2023.3.19.受難節第4主日礼拝式説教
聖書:ローマの信徒への手紙5章1-11節『 御子のいのちによって 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所のローマの信徒への手紙の5章は、一部分とても有名な箇所です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということ。」このフレーズだけが有名になっているのですが、誤解、誤読も生み出してきました。その最たるは、信仰をもって力強く生きて、苦難に耐えていけば、練達の士となり、希望のうちに道が開かれていく、というような理解です。信仰を信念のように捉えて、その信念を固くして、努力していく、これではまるで、洗礼者ヨハネの時に話した自助努力の世界です。頑張っていこう、の世界です。
パウロはここで何を語っているのか、虚心に聞いていきたいと思います。
1節「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」と5章は始まっています。5章は内容的に3章4章からのずっと続きなのですが、その3章4章を受けて、このように、わたしたちはキリストのまことによって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって、罪人であるこのわたしも、神に対して逆らってきたあなたも、イエス・キリストにおいて、神との間に平和という関係を得ている、とパウロは言うのです。
2節「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に与る希望を誇りにしています。」
もう少し原文に即して訳せば、「わたしたちは、キリストによって、今立っているこの恵みにキリストのまことによって導き入れられている。そして、神の栄光への希望を誇っています。」という文章です。今わたしという人間が立っている場所、それは神との間で平和を得ているという場所なのです。恵みに導き入れられ、と言っていますが、赦されて、こんなわたしであっても神との和解の中にある場所、キリストがわたしのうちで生きてくださっているそういう関係の中に導き入れられ活かされている。それだけでない。そこに立ち、そこで活かされて、神の栄光への希望を誇っている。神の栄光、それは終末の時に神が明らかにしてくださる神の完全な救い、神の威光、その栄光への希望を持っているということ、与えられていることを誇る、というのです。この誇るという言葉は自慢、というよりは深い自覚のことだ、といった人がいますが、神の栄光への希望を持っているという自覚の中で生きる、それがキリスト者だということです。以前の口語訳聖書は、ここを「神の栄光に与る希望を持って喜んでいる」と訳していました。誇るというギリシャ語には喜ぶという意味はないのですが、パウロの思いを伝えているともいえます。
この1節と2節がキリスト者の生き方の根本にあるものだ、とパウロは語るのです。ここにわたしたっている、そうパウロは語るのです。わたしたちも、キリストの十字架によって、救いに入れられた。それはキリストの愛と信実に生かされているということ。しかしそれだけでなく、例えば毎週礼拝で告白している使徒信条で「三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したえり」と告白する、あのキリストが天に昇って、神の右に座す、という言葉は、神とキリストとの一体性ということを物語る言葉です。もとより神とキリストは深い一体性の中にありました。しかし今や、天上と地上という分離もなく完全な一体性の中にある、ということを語っています。それはわたしがまだ見ていないこと、その一体性の中に、このわたしも入れられるというというのは、終わりの約束と言っていいことです。身体の甦り、永遠の生命を信ず、というそれに続く使徒信条最後の言葉も、まだわたしたちの経験していないことです。終わりの約束です。そもそも神の栄光と言って、わたしたちはその神の栄光をまざまざと見ているわけでも、十分な形で知っているわけでもない。しかし終わりの時には、神の栄光があらわされ、わたしたちと神との一体性も、からだの甦りも、永遠のいのちも、神の威光もすべて示され、与るものとされる、そういう約束を与えられている、その希望をもって、喜んでいるというのです。それがキリスト者だというのです。
そのように語った後でパウロは突然「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています」と言い出すのです。なぜここで苦難、と疑問に思うのです。
艱難という似たような言葉があるのですが、艱難は目的達成のための試練、というような意味が含まれ、艱難汝を玉にす、という具合にさらに大きな目的のための困難、ということなのですが、この苦難という言葉は違います。苦難とは生きていく上での苦しみ、と書いていた辞書がありましたが、いい語釈だと思いました。われわれがこの人生で出会うすべての苦しみなのです。実にさまざまな苦難、理不尽なものも、理由のわからないものも、戦争も、天災も、偶然もみんな含まれた苦難です。身近な苦しみも、仕事の上での厄介な苦しみも、みんな苦難。そしてしばしばこの苦しみは神の裁きなのだ、というようなことが言われたり、神の怒りなのでは、言われてきた。しかしパウロは今、ここで、苦難をも誇りだ、というのです。パウロはキリストのゆえに神との関係において平和、和解を得ていると信じて受けとめていました。だから今ここで自分が受けている苦しみが、神の裁きだとか、怒りだとは思わない。
あるいはまた、この苦難が自分を育てる、という視点で苦難をここで見ているわけでもない。そもそも自分を育てるということに、パウロの視線が向いていたかどうか。
大事なことは、苦難はわたしたちの人生の中にあるという事実受けとめ、生きてきたということです。クリスチャンになれば苦難がないとか、軽減されるとか、そんなことはない。生きることは苦難と背中合わせ。だから生きる、苦難の中を。しかしその苦難の中で失われることのない希望がある。神の栄光への希望をもって誇っているのです。パウロはその希望はどんなことがあっても失われることのない希望だ、とここで語り、その事実を誇る、というのです。これは言ってみれば、天上に関する希望ではあります。しかしこの希望の根拠はこの地上で与えられたものです。イエス・キリストが十字架にかかり、わたしたちの罪を負って、わたしに代わって罪の罰を受けて、死んでいかれたこと。そこに神のわたしたちを救おうとする御意志、愛、真実が現れ、キリストが復活し、復活の主がこの地上に現れた。そのキリストによって与えられた恵みこそが希望の根拠、終末の約束へと繋がっているのです。
ここで次々出てくる言葉は、パウロが自分の人生で経験してきたことからにじみ出た言葉ではないか、という人がいます。さまざまな苦難を経験し、自分でそれを乗り越えたとか、乗り越えられないと思ったときも、わけのわからない苦しみの中でも、また死というような人間の力ではどうしようもできない現実に直面していく中でも、パウロは、神の栄光への希望を与えられ続けた。イエス・キリストのまことにより、キリスト我がうちにあり、との信仰を与えられ、このキリストが約束する神との一体性、永遠のいのち、からだの甦り、神の全き救いの中に入れられること、その神の栄光への希望を奪われることはなかった。パウロはその与えられる希望を深く深く自覚して、歩んだのです。するとそこで、忍耐が作り出され、忍耐において「練達」、これは誤解を生みやすい言葉ですが、元の言葉は保証とか、確証という意味の言葉で、練達は意訳にすぎると思います。忍耐する、というのもそうしようと頑張ってするのではなく、苦難の中で希望に生きることが忍耐を生み出し、そしてそれがまた与えられている希望の保証が確かなものとされていく、とパウロは語るのです。
そしてこの神の栄光への希望、これはわたしたちが普通に言うところの希望とは全く違う。わたしが持つ精神的な望みのようなものではない。まさにキリストによって与えられるもの、キリストのまことによって、キリストの信実によって与えられるもの。十字架と復活のまことから与えられるもの。神の終末の約束から与えられる主に在る希望です。
この主に在る希望は「わたしたちを欺くことはない」これは原文は「恥を与えることはない」となっていて、この手紙の冒頭、「わたしは福音を恥としない」と対応しているのです。つまりここには、苦難の中にあっても神から希望を与えられていること、だから苦難を恥じることはない、という繋がっていくのです。
苦しいことがあると、苦難に直面すると、それだけで、人生のフロントから後退しているように感じたり、本来の自分ではない場所を生きているような、思いを持たされることは少なくないのです。しかし、苦難を生きることは、恥ずかしいことでも恥じることでもない。その苦しみの中で、あなたに与えられている希望を深く自覚しながら、生きたらいい。苦難、それは事実大変なのだけれど、実際、お手上げ状態になってしまうことだってしばしばなのだけれど、希望は失われない。いよいよその希望の意味が豊かに与えられていく。
レントの時にキリストの十字架を見つめる。それは苦しむ人を見る、ということです。それは時に直視することもできないようなつらいものです。しかしそれで終わりなのではない。そこに与えられている希望に自分自身のこととして気づかされていきたい。その希望が与えられていることを深く喜び、苦難を恥じることなく、その苦しみの時も生かされていきたい。苦難から忍耐が生まれ、忍耐から確証が生まれ、という連鎖は当座はわからなくとも、希望の中で歩む時に、次第に受けとらさせていただくことになっていくのでしょう。