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マルコによる福音書連続講解説教

2021.8.8.聖霊降臨節第12主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書3章20-30節 『 悪霊を追い出す 』

菅原 力牧師

 「悪霊」という言葉を聞いて皆さんはどんなイメージを持たれますか。なかなかイメージを持ちにくいという人もおられると思います。そもそも、悪霊はわたしたちにとってそれほど馴染みのある言葉とは言えません。聖書を読み始めて、はじめて「悪霊」というものの存在を知った、という人もいるでしょう。ちなみに手元にあるコンパクトな国語辞典ではどれも「悪霊」(あくれい)という言葉は見出し語にありません。「悪霊」(あくりょう)という言葉は出てきて、人にたたりをする死人の霊という語釈が出てきます。つまり悪霊(あくれい)という言葉は日本語としてはまだ認知されていない、ということです。しかし、あくりょうと混同されない、という意味ではとてもいいことで、聖書が語る悪霊に白紙で聞くことができる。

 それにしても福音書には悪霊というものがたびたび出てきます。たびたび出てくるだけでなく、イエス・キリストは悪霊とのバトルや、悪霊の追い出しということに、多くの時間を割き、避けることなく向き合っておられるのです。イエス・キリストにとって、悪霊と向き合って悪霊を退けていくことは、その伝道活動の中で必然的に起こってくること、避けられないことだったのです。

 今日は、ここで悪霊のことについて少し整理しておきたいと思います。まず最初に悪霊の働きについてなのですが、悪霊の働きの中心には神と人とを離れさせようとする、という働きがあります。信じなくさせる、神がいてもいなくても同じようなものだと感じさせる、神がいなくても人はやっていけると思わせる、さまざまな面がありますが、とにかく神と人間を分離させる、そこに悪霊の働きの中心があります。二番目に、悪霊の在りよう、存在の仕方なのですが、悪霊は、それ自体で存在するというよりも、何かに寄生する、取り憑いて存在していく、という性格があります。人に取り憑くことでその力を発揮する。たとえて言えばウイルスのような存在です。イエスによって追い出された悪霊が豚の中に乗り移させてくれ、と頼む場面があります。乗り移った悪霊は二千匹ほどの豚の中に入ったというのです。凄まじい数の悪霊が人間の中に入り込んでいる、ということです。また一旦は人から追い出された悪霊が、行き場を失い、どこへ寄生しようかと彷徨い、挙句元居た場所に戻ってみると、その人の中は掃除がしてあり、空き家になっていて、整っていたので、ここは住みごごちがよいということで、他の悪霊仲間も引き連れて、その人の中に住み着いた、という話が出てきます。悪霊を追い出しても油断すれば、悪霊がまた住み着く、いや以前よりももっと多くなって住み着くというリアルな話です。悪霊は自立するものではなく、誰かのどこかに取り憑いて、住み着いて生き延びる。悪霊はいくらでも姿を変えて、人間の中に住み着こうとするのです。

 三番目に、悪霊の働き方なのですが、人間の罪と巧みに共同作業をする、ということです。人間には罪があります。確かにこの罪が人間の悪を引き起こしていくのですが、悪霊は人間に住み着き、人間の罪に巧みに働きかける。

 創世記のはじめのところで、エデンの園にいた女・エバに最初に蛇が語りかける。「神は本当に園のどの木からも取って食べてはいけないと言われたのですか」女はそれにこたえる、そして蛇もまた語りかける。その会話を通してエバは木の実を食べる。単純に唆された、とも言えない。彼女の意志で食べる。食べたそこには彼女の罪がある。しかしその罪を引き出していったのは、蛇の言葉です。巧みな共同作業です。

 わたしたちは自分の中で、気づいている時に、しかし多くは気づかないうちに自分の罪と悪霊のさまざまな交渉が進んでいる。そしていつの間にか深みに引きずり込まれていく。

 新約聖書が書かれた時代、人々は悪霊の存在をリアルに感じていたでしょう。リアルというだけでない、生々しいものとして、感じていた。自分の中で今こうしている時も悪霊が働いている、という実感です。

 現代、わたしたちは聖書の時代の人々と同じように感じることは、むずかしい、と思うのは、いろいろな理由があるでしょう。しかし人間の悪の問題も、人間の罪の問題も、この世からなくなったわけでもなんでもない。古代の人々の表現に戸惑いながらも、わたしたちが聖書が語る悪霊の働きにじっと目を凝らしていくと、現代においても事情は何ら変わらないことがわかってくるのです。

 主イエスの伝道活動において、福音を宣べ伝えていくことと、それに対抗する者としての悪霊が、ぶつかり合っていくことが必然だった。なぜなら福音は、神と共に生きることを、イエス・キリストともに歩むことを目指すものであり、悪霊の働きは、神と人間の分離を目指すものだからなのです。

 主イエスの伝道活動が進む中、先週も見たように、群衆が押し寄せ、主イエスをはじめ弟子たちは食事をする暇もないほど、人の渦の中に巻き込まれていました。そうした中で、主イエスの身内の者たちが、「あの男は気が変になっている」という噂や風評を聞きつけて、取り押さえに来ました。この家族の問題は、次回の聖書箇所で詳しくお話ししますが、その背景には主イエスの悪霊の追い出し、ということがありました。

 群衆の多くはそれを歓迎したでしょう。しかし一方でここに登場するエルサレムから下ってきた律法学者のように、あの男はベルゼブルに取り憑かれている、というものたちもいました。

 エルサレムから下ってきた、というのは単にエルサレムから来たというだけではない、エルサレムではそうした理解が浸透していた、ということです。

 ベルゼブルというのは、悪霊の頭という意味で、イエスの悪霊払いは、イエス自身が悪霊の頭だからできることなのだ、という断定なのです。

 主イエスはそれらの律法学者たちを呼び寄せ、彼らに対して違う、と言われます。サタンがサタンを追い出す、そんなことをすれば国が内輪で争うようなことになり、立ちいかない。内部分裂を引き起こす。

 「まず強い人を縛り上げなければ、」という譬は、確かに悪霊は、強いものだが、悪霊よりももっと強い方が来られて、悪霊を、サタンを縛り上げられた、それが神の国は近づいた、神の支配はそこに来ている、という福音の語るところなのだ。

そう主イエスは語っておられるのです。

 律法学者たちも悪霊の力の強さはよくよく知っていたでしょう。だからこそ彼らは、律法を順守して、悪霊のすきいる隙を作らないことが大事だと考えていた。その彼らにしてみれば、主イエスがなさること、例えば主イエスがやってくるだけで、悪霊が声を出して、我々に構わないでくれ、我々を滅ぼしに来たのだろう、と叫びだし、その悪霊に向って「黙れこの人から出ていけ」と言われて、悪霊が出ていく、というような出来事は、驚き以外の何ものでもなく、彼らはそこで彼らはイエスは悪霊の親分なのだ、説明を作ったのでしょう。

 家族は、いわば群衆と律法学者の中間で、イエスも悪霊に取り憑かれている、と受けとめていたのかもしれない。

 今朝わたしたちがこの聖書箇所から受け取るべきは、悪霊の力は人間の罪に働きかけて、強くしぶといということ。しかし福音の力はもっと豊かで、もっと力強い。だから福音の力を信じなさい、ということです。先週の聖書箇所で主イエスは12弟子を呼び寄せられました。12人を呼び寄せたのは、三つのことのためで、一つは自分と共にあるため、二つは派遣して宣べ伝えるため、そして三つめは悪霊を追い出す権威を与えるため、だったのです。主イエスの弟子とされるということはキリスト共に共にあるためでした。すでにそれだけで、悪霊は身震いする。後退する。そのキリスト共にあるものが福音を宣べ伝える。そこで当然悪霊との戦いは生まれる。神を信じないで生きようとする勢力の中で、福音をのべつ会えることは悪霊との戦いを余儀なくさせます。

 だが主イエスはその弟子たちに、悪霊を追い出す権威を与えると言われる。悪霊を絶滅させる力を与えるというのではなく、追い出す権威を託すと言われる。弟子には悪霊を追い出す力はない。あるのは、福音の権威が託されているということだけです。わたしたちにも悪霊を追い出す力も能力もない。しかしイエス・キリストの福音によって生きるなら、そこで悪霊は追い出すキリストの権威が働くというのです。

 主イエスは福音を宣べ伝えられ、悪霊と戦い続けられる。この歩みをしっかりと見続けていきましょう。そしてわたしたちがどんなに自分の罪に翻弄され、悪霊の力の中で、右往左往させられても、キリストの福音の力を信じて歩いて生きましょう。そこにキリストの力は働いてくださる。悪霊は、福音の力によって追い出されていくのです。そのことを信じて歩んでいきましょう。

 今朝朗読された聖書箇所は、長いというほどの個所ではありませんが、それぞれ別々の事柄を扱った聖書箇所で、当然二回に分けて読むこともできる箇所です。

 しかしまた一緒に読むとすれば、この二つを並べて読むことになるわけで、この別々のことのつながり、関係性、ということも視野に入ってくるのです。 

 7節から12節には立ち去る、退く、という主の行動が描かれています。おびただしい数の群衆がイエスのもとに来て、従っていた。また集まってきた。その群衆から離れた。小舟を用意したということは、一旦退いて、離れた、ということに他なりません。

 一方13節以下では12人が任命される、弟子を呼び寄せる、ということが記されています。

 つまり主イエスのこの時の様子というのは、一方で大変な数の人たちが主イエスを取り巻いていた。どこに行くにも、多くの群衆や人々が同行したり、従ってきたりして、とても大きな人の渦を形成していた。

 集まってきた人たちというのは、さまざまな人たちがいたでしょうが、多くはそれぞれ自分本位な、ご利益的な信仰で集まってきていたのかもしれない。病気を治してほしい、障碍を取り除いてほしい、悪霊を追い出してほしい、宗教的な真理を求めるというよりも、自分の利益を求める理由から集まってきていた人たちだったかもしれない。だが、いずれにせよ、多くの人がイエスのところに集まってきているのです。

 イエス・キリストの周辺に多くの人たちが集まる。そこで主イエスは何をなさったか、ということ以上に、何をしておられないか、ということをしっかりと見極めておくことが重要です。例えば、主イエスは群衆に取り囲まれて、群衆のヒーローとなり、その神輿の上に乗っかっていくようなことは一切しておられない。この群衆を率いてなにか行動を起こそうとというようなことも一切しておられない。むしろ7節以下にあるように、多くの群衆と共に時間を過ごして後に、ご自分の方から立ち去る、いったん退いていかれる、ということをなさっているのです。

 一方、13節以下では主イエスは12弟子を呼び寄せられる。

 キリストはここで12弟子を任命した、定めることについて三つのことを語っておられます。まず第一に、弟子を定めるのは、「自分のそばに置く」ためだったというのです。元の言葉では自分と共にいるという言葉です。主イエスの弟子になるということは何よりもまず、主イエスと共にいることだ、というのです。共に食事をし、共に生活をし、共に伝道をし、共に歩む。共にいることなのです。

 その際のポイントは、こうです。

 自分の考え、自分の生き方、自分の歩み方、というものを人間は一人一人持っています。しかし主イエスの弟子になるということは、自分の生き方ではなく、主イエスを見つめるということなのです。主イエスの生き方、主イエスの言葉、意見、考え、主イエスの歩み方を見るのです。その歩みに実際について行くのです。自分の歩みではない、キリストの歩みを見つめついて行くということが根本的なことなのです。

 それは、さらに踏み込んでいえば、キリストの使命を見つめる、ということではないでしょうか。キリストがどこを目指して歩んでおられるのか、どのような使命をもって生きておられるのか、その使命に生きる歩みを見つめる、ということが弟子にとって必須なのです。

 第二に、弟子に定める理由は、派遣して宣教させるためなのです。宣べ伝えるために派遣する、ということです。派遣という言葉は今日いろんな意味でつかわれる言葉ですが、もともと使命ということと深く関係する言葉です。遣わされていく使命、ミッションがあって遣わされていく、それはイエス・キリストがこの世に来られた使命を福音の言葉として語ることに他ならない。

 そして第三には、悪霊を追い出す権能を持たせるため、というものでした。

 それは、これまでにもお話ししてきたように、神を信じないで生きようととさせる力、悪霊の力とはそういうものです。だから弟子たちの働きは福音を宣べ伝えることで、神を信じないで生きようとするこの世の力を追い出していくことでもあるのです。

 主イエスが弟子を定めたのは、この三つのことのためでした。そこで改めて今日の聖書箇所を考えてみると、主イエスは大勢の群衆に取り囲まれながらも、その群衆の一人一人と出会いつつ、しかし、同時にそこから退く自由も持っておられた。

 一方で主イエスは自分に従うものから弟子を定められた。それは弟子たちが主イエスと共に生きて、主イエスの使命を知り、その使命を福音として語るためであった。

 それはまた主イエスご自身がご自分の使命に向う歩みを弟子たちにあらわにされる、ということに他なりませんでした。

 主イエスはどれだけ多くの人に囲まれても、それによって有頂天になったり、自分を過大評価して、舞い上がるというようなことはありませんでした。

 キリストなんだから、当たり前だと思う人がいるかもしれませんが、わたしはそうは思いません。有頂天になったり、過大評価をしなかったのは、キリストがご自分がこの世に派遣された使命というものから目をそらさずにおられたからです。この使命から目をそらしたら、キリストは何にもでもなることはできたでしょう。しかし、キリストご自分の使命から目をそらさない。だから群衆に取り囲まれても、人々の叫びや苦しみや、求めに応えられても、群衆のいいなりになるわけではなかった。事実群衆はイエスを王になってほしいとか、政治的なカリスマになってほしいという願望を様々持っていた。弟子たちも持っていた。だがキリストは、ご自分の使命から決して離れない。ご自分の使命から目をそらしておられない。

 主イエスが弟子を定めたのも、この使命と深く繋がっている。弟子をとって弟子の上に君臨するということは、この世でしばしばあることです。芸術の世界、学問の世界、いろいろな領域で、師と弟子の関係はあるでしょう。

 しかし主イエスと弟子の関係は、一つのことをめぐって繋がるものでした。

 それは、キリストの使命です。弟子はキリストの使命を見て、知る、そしての使命を福音として語る、ということです。

 最後のところに定められた12人の名前が列挙されています。一人一人のお話をしていっても楽しいですが、残念ながらそれは時間のいることです。

 ただ、こうして名前を見ていても、この12人が今言った意味で、主イエスの使命を見て知っていたのか、と思うと、少なくともキリストが十字架にかかるまで全く分かっていなかった。いや、十字架にかかっても、わからず、キリスト復活後に、ようやくわかっていく。

 12弟子の名前のリストの最後には「イスカリオテのユダ」の名前が記されています。ユダだけでない、わたしたちの課題は、最初に申し上げたように、自分の生き方を見つめる歩みからキリストを見つめる歩みへの転換、ということです。いつまでもいつまでも、結局は自分の歩みばかり見つめ続けていくというわたしたちの問題です。ユダはそのことを最後まで引きずった。

 しかし今日の聖書箇所がわたしたちに語るのは、キリストが弟子たちを定めてくださるということです。わたしたちが洗礼を受け、キリストの僕とされたのは、キリストの呼びかけ、キリストの定めによるものなのです。

 キリストが呼びかけてくださった、というだけが今ここで名前の挙がっている弟子たちが弟子としてたっている根拠なのです。自分はクリスチャンとして失格だ、というようなことをいう人がいますが、そんな事始めからわかっているのです。キリストの弟子としてふさわしくない自分だ、ということもはじめからわかっている。それでもキリストがわたしを呼びかけてくださって、キリストの使命に与るという、恵みにわたしたちを招いてくださったのです。

 キリストの使命は、十字架と復活の使命です。罪の赦しと、わたしたちの存在を負ってくださる主が、復活されて、わたしたちを新しいいのちへと招いてくださる、この使命即福音。

 キリストはわたしたちにもうすでに呼びかけ、弟子として定め、招いてくださっている。その招きの中で、キリストを見つめ、その使命を見て知る。そして使命即福音を語る。その中で自分を見つめる生き方からキリストを見つめる生き方への転換を神によって起こしていただくのです。