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マルコによる福音書連続講解説教

2022.9.18.聖霊降臨節第16主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書14章43-65節『 裁かれる神の子 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所には、大きく分けると三つのことが記されています。一つはユダによる裏切り・引き渡し行為と主イエスの逮捕ということ。二つは弟子たちが逃げ、その後に続く短い記述なのですが、若者が逃げた、逃亡ということ。そして三つは間髪を入れずに行われた裁判。そして死刑判決、ということです。舞台は大きく変化していきます。

 

 ある神学者が人間の罪を分析して三つに分けています。一つは傲慢、一つは虚偽。そうしてもう一つは怠惰だ、というのです。傲慢というのは、神でもない人間が神の位置に自分を置こうとすることです。虚偽とは、神ではない人間が自分を神であるかのように偽ることです。そして怠惰とは、神の愛、神のまことに鈍感になることだ、ということです。

 神の子であるイエス・キリストが、神と等しい者であることに固執せず、僕の身分となり、へりくだって、わたしたちの罪の救いのため、神の御意志に聞き続け、十字架へと歩まれた。それはまさにキリストの仕える歩み、へりくだる歩み、僕の歩みでした。その歩みが十字架へと向かうまさにそこで、弟子たちの、またユダヤの人々の、人間の罪があらわになっていく。傲慢、虚偽、怠惰、という罪があらわになっていく。それは偶然の出来事ではない。たまたまそうなったというのでもない。キリストのへりくだりに照らし出されるようにして、人間の罪が明らかになっていくのです。

 ゲツセマネの祈りの後、ユダはその時を待っていたかのように主イエスのもと近寄り、予め祭司長や律法学者たちと決めていた合図としての接吻をし、主イエスを引き渡し、主は逮捕されます。ユダは止むを得ず裏切った、というよりも積極的に裏切った、ということがここを読むとわかります。どうしてユダがキリストを裏切ったのか、どんな理由があったのか、それを特定することはできないにせよ、一つ言えることは、彼が期待した救い主とは違っていたといえるでしょう。人は誰でも自分の中に、神のイメージ、救い主のイメージを持っています。朧気ながらの人もいれば、濃いイメージを持っている人もいるでしょう。ユダは自分なりのはっきりとしたイメージを持っていたのでしょう。だが主イエスがそのイメージと違ったので、彼は主イエスを引き渡した。ここで起こっているのは、たんに裏切りということだけでなく、キリストに従うものとしてのユダが、キリストを自分の意に従わせる、主客の転倒です。自分の意に即さないから引き渡す。信仰とは、神に従うことですが、ユダに限らず、わたしたちは神をも従わせようとする。自分の思う神でいてくれ、神ならなぜこうしないのか、という具合に神を従わせようとする。自分を神の位置に置くのです。傲慢です。

 居合わせた者のうちあるものが大祭司の手下に剣を抜いて切りかかったというのです。不思議なことに、名前が記されていません。その理由はわからないとしても、この行為は、そもそも主イエスを守るためだったのか、それとも単に自分の身を守るために相手かまわず切りかかっていったのか。おそらく、その直後弟子たちがみな逃げ出していることから、主イエスを守ることよりも、自分の身を守るための行為だったことが伝わってきます。さらにそれに続き、51節で一人の若者が主イエスについてきたが、主が逮捕されると、逃げ出した、という出来事が報告されています。この報告は一体何なのでしょう。この若者のことは、この福音書の最後のところで考えることにします。ただここで覚えておきたいのは、弟子たちもみな、逃げ出したということです。

 自分のためにへりくだり、自分のためにこの苦しみを負おうとしてくれているにもかかわらず、この場から逃げ出していく、その姿がここに書き記されているのです。ゲツセマネの祈りの時は、眠っていた弟子たちでした。十字架へ向かう苦しみの中で、祈り続ける主と眠っている弟子たち。それがここでは十字架へ向かう主と逃げ出していく弟子たちへと変わる。それはまさに前回の聖書箇所で主が言われた、「遠い」、に呼応するものです。もう少し踏み込んで言うと、自分自身の贖いの現場を見ようとしないということです。自分のための苦しみ、自分のための痛み、自分のための十字架を見ない。十字架を見ることは、自分を見ることになるからです。見たくない自分を見ることになるからです。

 逮捕された主イエスは直ちに大祭司のところに連行されていく。そしてその夜のうちに最高法院のメンバーが招集され、裁判を行うのです。この迅速さはどう考えても異例、あまりにも早い裁判です。一刻も早く判決を出し、処分してしまいたいからです。

 祭司長たち最高法院のメンバーは、主を死刑にするために主イエスに対して不利になる証言を捜した。しかし見つかりませんでした。多くの者が主に対して不利な証言をしたのですが、食い違っていて、証言として決め手に欠けていたのです。数人の者たちがこの男が「わたしは人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言うのを聞いたと発言しました。この時も証言は食い違ったのですが、大祭司をこの発言を聞いて主イエスに尋ねました。「お前は何も答えない。お前にとって不利な証言がなされたがどうなのか」と詰め寄ったのです。しかし主イエスは何も答えず、黙っておられた。大祭司は重ねて尋ねました。「お前は誉むべき方の子、メシア・救い主なのか」。

主は「そうだ」とお答えになる。大祭司は主イエスを神を冒涜する冒涜罪として求刑を求める。そして一同は死刑を決議するのです。

 この男は、神を冒涜している。それがそもそも最高法院のメンバーの声でしょう。神の子、キリストを自称するこの男をユダヤの最高法院は野放しにするわけにはいかない。おそらく最高法院の構成員たちは、自分たちのやっていることは、神のための働きであり、神のためにどうしてしなければならないことだと思ってしていた正義だった。しかしこの時彼らは奇しくも神の位置に自分たちの置いていたのです。この裁判で顕わになるのは、人間は神をも裁くものだということです。自分の正しさに寄りかかって、相手が誰であれ裁く。神であっても裁く、裁くだけではない、殺しもするのです。もちろん彼らにそんな自覚はない。だが、この最高法院のドラマは人間の姿を映し出している。神から遣わされた神の独り子を、神を冒涜するものだと断定し、死刑判決を下し、唾を吐きかけ、こぶしで殴りつけ、ぶん殴る。ここに、人間の罪があらわになっている。しかしキリストはここでも神の意志に聞き続け、十字架にかかる意思を貫徹していかれる。すなわち、人間の罪の闇がどれだけ深いとしても、救いの意思は救いの業は貫徹されるのです。

 最初に人間の罪は三つに分けられる、という神学者の話を紹介しました。三つに分けて考えるのは、我々が罪をより具体的に考えるためであって、罪の現実が三つにきれいに分かれているわけではないでしょう。

 ユダの裏切りということも、この三つのどれに当てはまるのか、と考えると、すべてが重なってくるようにも思われるのです。傲慢も、虚偽も、怠惰も、すべて重なってくる。確かに、ユダの中に傲慢さも、虚偽も、怠惰もあったでしょう。しかし、それは彼の意思だけでなく、もっと不気味に、彼に働きかけてくる力、聖書の語るサタンの力が働き、それに引きずられるようにして、罪を犯していくのかもしれない。自分の意思と、その自分の意思を引きずり回す外からの意思。サタンの存在をリアルに感じる人は、罪の問題で苦しんできた人なのです。よきサマリア人のたとえで、傷ついた旅人の横を見て見ぬふりをして通り過ぎた祭司とレビ人、彼らはこういう場面でどうすべきかは知っていたけれど、先を急ぐ旅だったのか、通りすぎた。その瞬間の判断において、魔がさす。魔がさすとは、悪魔が働くということです。何者かに引っ張られる。だから罪を犯した者は、自分は被害者だ、サタンによる被害者だ、というほかない時がある。ペトロは弟子の誰よりも主イエスに従う意思が強いと自覚していたけれど、主イエスの受難予告を諫めた時、主から「サタン、引き下がれ」と言われたのです。全く予想外。ペトロとしては、もっとも常識的な、大人の判断をしたと思うような発言、その発言に対して主は、サタンだ、と言われたです。ごく普通の話、その中にサタンの強力な力が発揮されている。そしてわたしたちはそれに気づくこともなく鷲掴みにされている。

 キリストが裏切られ、引き渡され、逮捕され、死刑判決を受けるこの場面、わたしたちはこの場面とどう向き合うのか。ひどいことするやつもいたもんだ、弟子たちも土壇場で逃げ出して、ひどい。しかしもっとひどいのは、裁判にかけ、裁判で判決を下した連中だ、というふうに眺めているだけだとするのなら、それはゲツセマネで眠り続けていた弟子たちと同じなのではないか。もしわたしたちが目を覚まして、逃げないで、この場面を見つめるのなら、そこに、自分の意思とサタンに知らぬ間に鷲掴みにされている自分自身の姿を見ることにもなるのです。傲慢、虚偽、怠惰の自分自身の罪に引きずられながら、見えない力に無力なまでに呑み込まれている自分自身の姿を見ることになる。そしてそれ同時に、その中で、わたしたちの罪の贖いのために、わたしの罪を負っていかれるために、十字架に向かっていかれる主イエス・キリストの御意志を、救いの御意志をわたしたちは知らされることになるのです。

 大事なことは、自分の罪を嘆き、反省を重ねることではなく、罪人であるわたしのために十字架を負ってくださるキリストの恵みに、神の御意志に、心から感謝し、そこから歩み始めていくことなのです。