に乗って入城したということでしょう、つまり主イエスと共に在った弟子たちですら、主イエスのこのエルサレム入城の際の行動にはどういう意味があるのか、まるでわからなかったというのです。

 

 ヨハネによる福音書はしばしば「しるしの福音書」と呼ばれています。それはこの福音書がたくさんの「しるし」に満ちているからなのですが、ただ回数が多いというだけではない。しるしの持つ豊かな意味について、この福音書は、自覚的に描いているからなのです。

 例えば、ヨハネによる福音書の2章には、この福音書で最初のしるしとなる出来事が記されています。主イエスが参列しておられた婚礼の席で、葡萄酒が無くなり、主が水を葡萄酒に変える、という奇跡をおこなったのです。これは主が行った最初の「しるし」である、とヨハネ福音書は語るのです。弟子たちはこの奇跡を見て、主イエスを信じた、とあるのですが、この奇跡がしるしである以上、主は水を葡萄酒に変えるという奇跡で何を伝えたかった。何かを指し示したかった。

 しるしということについては、これまで何度も話してきましたが、証拠、合図、他との見分けをつけるもの、と辞書を引くと出てきます。わかりやすい例は、野球の試合で出される、サイン、監督が選手に出すサイン、それがしるしです。例えば、野球帽の庇を触ったら、バントだとします。

 そうすると、野球帽を触る行動と、バントとは、直接関係がないのですが、それがしるしだということで両者は結びつく。聖書に登場するしるしも同じ。それが何かを指し示すのです。そして指し示すものこそが大事なのです。

 するとどうなるでしょう。例えば主が水を葡萄酒に変えた、という奇跡、この「しるし」は、何かを指し示すためのものなのですが、弟子たちは指し示すものよりも、水が葡萄酒に代わるという奇跡に食いついて、それで主を信じたというのです。ヨハネ福音書は、こうした主イエスが示されたしるしと弟子たちの受け取りのずれを、しっかりと記録しているのです。主イエスは、奇跡を見て、主イエスを信じた者たちを信用しなかった、なぜなら奇跡は見ても、その指し示しているものを見ていないからです。

 さて、そのことを確認して、今日の聖書箇所に戻りたいのですが、ここで主を歓迎する群衆の中には、主がラザロを墓からよみがえらせたとき、一緒にいた人々もいたことがわざわざ書き記されています。つまり、ここに集まってきた人々の多くは、奇跡やしるしそのものに食いついた人々、と言えるのかもしれません。これまで主イエスがなさってこられた様々な奇跡、しるしの業に感動し、その力を何らか信じてきた人たちだったと言えるでしょう。確かに、主イエスの奇跡の業は人々を驚かせた。水を葡萄酒に変えたり、五千人にパンを与えたり、生まれつき目の見えない人の目を開いたり、挙句はラザロが死んでいたのに甦らせたり。驚かない方が、無理というような話です。ただ、その先にあるもの、奇跡やしるしが指し示すものを見ようとしていない。今日の聖書箇所の19節にも、「見よ、何をしても無駄だ。世を挙げてあの男についていったではないか。」とファリサイ派の人々をして言わしめるほどに、人々は、奇跡と「しるし」には期待感を寄せたのです。

 ここで熱狂的に迎えた群衆は、そうした人々です。

 群衆は、この奇跡行為者をイスラエルの王として迎えようとしたのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」ホサナとは、どうぞ、救ってください、という意味ですが、イエス人気もここに極まれり、という感じです。群衆は力ある王を求めている。それはいつの時代も同じでしょう。政治的、軍事的、経済的に力ある王。もっと単純に奇跡を起こしてくれる王を求めているのかもしれません。

 一方で、人々の中には、主イエスの語る言葉を聞いて、主イエスのもとを去っていった人々もたくさんいたことをヨハネ福音書は書き記しています。キリストの言葉に躓いた人々は多くいた。それはある意味無理もない、ともいえるのです。例えば主イエスは「わたしは天から降ってきたいのちのパンである。」「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」という言葉を聞いて、躓く人がいても不思議ではない。弟子の中からも去っていく人がいたというのです。

 一方で、方向違いの期待を持つ人々、一方では躓きを覚えていく人々、主イエスの伝道は絶えずこうした誤解に取り囲まれていました。

 この日迎えた群衆は、王としてキリストを期待し、歓迎していた。ナツメヤシは勝利者のしるし、凱旋将軍を迎える歓迎のしるしなのです。

 しかし、キリストはここで、先程も申し上げたように、ただ黙々とここを通り過ぎるのではなく、あえて子驢馬に乗り、群衆の歓迎を受けるのです。どうしてこの歓迎を受けるのか。ある人は、こういう主イエスの態度を芝居がかっている、と言いました。確かに、そう受け取る人もいるでしょう。

 しかし、そうではない。芝居がかっているのではない。このキリストの行動こそ、「しるし」なのです。ヨハネはそのことを書き記したかったのです。

 繰り返しますが、しるしは、それ自体にではなく、それが指さすものこそ、受けとめる必要があります。子驢馬は、力ある王、力でねじ伏せる王、戦いに勝利する王、の対極にあるものです。子驢馬は、弱さの象徴です。軍馬のような力強さや、戦いに向かわないものです。卑しさ、低さの象徴です。その子驢馬に乗って、エルサレムに入城する。それはまさに、キリストご自身が十字架へとへりくだっていく、十字架の主として入城のしるしなのです。人々が力ある王を期待するとき、あえて子驢馬に乗って入城する、それは明らかにキリストの行動による「しるし」です。しるしは、記憶のためでもあります。子驢馬に乗ってエルサレム入りするキリストの姿をここに居合わせたものは、見ているのです。記憶しなさい、そうキリストは呼びかけておられるのです。

 やがてこの群衆の中一人一人が、十字架と復活の主イエスと出会ったときに、聖霊の働きのうちに、信仰において十字架と復活の主と出会ったとき、一人一人はわかるのです。あの時、子驢馬に乗っておられた主イエスこそが、わたしたちのために十字架にかかっていかれる救い主であり、無力なままに十字架で死んでいかれるその姿こそ、わたしの贖い主、と受け取ることになるのです。それは戦車も軍馬も、弓も持たない、何も持たない、力を持たないイエス・キリストの姿です。

 子驢馬に乗ってエルサレムに入城される主の姿は、しるしとして記憶されていくのです。

 キリストは言葉で受難予告もなさり、十字架にかかっていかれることも語られた。しかしそれが受けとめられたわけではなく、むしろ、そんなことはあってはならないことだ、と躓いていく弟子たちがいた。主の歩みは、お門違いの期待と、キリストの言葉がわからず、躓いたり、無理解の中にあったり、ということに絶えず囲まれていた。しかしキリストはそれでも、語り続け、それでも人々の中で伝道の歩みをやめることもなく、歩み続けられた。そしてその中で、大事な「しるし」を人々に、わたしたちに与え続けてくださったのです。それは、今すぐにわかることを求めてのことであるよりも、わたしたち一人一人が、十字架と復活の主に信仰においてであったときに、そのしるしが指し示すものが豊かにわたしたちの中に入ってくる、受けとめられていく、恵みとして降りてくる、そのようなものとしての「しるし」でした。子驢馬に乗って、エルサレムに入城される主、その主のお姿をわたしたちも記憶しましょう。そして聖霊の働きの中で、その「しるし」をわからせていただきましょう。