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マタイによる福音書連続講解説教

2026.2.15.降誕節第8主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書26章69-75節『 ペトロの否認 』

菅原 力牧師

 あまりにも有名なペトロの否認の場面、出来事です。主イエスが逮捕されると、弟子たち全員が主イエスを見棄てて逃げ去りました。けれどもペトロは先週見たように、遠くから主イエスの後について、成り行きを見届けようと裁きの行われる大祭司の邸宅まで行くのです。それは人波に紛れて、ということだったでしょう。そして、多くの人々の中で中庭に座っていたのです。すると突然、一人の女が近寄って来てペトロに語りかけてきた。この人は召し使いの女とあるのですが、元の言葉では女奴隷と記されています。その人がペトロに向かって「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と声をかけてきたのです。「あんたもガリラヤ人イエスと一緒にいたでしょ」そう声をかけてきたのです。ペトロはこの突然の自分への声掛けに驚きます。それはそうです。大勢の人に紛れてこの場所に潜り込んでいるのに、突然自分に向って、この人は逮捕された人と一緒にいた、と声をかけてくるのですから。仰天してパニックになったのかもしれない。おそらくその場にいた人々の視線がペトロ一人に集まったのではないか。ペトロはすぐさま皆の前で打ち消して「何を言っているのか、わからない。」と言ったのです。打ち消してと訳されている言葉、否んで、否認して、否定して、と言った方がいい言葉です。ペトロの言葉も「俺はお前が何を言っているか、知らん」が直訳です。

 ペトロが門の方へ行くと、つまりペトロは一刻も早くその場を逃げようとして門のところへ行ったのです。すると他の女奴隷が彼に目を留め、居合わせた人々に「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言ったのです。つまり最初の女奴隷はペトロに向かって声をかけた、しかし二人目の女奴隷はそこにいた人々に向かってつまり大声で言ったのです。中庭にいた人々の視線はさらにペトロに釘付になったでしょう。ペトロの心臓は激しく鼓動したのではないでしょうか。ペトロは混乱どころではない状態になったのではないか。「そんな人は知らない」と誓って打ち消した、とあります。誓いつつ、否定した、という言葉です。ユダヤ人が誓うのですから神に誓うのでしょう。神に誓っていい、俺はそんな人は知らない、と言ったのです。イエスのことは知らない、ではなく、「そんな人」、と言っているのです。自分とは関係ない人、という意味が込められた表現です。

 おそらくペトロはこの時、門の外に逃げ出したかった。猛烈な勢いで走り出して門の外に逃げたかった。しかしその場にいる人たちは皆ペトロを見ているのです。ここで走って逃げだせば、とことん怪しまれる。イエスと一緒にいた人間であることを自分で証明しているようなものだ、と思ったのではないか。

 そんなことを思いめぐらして中庭に立ち尽くしていたのではないか。すると、その場所にいた人々が「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉の訛りでわかる。」八方塞がりで圧迫されるように、あちらからも、こちらからも、ペトロに向かって言葉が投げかけられた。言葉の訛り、ガリラヤの方言ということです。イエスがガリラヤ人と表現されているように、ガリラヤの言葉を使う、お前も同じ方言であり、イエスの仲間だ、と迫ってきたのです。ペトロはその時、呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めたのです。ペトロはいったい何を呪っているのか。二つのことが考えられます。一つは、もし自分の言っていることが嘘なら呪われてもいい、という使い方。もう一つはイエスを呪う、そんなイエスという者は呪われよ、と使い方。おそらくここでペトロはイエスのことを呪ったのではないか、と解釈するものが多い。すると、すぐ鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないというだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 これがペトロの否認の出来事です。決して長くはない出来事、ある意味あっという間の出来事なのですが、読む者の胸に深く突き刺さってくる場面、胸を抉る場面なのです。忘れることのできない場面です。そしてここでいろいろなことを考えさせられていくのです。 弟子たちの中の中心的な人物であるペトロが、主イエスを三度も否認する。しかもその否認は、なんとなくごまかす、というようなことではなく激しい否認へと向かったのです。後には教会の領袖、中心的な指導者となったペトロのこの姿をこれまで教会はどう受けとめてきたのでしょうか。

 その歴史を振り返ると、古代また中世においては、なるほどペトロは否認したけれど、信仰を失ったのではなく、その後に誠実に悔恨(かいこん)、あやまちを悔いた、というラインで理解されてきました。ペトロはこの後教会の指導者になった人です。ペトロの信仰は転んだが、それによって自分の力で歩んでいる人間ではないことをはっきりさせたという意味で象徴的だ、というのです。つまりペトロの否認は事実だが、あやまちを悔いたということにアクセントを置くのです。カトリック的な解釈のラインです。

 しかしその解釈には素朴な疑問も残ります。ペトロはあやまちを悔いた、というけれど、聖書にはそうは書かれていない。聖書が記しているのは、鶏が鳴き、ペトロはその鳴き声で主イエスが「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」という主の言葉を思い出して激しく泣いた、ということです。なぜペトロは泣いたのか、主イエスを裏切ったことか、それとも、主があなた方皆わたしにつまづくと言われたときに、たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません、とペトロは言った、それにもかかわらず、自分は知らないと言って否認した、その自分の弱さを泣いたのか。

 キリストを裏切ったことを悔いた涙だとすれば、この後のペトロの行動態度は違ってきたのではないか。実際ペトロはこの後キリストの後に従ったわけでも、十字架のもとにいたわけでもない。外に出て逃げていった、と考えるべき。そうだとすれば、ここでのペトロの涙はキリストに向かう悔い改めの涙でも、悔悛の涙でもなく、自分自身への涙とみるべきで、古代、中世的な解釈は無理な点が多いのです。

 宗教改革以後の解釈で特徴的なのは、この物語におけるペトロの悔恨、涙をそれほど高く評価しない、という読み方です。別に称賛するようなことでもなく、情けない自分、脆い自分に涙した、おれってどうしてこんなにダメ人間なんだ、という悔恨であり、賞賛すべきことというようなものではない。この物語において大事なことはペトロではなく、イエス・キリストの恵み、イエス・キリストの信実なのだ、という理解です。

 主はペトロの否認を予告された。正確に知っておられた。それはペトロという人間の弱さ、脆さ、信仰の小ささ、その全部を知っておられたということです。しかし主イエスは知っておられたうえで、だからペトロ、お前はダメなんだ、と言われたわけではない。知っておられて、だからお前も他の弟子と変わらずしょせん裏切り者なんだ、ということを言われたわけではない。

 むしろ主はルカ福音書によれば、あなたの信仰がなくならないように、わたしはあなたのために祈った、と言われる主なのです。キリストはペトロの最も弱い存在を受けとめ、その存在がキリストの愛と恵みによって活かされることを願っておられたのです。事実キリストは復活後、再び逃げ去り裏切っていった弟子たちのところに行かれ、彼らに語りかけていかれるのです。

 ペトロのキリスト否認は小さなことではないでしょう。キリストに愛され続けてきたにもかかわらず、キリストを否認した人間の罪です。汚点です。だからこそ福音書はどの福音書もこのペトロの否認を記録しているのです。忘れたりしていない。けれどもこの罪の物語においてもわたしたちが受けとるべきは、この人間の罪よりも大きな、キリストの愛、信実があり、そのキリストの物語がペトロの物語を覆っているということです。

 女奴隷の言葉は、「あんたもガリラヤ人イエスと一緒にいた」でした。もう一人の女奴隷も、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。「一緒にいた」ということを問い、ペトロはそれに対して、「知らない」と応えたのでした。お気づきの方もおられると思いますが、マタイ福音書のキーワード、鍵となる言葉の一つは「一緒にいる」「共にいる」、ということです。この福音書のはじめと終わりにはインマヌエル・神はわれらと共におられるという言葉が記されています。つまりそれはこの福音書の骨格、全体をまとめるキーワードなのです。

 キリストがこの世界に来られた、ということは、神はイエス・キリストにおいてあなた方といつも一緒だ、ということの徴です。実際この福音書には一緒にという言葉が繰り返されています。

 ペトロはそのキリストと一緒だ、という事実を自分から否認し、自分から足らないと言った。インマヌエルの事実を自分から否認し、その関係を自分から崩壊させようとしているのです。まさしく人間の罪です。神との関係を自分の方から壊していく、ないものにしていく。

 しかしキリストは人間の罪によっても崩れないインマヌエルを与え指し示すためにこの世に来られた。十字架に架かられた。ペトロの罪は深い。しかしキリストの十字架はその罪よりも深く、インマヌエルの恵みはなおその罪の中でも変わることなく、わたしたちに与えられる。ペトロはこの時、その恵みに気づいていない。ただ自分の弱さに涙しているだけ。しかし、このペトロのためにも、主はこの世界に来られ、十字架に架かられ、インマヌエルの信実を与え続けられた。ペトロがそのことに本当に気づかされた時、このペトロ否認の物語は、たんなる罪の物語ではなく、人間の罪の中でも与えられるキリストの希望の物語であることがペトロ自身に受けとめられていったのだと思います。