教会暦・聖書日課による説教
2025.4.20.復活祭主日礼拝説教
聖書:ヨハネによる福音書20章1-18節『 復活の朝 』
菅原 力牧師
福音書には忘れることのできない印象を、わたしたちに残していく女性たちが登場してきます。そのうちの一人がマグダラのマリアと呼ばれる女性です。マグダラは土地の名前なので、マグダラの町出身とか、マグダラに住むという意味で、マリアという名前は多い名前だったので、区別する必要からそう呼ばれたのでしょう。
彼女のことは、どの福音書にも記されているのですが、ルカによれば、主イエスによって七つの霊を追い出してもらって、救われた女性でした。七つということは、あえて言えばさまざまな悪霊に取りつかれていたということです。悪霊が一つ入り込んできただけでも、その人は悪霊に引きずり回されます。それが七つ。驚きます。その状態からキリストによって悪霊を追い出していただいて、救われた。もう一度自分を回復し、生き直す者となった。どんなうれしかったでしょう。ルカ福音書によれば、主イエスによって福音に与ったほかの女性たちと共に、自分たちの持ち物を出し合って、主イエスの一行に仕えていました。
以後彼女は主イエスに従って歩んだのです。キリストが十字架につけられたその時、12弟子はもとより、ほとんどの弟子たちが逃げ出した後も、十字架のそばに立っていたのです。十字架のそばに立つことそれ自体、身の危険を顧みない行為行動だったでしょう。彼女はまさしく主イエスにどこまでも従っていく弟子であったのです。それだけに彼女の受けた衝撃は大きく深かったのではないか。目の前で刑死していく主イエスの姿は単に無残というだけでなく、主イエスに悪霊を追い出していただき、新しくされた人生を主イエスに仕えて歩もうとしていた、そのすべてが奪われてしまった残酷さがあったでありましょう。
彼女は主イエスの十字架の死を見届け、主のご遺体がアリマタヤのヨセフによって引き取られ、墓に納められたことをも見届けたのでしょう。
週の初めの日、すなわち安息日があけるとすぐにマリアは墓に向かった。すると墓から石が取りのけてあり、彼女はすぐに弟子たちのところへ走った。二人の弟子が墓に走り、墓の中に入ると、遺体はなかった。主イエスが十字架にかかって死んだこと、そして今主のご遺体が何者かによって取り去らされたこと、そのすべてが彼女を失望へと、絶望へと、悲しみへと追いやった。彼女は墓の外に立ち尽くして泣いていた。彼女はせめてご遺体の世話をして、手厚く主イエスを葬りたいと願っていたのでしょう。しかし今、それも叶わず、墓の外で泣いているのです。
墓の中をのぞくと、二人の天使が座っていた。マリアに二人の存在が天使とわかったのかどうか、わかりません。しかし二人はマリアに尋ねてきました「女よ、なぜ泣いているのか」。マリアの行動は泣きながらの行動だったのでしょう。
マリアは応えます。「誰かがわたしの主を取り去りました。どこに置いたのか、わかりません。」マリアは自分が泣いている訳を語ろうとするよりも、主の遺体がないことを訴えのです。彼女は遺体が墓にないことを訴えているのです。
マリアの涙も、悲しみも、わたしたちに伝わってきます。墓の前泣くほかなかった彼女の無念も伝わってくるのです。
彼女は主イエスが死んで、すべてが断ち切られたと思ったからです。まして遺体もない今、彼女はすべての失った喪失感の中にあると言えるでしょう。けれど彼女は主イエスと共に歩んで、主の言葉を聞いてきた人です。主の福音に聞いてきた人です。十字架も、聖霊が与えられることも皆聞いていた人です。しかし12弟子たちに代表されるような弟子たちがそうであったように、聞いていたのに、聞いていなかった。マリアが受けとめてきたのは、地上を歩む主イエスであり、地上のいのちを生きる主イエスであり、この世界の中の主イエスであった。主イエスはこの世界を超えて、すなわち生死を超えて働く神の業を語りかけてくださっていたけれど、マリアはそれを聞いていなかった。聞いて聞いていなかった。それは実はわたしたちにもよくわかることではないでしょうか。自分の聞きたいことだけ聞いている。自分の了解できる、自分が信じたいと思っていることだけを聞いている。だから聞いているけれど聞いていないということはしばしば起こるのです。
14節「こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとはわからなかった。」とても象徴的な文章です。
マリアは墓の中を覗き込んでいたのです。それは簡単に言えば死の世界です。死の世界を見つめて、主イエスの遺体を探していたのです。生きて語りかける主イエスではなく、死んだ主イエスの亡き骸を探していたのです。けれども、マリアが見つめていた方向とは全く違うところに主イエスは立っておられた。
マリアは振り向いて立っている人がいることには気づき、その人を見たのです。しかしイエスだとはわからなかった、というのです。マリアは、主イエスを死んだ者の中に見つけだそうとしていた。そのマリアの目には、復活の主イエスは見ているのだが、見えていない、というのです。
マリアには誰かわからないその人が声をかけるのです。「女よ、なぜ泣いているのか。」マリアは、園の番人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアの気持ちがよく伝わってきます。遺体を運んだなら、言ってほしい。わたしが引き取って、わたしが葬る、そう言うのです。
マリアは地上の主イエスと出会った人です。ただ出会っただけではない。主に悪霊を追い出していただき、その恵みを自分の心とからだで感じ、受けとめ、それだけでなく、主イエスの愛と信頼を受けて、それに応えて歩んできた人なのです。文字通りの信者なのです。イエスを知っている、見ている、理解している、そう思っていたでしょう。だが復活の主イエスに出会うということは、これまでの延長線上では、わからないのだということです。それでは主と出会うことはできない、ということをこの出来事は物語っているのです。
主イエスはここで「マリア」と呼びかけるのです。
その存在も、その声も、マリアの背後から聞こえたのです。ヨハネ福音書は振り向くという言葉を二度繰り返しています。マリアの見ている方向ではなく、見ていない方向、そこから声が聞こえてきたのです。
聖書を読んでいる時に、わたしたちも経験するのです。それは聖書を自分の経験や、知識や、自分の感性で読もうと躍起になっている時に、自分が見つめている方向とは全く違う方向からの向こうからの呼びかけの声に聞いていないのではないか、ということです。時には自分の一生懸命が死角をつくり出していることに気づいていない自分がいるということです。では聖書を読んで何に聞いているかと言えば、自分の声に聞いているのです。
マリアは今、自分で決めつけていた、これでしかないのだと思い込んでいる自分の中からの声ではなく、自分の外からの声を聞いたのです。これはきわめて象徴的な出来事です。
マリアはここで主イエスに出会った。「ラボ二」というのは先生という意味の言葉なのですが、それは彼女が主に従っていた時の呼びかけだったのでしょう。
しかし不思議にも主はこう言われるのです。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。」なぜ主がこう言われたのか。主イエスとの再会は主の地上の生の延長ではない。長くどこかに旅していた人が帰って来ての再会ではない。主イエスは死んで、神によって甦らされたのです。懐かしい友との再会を喜ぶようであってはならない、神の偉大なる働きに心を向けなさい、ということなのではないでしょうか。まだ父のもとへ上っていないのだから、ということは甦らされた主が父のもとへ帰って栄光をお受けになる、そのことをすべて含んだ神の業に目を向けなさい、と言われているのです。復活の主イエス・キリストとの出会いは、まさしく神の働き、神の業に出会うことに他ならないです。
わたしのきょうだいたちのところへ行ってこう言いなさい、と言って主が他の弟子たちに伝えようとした言葉も、あなた方の父なる方、あなた方の神である方のところへ私は上る、神に目を向けることが強調されている。
この世界は、復活の朝を迎えて何も変わっていないように見えるかもしれない。確かにこの世界を墓の中を覗き込むようにして見ている限り、そうなのかもしれない。しかし、わたしたちの住むこの世界に、神は復活の主を与えたもうた。それはまちがいなく、生死を超えた神が生きて働き、この世界に神の信実を示したまうたということなのです。主イエス・キリストをよみがえらせ給う神は生きて働いておられる。その安心と恵みの中で、わたしたちはこの世界を生きるのです。「すがりつくのよしなさい」とは、古い世界、墓の中の世界にすがりつくのはよしなさい、ということなのでしょう。
マリアは弟子たちのもとへ行き、「わたしは主を見ました」と証言しました。キリストの呼びかけに聞き、自分の見ていた世界ではなく、キリストに向き直り、神の働きを心を開き始めたマリアがここにいるのです。マリアは復活の証言者として歩み始めた。そこには、キリストの呼び声に聞いて、復活の主と出会った者の喜びが、あるのです。