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マルコによる福音書連続講解説教

2022.1.9.降誕節第3主日礼拝説教

マルコによる福音書7章1-23節「 その言葉のゆえに、行け 」

菅原 力牧師

 ガリラヤ湖の周辺地域で伝道活動をしておられた主イエスは、一端そこを離れられました。そしてティルスの地方に行かれました。そこは、ガリラヤ湖から離れた地域で、ユダヤから見れば外国の地、異邦人の地でした。地中海に面した古くからの港町で、主イエスはおそらくそこで休息をとろうとされた。主イエスは、その伝道の旅の途中で、人里離れたところへ行くことも、逆に今日の聖書箇所のように人の多い町に行って、休息をとろうとされた。人々と出会い続けるとともに、一人になることも大切にされたということです。主イエスは、ここで異邦人伝道をしようとしてティルスにきたわけではなかったのです。

 だからこそ主イエスはある家に入り誰にも知られたく無くないと思っていたのでしょう。けれども、人々に気づかれてしまった、とあります。原文には人々という言葉はない。どれほどの人に気づかれたのかはわかりません。しかし、ここに登場する女性は主イエスのことを何らかの仕方で知り、気づいたのです。それは彼女が悪霊に取り憑かれた娘がいたというのっぴきならない事態を抱えていたということと無関係ではありません。これまでもいろいろな人のところに、娘を連れて行っていたのかもしれない。けれど事態は一向に良くならない。その中で、主イエスのことを彼女はどこからか聞きおよび、ガリラヤから離れ休息している主イエスのもとにやってきたのです。

 彼女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれの外国人だった、とマルコははっきりと書いています。ここはユダヤの地、ガリラヤの地ではないのです。ユダヤ教の神、イエス・キリストの父なる神を知らない、外国人の彼女が主イエスの足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出してください、と頼んだのです。彼女にとってこれこそ唯一切実な願い祈りだった。すると主イエスはこう言われた。「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンをとって、子犬にやってはいけない。」

 不思議な、というか少し遠回しの言い方のようにも聞こえます。

 子どもたちとは誰を指すのか、いろいろな受け取り方がありますが、ここではユダヤ人、イスラエルの人々と、受け取ります。子犬とは、ここでユダヤ人以外のものたち、を指しているのではないか。

 そうすると主イエスは、ここで、自分の使命は、まず、イスラエルの者たちに十分神のことばを与え、神の福音の恵みを与えることなのだ、と言っておられることになるのです。わたしはイスラエルのところに遣わされている。イスラエルというのは神がその歴史の中で選ばれたにもかかわらず、神に背き、自分たちから迷子になってしまっているそのイスラエルのことで、わたしが遣わされたのはそのイスラエルが真に回復するためだ。まずイスラエルに向かうのだ、そのことをせずに、他の人々に向かうわけにはいかない、そう言われたのです。

 

 主イエスはここで外国人であるこの女性の切なる求めを退けた。拒否したのです。こういう主イエスの態度に対して、驚く人は少なくないかもしれません。少なくとも主イエスは誰をも拒まず、誰をも受けとめられたのだ、という具合に主イエスの人となりを自分の中でイメージとして作り上げている人にとってはこういう場面は受け入れがたいのです。受け入れがたいので、主イエスは最終的には彼女の要求を受け入れているのだから、ここで主は一旦彼女を退けて彼女を試みているのだ、というような説明をして、納得しようとする人もいます。

 しかし、なんのためにそんな試みをする必要があるのでしょうか。

 自分の作り上げたイメージと違う主イエスに出会った時に、われわれはより虚心坦懐に聖書に聞かなくてはならないでありましょう。

 主イエスはこれまで旅を続ける中、自分に助けを求める人や病を癒してほしいという人を退けられなかった。ご自分の衣の裾に触ったあの女性の迷信的な信仰をも受け入れて、その信仰を正しく導いてこられたのです。

 けれどもここでは明らかに彼女の求めを退けておられる。これをわたしたちはしっかり受けとめなければならないと思うのです。キリストは誰彼なくどんな時も博愛主義者のようにいつでも均等に、平等に人を愛したというわけではなかった、ということです。むしろキリストの愛はえこひいきする愛だった、ということです。それは主イエスの愛が、ご自分の意志で愛されたということです。今、この人と向き合い、この人を愛そう、今この人と共に歩もう、そう主イエスは自分の意志で決断し、選択し、愛し、向き合われた。そしてそれは愛ということを考える時にとても大事なことです。

 神の愛はすべての人に注がれる、そういう表現はしばしば聞かれる。しかしそれは、神の愛があたかもどこか上の方からお餅や豆をまくようにばら撒かれるものではないのです。

 旧約聖書を読んで驚くことの一つは、神の愛が、しばしばたった一人の人にこだわりぬく愛であった、ということです。アブラハムという人にこだわり、その一人を愛する。ダビデという一人にこだわり、その一人を愛する。それは神の愛が、恣意的なものだということではない。たとえば、五人のこどもがいるとして、今はこの子と向き合わなければだめだ、というのが愛なのです。99匹を野原に残して、今はこの1匹に向かう、というのが愛でなのです。愛はえこひいきする。愛はえこひいきをいとわない。恐れない。無差別に愛する愛、というものをわたしたちは本当のところ受け止めれない。

 99匹を野原に残しても一匹を捜す愛が真実な愛であるならば、いつか必ず残された99匹もその愛の中に自分もある、ということに気づくからです。

 いや気づこうが気づくまいが、99匹も一匹を愛する神の真実の愛の中にあるのです。

 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」という主の言葉は、わたしはまずイスラエルの民に向かう、そこにわたしの愛は集中する、ということです。

 「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、こどものパン屑はいただきます。」

 元の文章は、「はい、主よ。」となっています。「しかし」という言葉はない。彼女はまず、はい、と答えたのです。つまり娘を連れたこの女性は、主イエスがユダヤの人々、その一人を愛する愛を何も否定せずにそのまま受けとめたのです。それはわかります。主イエスのえこひいきの愛を、受けとめたのです。

 主イエスが今99匹を野原に残してもイスラエルという一匹に向かう愛の方だということを彼女は受けとめた。子どもの頃、親のえこひいきの愛は納得できるものではなかった、と言う人もたくさんいるでしょう。下の子ばっかりかわいがってる、だの、長男ばかり大事にしてるだの。しかしある時その親の愛に自分も愛されていたんだということに気づいた時、わたしたちの愛の受け方は変わっていきます。

 彼女は主イエスの言葉から、えこひいきの愛をしっかりと受けとめた。その上で「食卓の下の子犬も、こどものパン屑はいただきます。」というとても機知に富んだ、ユーモアの感じられる言葉をキリストに返すのです。

 自分が切羽詰まっている時、自分のこどもが苦しんでいる時、苦しみが深ければ深いほど、自分の要求に人はこだわるものです。彼女もそういう思いでキリストのもとに来たはずです。しかし彼女はキリストの愛に出会ってその愛を受けとめる中で、この愛を机から落ちてきたパン屑を食べるようにいただきたい、と言ったのです。自分に神の「こども」であるという資格があるとは思っていない。自分が神の愛を真っ先に受ける資格のあるものだとは思わない。しかしこどもではなくても、食卓の下の子犬として恵みに与りたい、というのです。彼女はひがんでいるわけでも、卑下しているわけでもない。

 主よ、あなたの言われることはわかりました。あなたは今愛そうとしておられる人がおられる。その事実を受けとめて尚キリストの愛にすがろうとした。キリストは彼女のこの信仰に胸打たれて行かれるのです。キリストはご自分の意志で今この人を愛そう、この人と共に歩もうと決断されて愛して行かれる。しかし同時に愛は相手との出会いの中で相手に応えるものとして生まれていくのです。つまり、向こうからの出会いの中で愛は生まれていく。キリストはそのどちらをも自由に歩まれた。だから、出会いの中で呼びかけに応えるようにして、愛して行かれるということも起こっていったのです。

 わたしはまずイスラエルに向かいたい、イスラエルの民を愛すると言われたキリスト。しかし一人の女性の願いに出会い、彼女に応える。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」主イエスの言葉を直訳すると、『その言葉のゆえに、行け』となります。彼女自身の言葉、キリストの愛をどこに向っているのか知って尚、その愛の溢れ出ているものを受けたいという言葉、その言葉で十分だ、行きなさいと言われたのです。

 

 今日のエピソードはティルスという外国の地でおこった小さな出来事と言えるかもしれない。しかしここにはキリストの愛に出会った人が、自分の持っている愛のイメージに捕らわれずに、キリストの愛の真実の姿に眼開かれ、その愛を受けとめ、尚、キリストの愛を受けたいと願う変貌の様子が記されている。そして彼女だけでなく、キリストも出会いにおいて喜んで変わって行かれた、愛のエピソードといえるものです。

 キリストの愛の強烈さをそのままに受けながら、キリストにしぶとく願い求め続けていく女性の姿。それに応えて行かれるキリスト。彼女との出会いは福音が外国の地へと広がっていく、一つ重要な契機となりました。そしてその中心にあったのはキリストの溢れ出る愛であったことをわたしたちは心にしっかり受けとめていきたいと思うのです。