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マルコによる福音書連続講解説教

2021.7.18.聖霊降臨節第9主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書2章23-28節『 安息日の主 』

菅原 力牧師

 ユダヤの律法の中でも大事な律法の一つが「安息日」を厳守する、という掟でした。十戒を見ても、安息日厳守の第四戒は大変丁寧に安息日を守ることについて書き記しています。

 安息日というのは、もともとの言葉は「やめる」「止まる」という意味です。創世記の神の天地創造の働きにおいて六日間の創造の働きを終えた神が、七日目に休まれたことが記されています。働きをやめて、安息なさる。そしてその日を聖別された、とあります。聖別とは神のものとされるという意味で、その神の安息の中に人々も受け入れ、人々をも神のものとして、神の安息に与からせる、そういうことが起源になっている。

 十戒は出エジプト記バージョンと申命記バージョンの二つがあることはご存じだと思いますが、安息日の規定の背景が違っています。しかし同時に二つに共通するのは、安息日にはいかなる仕事もしてはならない、という定めがあるということです。人間の手の業をやめる、中断する。それは自分だけでのことではなく、あなたの息子も、娘、男女の奴隷も、家畜も、さらに寄留する者も、皆その仕事を止め、中断しなければならないのです。自分だけが止めるのではない。使われている者すべてがその手を止めるのです。

 週に一度すべての仕事から撤退する、休む。休息といえば、肉体的な休息をまず思い浮かべます。奴隷の人権など考えにくい時代の中にあって、共に、一斉に仕事を止めて休むことは、とても深い意義があった。同時に、休息という時に、単に肉体の休息ということだけでなく、先程申し上げたように、神の休息の中に入れられるということが安息日の中心にあることでした。つまり神との交わりの中で神と共にある安らぎ、まことの安息に入れられるということです。すなわち安息日は、神を礼拝することにより、安息に入れられる日だということです。

 もう一つのこと。彼らはそのことで、自分たちは六日の仕事につかえているのではなく、神にこそ仕えている、ということを安息日ごとに受けとり、六日の旅路を送ったのです。どんなに自分の仕事に没頭していても、六日ごとに己の働きを止めることで、自分の生活が誰によって与えられた、どこに向かう生活なのか、受け続けていったのです。わかりやすく言えば、わたしは何のために生きているのか、ということを安息日ごとに受け取ったということです。なんのために働き、どこに向って生きているのか、安息日ごとに受け取っていくのです。安息日は、自分の働きを止める日です。しかしただ止めるのではなく、やめて神との安らぎの中に入れられる、そしてまた自分の生活の場へと遣わされていく、そのための日なのです。

 今日の聖書箇所には主イエスが安息日に、麦畑を通った時のことが記されています。弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めたことがあったのです。それを知ったファリサイ派の人々は主イエスに対して、「なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問い質してきたのです。

 ユダヤ教の掟では、空腹やひもじい思いをしている者が他人の麦畑で穂を摘む程度のことは認められていました。貧しいものを支えあう柔軟な特別ルールもあったのです。ファリサイ派の人々が問題にしているのは、なぜそれを大してひもじいわけでもないのに、安息日にするか、安息日は、何もしない日なのに、ということなのでしょう。

 主イエスは、このファリサイ派の人々に対して、二つの答えをなさいます。一つは25-26節の言葉。もう一つは27-28節の言葉です。最初の応答、ダビデの話は、直接安息日にかかわる話ではない。ここで語られているのは、ダビデは祭司の他には誰も食べてはならない供えのパンを食べた、ということです。通常してはならないことをダビデは行った、そして一緒にいた者たちに与えた、というのです。何が言いたいのか。決してわかりやすくはない。

 それで二つ目の応答、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。キリストはここで何を語っておられるのか。安息日は人のために定められた、とはどういうことでしょうか。安息日によって人は自分の業を、仕事を、働きを中断し、やめる。そしてそれは、神の安らぎの中に入れられて、まことの安らぎ、休息を受けて、新たな歩みへと向かう、つまり安息日は、人が神と出会って、まことの休息を得て新たに生きるための日、人を活かす日です。

 ファリサイ派はやめるということにアクセントを置いて、弟子たちの行動を問題にした。それ自体は、ユダヤ人であれば、わかる範囲のことでしょう。しかし主イエスがここで言われていることは、安息日は人を生かすためのものだということです。その人を真実生かすためのもので、ただ拘束するものではない。自分の手の業をやめることで誰と向き合うのか。

 毎週申し上げていることですが、マルコによる福音書は冒頭で主イエスが語られた福音の言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」が扇の要として与えられて、それが広がり展開しているのですが、ここで改めてそのことを受け取ると、安息日は、神の支配、神の愛の中にわたしがあることを受けとめる日です。花婿が一緒にいてくれる婚礼の席に招かれていることを受け取る日です。そしてそこで安らぎを受ける日です。

 キリストという花婿が一緒にいて、神による安らぎを受け、安息日がその人の中で自分を活かすものとして働く、それならあなたは自由に生きたらいい、ということ、そのことが27節で語られていることです。

 日曜日は教会に行って神を礼拝しなければならない日だ、ということもできるのですが、しかし別に言えば、日曜日は教会に行ける日、神を礼拝できる日であり、ありがたくも神によってこの自分が安らぎを与えられ、新たに生かされるものさせていただける日だ、ということです。この聖書箇所におけるファリサイ派の位置というのは実に微妙なのですが、仕事を止めなければならない日だ、というところにアクセントを置いて、現実を見ている。

 おそらく主イエスは、そのことは百も承知だったでしょう。しかし言うまでもなくキリストのまなざしはそこにとどまってはいない。やめて、礼拝し、神と交わり、神の支配を、神の愛を受けてそこから生きる、ということにまなざしを向けておられる。弟子たちがなぜ、安息日に麦の穂を摘んでいたのか、それは何も書かれていないのでわからない。わからなくていいのかもしれない。それが神の愛を受けて歩みだしていく歩みだったのでしょう。麦の穂を摘むということに象徴的な意味を読む人もいますが、それも含め、とにかく弟子たちは歩みだしている。

 「だから人の子は安息日の主でもある」人の子とはここではイエス・キリストのことを指している言葉です。キリストは安息日の主でもある、とは安息の中心に立っておられるのはイエス・キリストだ、ということです。働きを止めて、神と交わるその中心にあるのは、キリストの十字架と復活なのです。ここで我々はすべての重荷をキリストが担ってくださることを知らされ、罪の罰を受けて死んでいかれるキリストを知らされ、わたしたちのためによみがえって、新しいいのちを与えてくださるキリストに出会うのです。そのことが安息日の中心にあることです。そしてそこから一人一人自由に歩みだしていく。ダビデの故事はその自由な歩みを語る故事なのです。

 キリスト教会は安息日を受け継ぎつつ、主の日として受け直していきました。主の日に関してユダヤ教徒にとっての安息日厳守のような細かなルールがあるわけではありません。しかし、わたしたちは、主の日を感謝と喜びのうちに守るのです。いや、守るというよりも主の日の喜びに生涯立ち続ける、ということなのでしょう。主の日に神と出会い、主の日に自分を受け直し、主の日に神に活かされる自分を受け、主の日に神によって遣わされる自分を知り、主の日に終わりの日の喜びに向う自分を知らされ、主の日に希望と、喜びと、自由が与えられるのです。