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マルコによる福音書連続講解説教

2022.6.19.聖霊降臨節第3主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書12章1-12節『 ぶどう園のたとえ 』

菅原 力牧師

 主イエスが神殿で、祭司長や律法学者、長老たちに取り囲まれて、結問されたその場面が続いています。主は彼らに向かって一つのたとえ話を話された。それは、マルコ福音書での最後のたとえ話、三日後には主は十字架にかかられていく、そのような中で語られた話です。

 ある人が葡萄園を作り、葡萄園としての施設も整備し、それを農夫たちに貸して、旅に出ました。収穫の時期になったので、主人は葡萄園の収穫を受けとるために、自分の僕をぶどう園に送ったのです。ところが農夫たちは主人の使いの者を捕まえて打ち叩き、空手で帰らせた。そこで主人は他の僕を送ったのですが、今度は農夫たちは頭を殴り、辱めた。主人はもう一人送ったが、今度は殺してしまったというのです。主人はさらに多くの僕を送ったが、殴られたり、殺されたり、と農夫たちの態度は改まらなかった。それで主人は、自分の愛する息子を送った。息子なら敬ってくれるだろうと思って。ところが農夫たちは息子を敬うどころか、こいつを殺したら葡萄園は俺たちのものだ、と息巻き、息子をとらえて殺し、外に放り出してしまった。

 たとえ話としてはここまでです。

 読んでいて、愉しいたとえでも、愉快なたとえでもありません。残虐で、陰惨なたとえだという印象を強く持つのです。いったいこのたとえ話を何をわたしたちに語ろうとしているのでしょうか。

 

 このたとえを読んで、神さまとイスラエルの関係がここで語られているのではないか、と思われた方もいるでしょう。葡萄園が作られ、その収穫を受けとるために僕を送った、というのは、神がイスラエルに預言者を遣わしたということに重なっていきます。けれどイスラエルは神が遣わした預言者の言葉を聞かず、逆に預言者を打ち叩いたり、空手で返した。中にはひどい仕打ちをされた預言者もいた。しかし主人である神は、何度も何度もご自分の僕を送り続けられた。農夫たちが主人の僕を歓迎しなかったように、イスラエルもまた、主の僕を歓迎しなかった。そして最後に神が遣わした独り子をイスラエルの宗教的指導者たちは、殺して捨ててしまった。それはまさにこれからエルサレムで起ころうとすることの生々しい話になっていきます。確かにこのたとえはイスラエルの歴史を、神との関係を語ったものとして読むことができます。おそらくそこに居合わせた祭司長や律法学者、長老たちは、このたとえを聞いて、すぐに何らかイスラエルと神との関係を物語っているということは感じたでしょう。それだけでなく、この男は、自分が主人の息子、つまり神の子であると思っているのか。そしてその自分が俺たちによって処刑されることをこのたとえで語ろうとしているのか。なんという男だ。神を冒涜するにもほどがある。そして俺たちに対する当て擦り。祭司長たちの怒りを決定づけることになってしまったかも知れない。ある意味でこの話で主イエスの処罰を決定づけたのではないか。

 しかしこのたとえはそもそも何を語り語ったたとえなのでしょうか。主イエスはこのたとえをたんに祭司長たちに対する当て擦りや批判として、語りたかったのでしょうか。

 もう一度ゆっくりたとえ話を読んでみます。このたとえで気づくことの一つは、農夫たちはあくまでもこの葡萄園で働くよう呼ばれた者たちだということです。農夫たちに貸して、「貸して」と訳されている言葉は委ねられたという言葉で、主人から葡萄園の農作業を委ねられたものたちでした。だがしかし、彼らは葡萄園を自分のものにしたくなったのです。ユダヤ社会のことですから、主人と農夫たちの間には契約があった。けれど、これは働いている間に、契約内容を変えようと思った、というのとはわけが違います。そうではなく葡萄園を自分たちのものにしたくなった、という根本的な関係の転換です。それで主人が送ってくる僕たちを次々に袋叩きにしたのです。ぶどう園を自分たちのものにしたい、それが彼らのエゴ、欲望です。彼らはその欲望のままに、殴ったり、侮辱したり、殺したりした。そして、ついには主人の息子まで殺してしまった。これは単なる残虐な話というのではない。

 神と人間との関係の根にあるものを物語っている。

 神はこの世界を創造し、人間を創造し、この世界を人間に委ねた。しかし人間はこの世界を自分のものにしたいと思った。神などいらない。自分たちの思うがままに、自分たちのものとして生きたいと願った。願っただけでなく、実行した。被造世界のすべて、人間の思うがままに支配し、自然も支配し、他の被造物も支配し、神から与えられた言葉も退け、イエス・キリストを十字架にかけ、まさに神殺しをしようとし、してきた。

 神殺し、というような言葉を聞くと、ドキッとする人でも、自分の歩みを振り返る時に、神抜き、神なしで、判断し、行動し、歩んできた、と思う時は決してめずらしくなく、人知れず、静かに神を無きものにしてきた、ということはあることに気づくでしょう。自分が今こうしていかされ、歩んでいるこの世界は、真のオーナー、主人がいる世界なんだということ、そのご主人の御委託に応えて歩むことが求められている、ということを忘れたり、払いのけてきた、ということも少なくないのです。実際、主人の僕がやってきて、あなたのぶどう園での収穫物をと言われて、収穫物を差し出してきたか。この世界で活かされて、この世界で与えられた者を主人にお返ししてきたかどうか。それを渋るどころか、何も持たせないで返した、という農夫たちの姿は、実は私たちの身に重なってくる。そういうわたしたちの姿が、このたとえで語られているのではないか。

 

 けれども、このたとえはここで終わってはいない。主はこのたとえの後でこう尋ねておられる。

 「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない。」

 主イエスの問いかけは、こんな極悪非道なことをする農夫たちに対して、主人はどうするだろうか、と問いかけ、間髪入れずに、答える。ぶどう園の主人は、こうするに違いない、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与える、それに違いない、というのです。それが当然だ、と言わんばかりの問いと答えです。

 だが、実際に神はそのようなことはされないのです。自分の僕に対して、暴力や殺人を犯した農夫たちを殺しはしない。愛する息子を殺した農夫も殺しはしない。殺さないどころか、殺した者たちも息子は背負って、その者たちの罪も背負い、罪の罰を担っていかれる。驚きの態度行動なのです。

 

 もしわたしたちが、このたとえを読んで、自分と農夫とが無関係ではなく、むしろこのぶどう園で働いている農夫たちの姿は、わたしの姿でもある、ということに感じたら、主イエスが言われるように、主人がこの農夫たちを殺したとしても仕方のないように、わたし自身、殺されても仕方のない存在だ、ということに思い至ります。しかし、神はこのわたしを殺さない。殺さないどころか、このわたしをイエス・キリストに背負わせ、その罪を十字架において担い、その罪の罰をキリストによって受けさせ、死んでいかれた。

 その神の意志に対する驚きがここにはある。ぶどう園の惨状を語った後、もしこんなぶどう園の状態になったら、その主人はどうするだろう、と問いかけていき、おそらくこうするよね、と語りながらも、そのぶどう園の主人とは違い、神はそうされない。ここにはぶどう園の主人と違う神の存在が語りかけられているのです。

 神は、その独り子を殺した者に報復しないどころか、新しいいのちを与えようとされるのです。

 主イエスはこのたとえ話の最後に詩編の言葉を引用されておられる。「家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」家を建てる大工が、この石は使わない、と言って棄てた石、その石がその家を支える隅の要の石となったのだ、というのです。人間の目には、これはいらない、と言って棄てられた石、その石を要の石として用いていかれる神がおられる、と詩編は語るのです。

 それは、ぶどう園の農夫たちが殺して、外に放り出して、棄てた主イエス・キリストがこの世界を根底から救い支える要の石となっていくのだということです。わたしたちが神なしで生きたいと思い、事実神を排除して生きようとする、それがキリストを十字架にかけていく。だが神は、そのイエス・キリストをわたしたち一人一人を根底から支える隅の要石としてこの世界の中心に据えてくださる。

 ぶどう園のたとえは、たんに人間の残虐さや、傍若無人ぶりを描こうとしているのではなく、たとえに続くキリストの言葉と一体になって、これから起こる十字架という出来事、それがどれほど深い人間の罪によって引き起こされたとしても、その人間を根底から救い、支えようとする神の意志がこの出来事の底を貫いているのだ、ということを語るのです。

 この時この主イエスのたとえとそれに続く言葉を聞いていたもののうち、そのことを受けとめる者は、いなかったかもしれない。しかし、このたとえも、それに続く言葉もこうして記録されているということは、記憶されていったのです。よくわからないなりに記憶され、やがてこの主イエスの言葉を神の意志の表れとして聞く時が来たのです。そのとき人はどれだけの驚きと、感謝と喜びに包まれていったことか。

 わたしたちも主イエスがここで語られたことを驚きと、感謝と喜びのうちに信仰をもって聞き取っていきたい、そう心から願うのです。