教会暦・聖書日課による説教
2025.1.5.降誕節第2主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書16章1-12節 『 しるしを見る心 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は、1節から4節までの話と、5節から12節までの話の二つの話からなっています。この二つの話は、全然別な話が時系列的に並んでいるのか、それとも互い深く関係しあっているのか、素朴な疑問を持たれた方もおられることと思います。今日の礼拝では、この二つの話を続けて読むのですから、疑問を持つのはある意味当然ともいえます。そして疑問を持つだけでなく、この二つの話の関連性を考えてみることは、とても大事なことであり、主イエスのみ心をさらに踏み込んで尋ね求めることに繋がっていくのです。
一つ目の話は、ファリサイ派とサドカイ派の人々がイエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った、ということから始まった話です。ファリサイ派とサドカイ派とではいろいろ考えは違うのですが、おそらく対イエスと言うことでは一致していたのでしょう。イエスに対して、天からのしるしを見せてほしい、ということは「お前は何者なのか、本当に神の子なのか。もしそうだというのなら、その証拠を見せてみろ」ということです。見せてほしい、ということは見ていないという自覚があったということです。イエスが神の子であるというしるしを自分たちは見てはいない。見せれるわけがないだろう、という気持ちだったかもしれない。律法の専門的な教育も受けていない、宗教的な特別な訓練を受けているわけでもない。何のユダヤ教の権威もない男が、傍若無人に振舞っている。ファリサイ派やサドカイ派の目にはそう見えていたのではないか。
それに対して主イエスは「邪悪で不義な時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と応えておられる。しるしに対してとても否定的な発言をしておられるのです。マルコによる福音書にも主イエスの「しるし」に対する発言が記されているのですが、その場面では、「今の時代の者たちには決してしるしは与えられない」という完全に否定するような発言をしておられるのです。どうして主はこのような発言をなさったのでしょうか。
しるしというのは、日本語でもそうですが、実に多様な意味があります。しかし今ここではファリサイ派やサドカイ派が言っているのはとりあえず証拠としてのしるしです。彼らが求めているしるし、それは彼らが納得する証拠ということですが、それはむずかしい話を割愛して言えば、彼らの側の納得、人間の側の承認です。主はヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない、と言われました。つまりヨナのしるしは既に与えられているということです。けれどそのしるしを与えられたしるしとして受けとれないのなら、しるしは与えられない、と言っておられるのです。
そもそも、主イエスのこれまでの歩み、言葉、わざ、五千人にパンを与えたこと、湖の上を歩かれたこと、病人を癒したこと、山上の説教における主の言葉、そのすべてはしるしでもあるのです。主イエスを信じ、救い主、神の子として仰ぐものにとって、言葉も業も、すべてしるしであるのです。しかし、そのしるしをしるしとして受けとることなく、しるしを求めるファリサイ派とサドカイ派の人々。これは何を意味しているのか。それは、自分の納得と承認以外のしるしは認めないということです。神から示される、神から与えられるしるしに心開かれていくのではなく、あくまでも自分の声に聞こうとしているということです。
しるしは既に与えられている。ヨナのしるしだけでなく、イエス・キリストがお生まれ下さったことも、その言葉も、わざも、皆しるしです。そのしるしの存在に気づかないのなら、しるしは与えられない、と主イエスは言われているのです。
5節からの話は、主イエスが弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派のパン種に十分注意しなさい」と言われた。その時、弟子たちは自分たちがパンを持ってくることを忘れた、そのことを主が指摘されたと思って議論したというのです。そこから起こってきた話です。弟子たちは主イエスの言葉を勘違いして聞いた。しかしただたんに勘違いの問題ではない。これまで出来事や話を聞き取っていなかった。主が言われたファリサイとサドカイのパン種とは、弟子たちが今パンを持っているかどうか、というようなことではない。パン種とは今でいうイースト菌のことですが、それは少量であってもパン全体を膨らませるように、ファリサイ派やサドカイ派のイースト菌が入ってくれば、その考えが聞いたものの中で膨れて、やがてはその考えの中に自分があることも気づかなくなっていくようなものです。
それは、まさに1節に出てきた彼らの考え方そのものです。イエス・キリストが神の子であるかどうか、自分たちの判断基準で、考えで判断するということです。神からのものかどうか、それを判断する基準が自分であるのなら、結局は神の声に聞こうとするのではなく、自分の中の声を聞いて確認しているだけのことになるのです。そういう考え方、物の見方、それがファリサイ派のサドカイ派のパン種なのです。
けれどもそれはファリサイ派やサドカイ派の人たちだけでなく、わたしたちの中にもある考えであり、物の見方なのではないでしょうか。
神は私たちに語りかけています。しかしわたしたちはこの聞いた神の言葉を、自分の考え判断を基準に受け取り、聖書を読んでも神の御言葉に聞くのではなく、自分の考えに聞いているだけということも少なくないのです。
例えば。イエス・キリストは一人の律法学者の問いに、あらゆる掟でどれが第一ですか、律法の中でどれが一番大切なのか、という問いに対して、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くして、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の戒めはこれである。隣人を自分のように愛しなさい。」と言われました。
この主イエスの御言葉に聞くとは、どういうことなのか。この主イエスの御言葉を自分の判断を優先して聞かない、ということです。そもそもこのような教えは自分にはできないと判断してしまうことは、御声に聞く以前に自分で判断して、自分で収束させてしまうことです。あるいは、心を尽くして、魂を尽くしてとはどういうことなのか、今の自分の中ではこの程度のことができれば、神を心尽くして愛することだと、自分でルールを決める、それはまさに自分の判断、自分の声を優先していることになるでしょう。逆にこういうことはあまり考えないでおこう、という態度も自分の判断を優先させている以外の何ものでもない。この第一の戒めを聞くためには、わたしたち自身主イエスの愛について、神の愛について繰り返し尋ね求めることが求められる。何が心を尽くすことなのか、旧新約聖書を通して聞くことがまず求められる。第二の戒めも同様です。隣人を自分のように愛すると言われると、できない自分という考えを優先させそうになるが、それ自体がここで言われるファリサイ派のパン種なのかもしれない。
「まだわからないのか、覚えていないのか、五つのパンを五千人に分け、なお幾つの籠に集めたのか」という主イエスの言葉はパンの奇跡は何のしるしだったのか、と問いかけている言葉です。パンの奇跡からあなたは何を受けとめ知らされてきたのか、と問いかけられているのです。パンの奇跡はわたしたちに徴としても多様な意味を持っています。たとえば、神の偉大な力、キリストの力のしるし、そしてキリストがわたしたちにいのちの糧を与えてくださる、というしるし、そしてキリストが十字架にかかり、復活のいのちを与えてくださるという約束のしるし。さまざまなしるしがそこにはある。もしわたしたちがそのしるしを受けとめて、主のみ言葉に聞くのなら、わたしたちの力では凡そ不可能な神への愛、隣人への愛も神から与えられる力で道が拓かれていく、ということになるでしょう。だからわたしたちは自己判断としては、神への愛も、隣人への愛も不十分だったり、できなかったり、挫折のくり返し、と言わざるを得ないとしても、なお神の御力の働きを仰ぎ見て、そのしるしが与えられているものとして、神にある可能性の中でみ声に聞くのです。
「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」その時弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイの人々の教えのことだと悟った。弟子たちのみならず、わたしたち一人一人の中に、ファリサイ派とサドカイ派のパン種は深くしぶとく浸透しています。それは結局のところ自分の考え、人々の意見、人間の判断に固執するという極めて厄介なパン種です。先ほども申し上げたように、どの程度このパン種に侵食されているか、それすらわからなくなってしまうのです。結果、神が与え給う、イエス・キリストが示したまうしるしに対して、鈍化して、しるしとして受けとめることができなくなってしまう。
このファリサイ派のパン種に侵食されないために大事なこと、その一つの事を申し上げたいと思うのですが、それは、主のみ言葉にていねいに、じっくりと聞く、ということです。信仰を持って聞く、ということがよく言われますが、その信仰は御言葉を聞く中で、神の働きによって与えられていきますから、み言葉に聞く、というわたしの姿勢、生き方が根本問われていると思います。み言葉に聞くことは、わたしたちの根本的な生き方です。み言葉に聞かなければ、その人はそこで自分の判断や理解に頼るようになっていきます。まさにパン種の沼に嵌っていくのです。み言葉に聞く、そのためには、自分の目で、心で、魂で、読み、考え、祈り、聖書を貫くものに触れていかなければなりません。好きな聖書箇所ばかり読むというのは、お分かりのように、自分の判断を優先させていくことに繋がっていきます。それもパン種です。聖書のみ言葉に、丁寧に、じっくりと、しぶとく、根気強く聞く。自分の考えにとらわれないためには、学ぶことが必要です。教会の礼拝で、祈祷会で、み言葉に聞き学ぶことはわたしたちの生き方に関わることです。み言葉に聞きたいと思う時も、聞きたいと思わない時も聞くことが大事です。聞きたい時だけ聞くのは、まさに自分の判断を優先させているのです。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」主イエス・キリストのこのみ言葉に深く聞き、歩んでいきましょう。