-->

マルコによる福音書連続講解説教

2021.10.10.聖霊降臨節第21主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書5章21-24,35-43節 『 起きなさい 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書の4章から5章にかけては、4つの奇跡が連続しています。最初に湖での嵐を静める奇跡があり、次いで悪霊に取り憑かれた人の悪霊を追い出すという奇跡がなされ、前回のところでは12年間病に苦しんできた女性の癒しの奇跡が記されていました。そして今日の聖書箇所では会堂長ヤイロの幼い娘が死に、その娘をよみがえらせるという奇跡をおこなわれたのです。4つも奇跡が連続する。主イエスと共に歩んでいた弟子たちにとってもそれは驚きだったでしょうが、マルコ福音書の著者としては、この4つも続く奇跡の中で、キリストが奇跡を通して示そうとしていることをここで語りたいということがあっただろうと思います。今朝は聖書箇所に聞きつつ、奇跡そのものについて、奇跡がわたしたちに語りかけるものについて思い巡らしていきたいと思います。

 そもそもキリストはなぜ奇跡を起こされたのか。ここで読んでわかることは4つとも、状況に迫られて主がなされた奇跡だったということです。嵐の中の弟子たちも、悪霊に取り憑かれた者も、12年間病で苦しんできた者も、自分ではもう何もできない、行き詰まっている。まさに窮地にある人々との出会いの中で、主は奇跡を起こされておられる。デモンストレーションとして奇跡を示威する、ひけらかすというようなことではなく、人間の行き詰まりの中での奇跡だった、ということです。

 そのうえで、これら4つの奇跡を注意深く見ていくと、大事な共通点があることに気づかされます。その一つは、これらの奇跡は、わたしたちをスーパーマン、スーパーウーマンにする奇跡ではない、ということです。具体的にどういうことか。

 例えば4章の奇跡、舟に乗っていて激しい風が吹いてきたときの奇跡、それは嵐を静めるという奇跡でした。弟子たちが嵐の中でも何の動揺もしなくなり、弟子たち自身を嵐を静める者にする、という奇跡ではない。つまり弟子たちをスーパーマンにする奇跡ではなかった。続く悪霊を追い出していただく奇跡は、彼が二度と悪霊に取り憑かれないものとなる、という奇跡ではない。そのことがよくわかるのは、三つ目の12年病気だった女性の癒しの奇跡です。なぜなら、彼女はこの後病気にならない人になったわけではないからです。彼女はこの後ふつうに病気になったでしょう。キリストが起こされる奇跡には明らかに特徴がある。嵐に遭わない人にする奇跡でもないし、悪霊を絶えずはねのける強い人間にする奇跡でもなければ、病気に二度とならないような超人にする奇跡でもないのです。では一体何のための奇跡なのか。もっと言えば、何を受け取るための奇跡なのか、ということです。

 主イエスのところに会堂長の一人でヤイロと言う人がやってきました。会堂長というのは会堂の管理責任者で、人望のある信徒でした。彼は自分の娘が死にそうなことを主に告げ、娘のもとに来ていただき、手を置いてほしいと願った。そうすれば助かると彼は信じていた。ところが、ヤイロの家に行く途中、群衆に押し迫られ主イエスは自分に触った女性を捜し、彼女と出会われた。おそらくヤイロは気が気ではなかったでしょう。主イエスが病気を癒した女性と話している時、ヤイロの家の者が来て、「お嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう。」と告げました。ヤイロが主イエスのもとに来て娘を助けてほしい、と願ったは主イエスの力を、奇跡を起こす力を信じてのことだったでしょう。しかし死んでしまった以上もう何もできないし、何をやっても無駄、そうこの人は思っていたし、ヤイロもそう思っていたのではないか。

 しかし主イエスはその知らせを聞いて尚、「恐れることはない。ただ信じなさい」そう言われたのです。主イエスは3人の弟子を連れて、ヤイロの家に向かいました。人々が来て大声で泣いていた、というのですから、あるいは葬儀の準備が始まっていたのかもしれません。

 そこでキリストは人々に向って「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」と言うのです。人々は主イエスの言葉を聞いて嘲笑った。もう何をやっても無駄だと、人々も思っていたからでしょう。

 主イエスの周りの人たち、その人たちはヤイロの娘を死なないで助かるようにしてほしいと思っていた。しかし、今日見てきたようにキリストのおこされる奇跡は、そのような質の奇跡ではなかった。ヤイロの娘を一時的にでもスーパーウーマンにするような奇跡をキリストは起こされてはいないし、する気もなかった。

 今ここで死なないで助かる、それは今日わたしたちが医学に求めていることです。つまり人間の可能性の中で求めることです。キリストが起こされる奇跡は、人間の可能性の中でのことではない。わたしたちはそのことをよくよくわきまえておかなくてはならない。

 

 キリストがここで起こされた奇跡は、「死んでも生きる」奇跡です。「死んでも生かされていく」奇跡です。死んだ、ということは人間の可能性が断たれたということです。キリストがなさるのは人間的な偉大な力ではなく、神の奇跡です。それは人間の可能性が断たれても、それを超えて働く奇跡です。

 ヤイロの娘は死んだ。周りの人たちが「先生を煩わすには及ばない」、つまりもうやることはない、と言った。人間的な可能性は終了ということ。後は弔うだけ。しかしキリストはその人間の働く余地のないその場所で、神の働き給う奇跡をなさるのです。死んだ、けれども神との関係は死なない。絶たれない。神は死んだものをも生かし、神との関係の中に置き続けてくださる。少女が「起きなさい」と言われてよみがえったのは、神が死んだものをも生かし続けてくださるということを指し示す奇跡なのです。

 「子どもは死んだのではない、眠っているのだ」というキリストの言葉は、少女は仮死状態なのだ、眠っているだけだ、と言っておられるのではない。確かに死んだのです。しかし神においては、死んだということではないのだ、神がこの娘をその関係の中に置き続けてくださっている、生きた関係の中においてくださっている。そのことをキリストは表現しておられるのです。

 嵐を静める奇跡、悪霊を追い出す奇跡、12年も出血が止まらない女性の癒し。それらの奇跡は、このヤイロの娘の奇跡につながる奇跡なのです。

 嵐を静めることも、悪霊を追い出すことも、人間の力ではできないことです。しかし誤解のないように言うなら、人間の力を超えた、人間の力を少し超えた超人的な業、なのではない。人間の可能性とは全く違う可能性、神の可能性の中で、神の働きの中でこれらの奇跡をおこなわれたということです。

 そしてヤイロの娘の奇跡は、イエス・キリストの十字架での死、そして復活を指さす「しるし」に他ならないのです。つまり、キリストが起こす奇跡は、最終的にキリストの復活、を指し示すしるしなのです。

 つまりキリストのなさる奇跡は、奇跡的現象において指さす事柄そのものが大事だ、ということです。十字架と復活が物語る神の信実を受け取ることこそがわれわれの救いだからです。

 舟はまた嵐に会うし、わたしたちは生きていく中で困難にたびたび遭遇する。危機にも直面する。キリスト教信仰を仮に持ったとしても、それで嵐に遭わなくなるわけでも、困難にぶつからないわけでもない。キリストは福音書の奇跡を通して、嵐に遭わない人ではなく、嵐の中でも神のいのちに活かされ、神の招かれる関係の中にあることを指し示された。奇跡は「しるし」。神の恵みの中にわたしがあることの「しるし」。神の恵み、神のいのちの中にあるということそれこそがまことの奇跡。奇跡現象はまことの奇跡を指さす「しるし」なのです。ヤイロの娘の奇跡は、たとえ死に直面しても、神の働きの中におかれ続ける、神との生ける関係の中におかれ続ける、ということを指さす出来事なのです。