ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

マタイによる福音書連続講解説教

2024.2.11.降誕節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書7章13-14節『 狭い門から入れ 』

菅原 力牧師

 主イエスの語られた山上の説教はマタイによる福音書の5章の1節から7章の最後までなのですが、先週ご一緒に読んだ7章の12節までで、説教の本体、主要部が語られ、7章13節から29節までが、全体の結びの部分になっています。

 ですからこの13節からはここまでの山上の説教全体と深くかかわりながら語られている、ということになります。具体的に今、一つの事を申し上げると、山上の説教の冒頭、5章の最初に主イエスが祝福の言葉を語られました。八と数える人も九と数える人もいるのですが、いずれにしても9節からの祝福の言葉は、平和を実現する人々は幸いだ、義のために迫害される人々は幸いだ、わたしのために迫害されるものは幸いだ、という具合に、その前の心の貧しい人々は幸いだ、と違い、主の福音を受けて、平和をつくり出すとか、義のために迫害される、という恵みを受けたものの生き方、歩みが語られていきます。

 山上の説教の大きな特徴は、恵みを受けたもの、福音を受けたものの歩みが大事なこととして語られているということです。

 そしてそのことと、今日の聖書箇所は深く結びついている。福音を受けたものがどう歩んでいくのか、そのことが狭い門、細い道を歩む、ということと、深く繋がっている、語られているのです。

 さて。今日の聖書箇所には、「門」と「道」という鍵となる言葉が出てきます。「門」というのは個人の家の入口の門、というイメージではなく、町そのものの入り口にある門、町が高い塀に囲まれていた古代の城郭都市、その町の入り口の巨大な門。あるいは神殿の入口の門、そういうイメージです。言うまでもないかもしれませんが終末における天の門のイメージなのでしょう。救いの完成への入り口、つまりいのちに通ずる門のことです。そこを通らなければ、中に入ることのできない入り口のことです。

 一方「道」は日本語でも多くの意味を持っていますが、ギリシア語で多様な意味を持つ言葉ですが、ここで目的地に向かう通路、生活上の進路、旅、という意味を受けとめておきたいと思います。

 13,14節が語っているのは、二つの門、二つの道があるというのです。一つは滅びに至る門であり、道であるという。もう一つは、いのちに通じる門であり、道であるということです。もともとユダヤ教においても、こうした二つの道の譬はよく言われており、死に至る道、いのちに至る道という表現で語られていました。

 主イエスはここで、門と、そこに至る道、を語っておられる。そしてわたしたちがこの門と道で思い出すのは、ヨハネによる福音書で語られたあの主の言葉、「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」というあの言葉でしょう。主は「わたしは羊の門である」ともその前で言っておられるのです、この門は羊ための門なのです。

 そして、さらに主は「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ誰も父のもとに行くことができない。」と語られておられる。主イエスこそが、門であり道であるということです。主イエス・キリストという道を通って、キリストと共にその道を歩き、旅して、その途上の歩みを一歩一歩進めて、最終ゴール、門に向かう。そのゴール、門もまたイエス・キリストだというのです。しかし、よくわかるのではないでしょうか。これがわたしたちの人生なのです。わたしたちはイエス・キリストを離れては、迷子の羊になるほかない存在なのです。救いの道は、わたしたちが考えて、わたしたちの努力で信心力のようなもので進んでいく、修業の道ではないのです。わたしたちの力による道行きではないのです。つまり、この道行きには決定的に大事な、それを欠いてはならないことがある。それが、イエス・キリストのみ声に聞き、イエス・キリストの救いの御業を受け、イエス・キリストの十字架と復活によって救われてあるわれを受けとり、キリストと共にその道を歩き、旅して、救いの完成の門に向かうということです。この道も門も、イエス・キリスト。そしてその道の導き手も、同伴者も、イエス・キリストなのです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」ということです。

 しかし山上の説教はただそのことを語っているのではない。その道を歩む道しるべが語られている。「あなた方は地の塩である。」という主の言葉、あなたは今この社会の中にあって防腐の役割を負っているのだ、という言葉です。「あなた方は世の光である。」という主の言葉、わたしたちはイエス・キリストの光を受けて、この世に在ってその光を輝かしていくのだ、という言葉でした。地の塩にしても、世の光にしても、正直わたしたちには荷が重すぎる、頭がくらくらしてくるような言葉です。いったいわたしのどこをどう捻り出したら、世の光たる光など出てくるのか。地の塩たる力量がいったいこのわたしのどこにあるのか。無いですよ。あり得ない。しかしキリストの山上の説教の言葉は続くのです。「あなた方は世の光である。山の上にある町は隠れることができない。またともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば家の中のものすべてを照らすのである。そのようにあなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」あなた方の光を人々の前に輝かしなさい、何度聞いても思わず後ずさりしてしまうような言葉だと思うかもしれません。確かに。

 しかしキリストのみ声に聞き、キリストのみ業によって救われ、キリストと共にその道を行き、キリストに導かれて天の門を目指していくわたしは、その歩みを通して、その歩みにおいてキリストを証しするものとさせられていくのです。人は今出会っているもの、出会い続けているものが現れるものだ、ということを以前も申し上げました。今本当に大きな喜びに出会い、喜びの中にいる人は、必ずそれが現れてくる。また深い悲しみに遭遇し、悲しみの現実の中に生きているものは、その人の歩みに悲しみが現れてくる。もしわたしたちがキリストに出会い、その信実に圧倒され、その恵みを感謝のうちに受け、キリストによって活かされているのなら、その喜びは、その感謝は、その希望は、必ずその人に現れ出るものです。あなた方の光を人々の前に輝かしなさい、そんなことは無理だと思っている。実際そうですよ、わたしの力、わたしの持てるもの、わたしの力量で輝かすことなど、とてもできない。そう思い込んで、歩んでいくのは、つまり自分の持てるもので歩んでいくことに他ならない。自分の力でできることをしよう、ということ。そしてそれは、広い道なのではないか。誤解してはならないのは、狭い門とか、細い道と言って、何かとてもハードルの高い生き方、歩みを想定する、というようなことではないのです。一握りの人だけ可能なような高く険しい登山、厳しい登山を強いられている、というのではない。ただ、キリストから離れない。キリストに聞くことをやめない。キリストが共に歩み、キリストが導いてくださることを信じ仰ぎ続ける、それがこの道をある時に求められるのです。この門を目指して歩んでいくときに求められるのです。だから地の塩、世の光という言葉も、キリストが共にいてくださり、キリストが働いてくださることを信じて、用いてください、と祈りつつ生きていくのです。

 時にはこの道から自分からそれていくこともあるでしょう。キリストに聞くことよりも、自分の声を聞き続けていってしまうということもあるでしょう。キリストが共に歩んでくださっていることから目をそらして、他の何かの力にすがっていくこともあるでしょう。それは広い道なのでしょう。

 主イエスがここで言われる狭い、というのは、イエス・キリストというお方に出会い続け、その恵みを受け続け、主のみ言葉に聞き続けること、そこをはずすわけにはいかない、そこを通らなければ、その道を歩き続けなければ門には、たどり着けない、そういう意味で狭いのです。どの道からでもゴールにたどり着くことができる、そういう道ではない。あれもこれもではない道。必ずそこを歩き続けなければならない道があるのです。その意味で狭いのです。窮屈というようなことや、路地の中の小さな道、というようなことではない。あるいはまた逆にイエス・キリストの福音に生きる者は、多くの人々が歩いている広い道を行かず、唯我独尊、わが道を行く、というでもない。奇をてらって他の人が行く道は行かない、というのでもない。キリスト者はこの世に在って修道院の生活者のように全く別の道を行くわけでもない。ここで、大事なことは、主イエスが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたこと、「そうすればこれらのものは皆加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」と言われたことです。ここには二重性があります。まず、することと、そのことで開かれていく世界のことです。まず神の国と義を求める、福音に聞き、恵みを受け、生かされていく。その上で、今日一日のことを思い悩む、ということでしょう。神の国と義を求めたら日常の思い悩みはなくなるわけではない。普通にあるのです。しかしわたしたちの歩みは、まず福音に聞くのです。まず恵みを受けるのです。そして今日一日の思い悩みを生きる、その日の苦労を負うのです。これが主が語られたこと。狭い道と広い道という今日の話は、誤解も生みやすいのですが、まず、何よりもイエス・キリストの恵みを受け、み言葉に聞き、キリストが共に歩んでくださることを受けとるのです。信じて仰ぐのです。そして今日一日の道を歩む。その際、あれかこれかの選択もあるでしょうし、悩みも、苦労も、みんなそこにはある。他の人たちと協調して取り組まなければならないこともあるし、家族の問題もあれば、先々の心配もある、いろんなことが詰まっている。しかし、まず、イエス・キリストの恵みを受けるのです。まずイエス・キリストのみ言葉に聞くのです。まずキリストが共にいてくださることを信じて仰ぐのです。そして今日を生きる。その歩みの全体がここで主が言われる狭い細いイエス・キリストという道を通って、天の門へと導かれていくそういう歩みなのです。