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ルカによる福音書連続講解説教

2026.5.17.復活節第7主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書1章39-56節『 わたしの魂は主を崇めます 』

菅原 力牧師

 マリアは天使の言葉を聞いて後、エリサベトのもとに急ぎました。ユ ダの町に在るザカリアの家にエリサベトを尋ねたのでした。

 そしてエリサベトに挨拶をするのです。どんな挨拶だったのか、ここ には記されていませんが、挨拶は神の祝福を祈ることでもあります。

 エリサベトに対して主の祝福をマリアが送ると、エリサベトの胎内の 子が踊った、というのです。踊った、というのは飛び跳ねたという言葉 です。微笑ましい話ですが、それだけではないのでしょう。天使ガブリ エルがザカリアに言った言葉「彼は…すでに母の胎にいる時から聖霊に 満たされ」ている胎児で、マリアの訪問、救い主の母の訪問を感じて踊 ったのでありましょう。

 マリアの訪問によるこの二人の出会いは、実に不思議な、そして豊か なものでした。不思議なというのは、二人とも、神の働きによって懐妊 するという経験を与えられた女性だったということです。しかも、一人 は高齢であり、一人はおとめであり、人間の力の及ばない偉大な力によ って懐妊したのです。つまり二人は、ある日突然神の出来事の当事者に なったのです。そして二人は、そのことをしり込みすることなく、感謝 して、神の豊かな祝福として受けとめ、自分が神の御わざの器として用 いられていくことを信仰において受けとめていました。

そもそもなぜマリアはエリサベトを訪問したのか。天使ガブリエルか ら「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている」 という言葉を聞き、それを確かめに行ったのではないか、と想像する人 がいます。しかしそれは違うでしょう。マリアは三か月もエリサベトの 家に滞在しているのです。ただたんに確かめに行ったのなら、それほど 長くいる必要はないでしょう。あるいは、エリサベトのお産を手伝いに 行ったのではないか、と想像する人がいます。それも違うだろうと思い ます。

 エリサベトの出産の後に帰ったとは記されておらず、身重の女性が出 産の手伝いをするというようなことは習慣としてはなかったのです。

 そもそも当時身重の女性が一人で遠出しない、という慣習をあえて破 ってまでマリアがエリサベトのもとを訪れたのは、もっと別の理由によ るものでした。

マリアの訪問を受けたエリサベトは声高らかに言います。「あなたは 女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたし の主のお母様が、わたしのところに来て下さるとは、なんということで しょう。」エリサベトは、マリアの妊娠の事実をいつ知ったのか。そし てその妊娠が神による、神の業による妊娠であること、しかもその子は 、救い主である神の子の妊娠であることをいつ知ったのか、聖書には記 されていません。しかしルカ福音書は胎内の子が踊ったことと、エリサ ベトが聖霊に満たされたことを書き記しています。エリサベトはその二 つの出来事の中で、マリアに起こった出来事を全て受け止め、神の御わ ざを信じて語り始めるのです。マリアに対して、神の大いなる祝福を母 もまた子も受けていることを喜ぶのです。二人は一人は高齢者、一人は また少女の年齢の女性。共に当時の社会にあって無力なもの、小さな者 、弱いものでした。しかし二人はなぜこんな自分が、と言って愚痴るた めに出会っているのではない。ぶつぶつ文句を言うために訪問したので もない。自分たちが神の恵みの中で神の働きの器とされたことを、喜び 合い、感謝するために出会っているのです。「わたしの主のお母様が、 わたしのところに来て下さるとは、なんということでしょう。」これは まさに感謝の言葉。そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信 じた方は、なんと幸いでしょう。」とマリアの信仰を讃えるのです。こ こには神の言葉を信じている者同士の交流があります。神の言葉を文字 通り心とからだで受けとめ、自分の歩みを神に向かって差し出していく マリアの信仰をほめ、自分自身もその信仰の中で歩んでいきたい、とい う思いがエリサベトの言葉には溢れています。

 エリサベトの言葉に対して、マリアは主をほめたたえる讃歌で応えま す。

 マリアは神がこの卑しい仕え女であるわたしに目を留めてくださり、 神がわたしに大いなることをしてくださったから、わたしの魂は主を崇 め、わたしの霊は、神を喜びたたえる、と詠うのです。マルティン・ル ターという人は魂が主を崇めるということが起こる場合、それ自体がす でに神の御わざである、という意味のことを言っています。つまりマリ アにおいて奇跡が起こっている、というのです。わたしたちは他ならぬ 自分が神の働きの器となることをあれこれ言って避けていることが少な くない。多い。自分がやらなくてもいいだろう、もっと適任者がいるだ ろう、自分が思う範囲のご奉仕なら喜んでさせていただくけれど、この ことはとても無理だ。あれこれ言って、神の働きの中で自分が当事者に なることをしり込みし、後退し、遠ざかる。ルターはだから、わたした ちが神を崇める、という時は、自分にとって都合のいい、自分が思うよ うな神の受け取り方をしている時、わたしたちは自然に神を崇めるもの だ。しかしそれは神を崇めるのではなく、自分を崇めているのだ、とい うルターは言うのです。神の言葉に聞き、神の働きの当事者になってい くことは、わたしの意に反したり、わたしの思いとは違ったりしている ことを含んでいるのです。しかしそれでもなお「わたしの魂は主を崇め ます」と讃美できる信仰は、自分からは生まれない。神が働いてくださ る神の業だ、とルターは言うのです。

 マリアの讃歌は、大きく二つの部分から成っています。一つは46節 から50節まで。もう一つは51節から55節まで。前半の部分をよく 見ると、わたしという言葉が繰り返し出てきます。後半はわたしという 言葉は55節に「わたしたち」という言葉がありますが、わたしはでて こない。マリアはまず、このわたしに神がなしてくださった働きを見つ めるのです。

 この卑しい仕え女に目を留めてくださった。このわたしに力ある方が 、大いなることをしてくださった。マリアは当時の社会の中で、小さく 弱く、力ない存在。けれど神はこのわたしに目を留めて、わたしを用い て、わたしにおいて働いてくださる、というのです。

 そして51節からの後半で、思い上がる者、権力ある者、を引き下ろ し、低いものを高くあげてくださる、と詠う。それはこの小さな一人に 目を留める神への賛美と言っていい。神は弱く小さく力ないこの者に目 を留めてくださる、と同時に、その小さきものを神の働きの器として用いてくださる、マリアはそれをイスラエルを用い、アブラハムの子孫を用いる神への賛美を重ね合わせている。

 マリアの讃歌はわたしに語りかける神の言葉から退かず、その言葉に 聞き、神がこのわたしを神の器として用いてくださることを受けとめ、 神を崇めていくのです。マリアは天使ガブリエルの言葉を聞いたとき 、「どうしてそんなことがありえましょうか。」と言っています。つま りそれはマリアの中に、神からの言葉に対抗する自分の思い、考えがあ ったということです。それはマリアに限らない、おそらくは誰の中にも あるものです。

 しかしマリアはその思いを持ちつつも、「わたしは主の仕え女です。 お言葉どおり、この身になりますように。」とやがて応答していくので す。

 それは、「わたしの思いではなく、あなたの意思が、み心が成ります ように」ということです。ここに人間が神の言葉の聞く、という時の最 も大事なことが示されています。「わたしの思いではなく、あなたのみ 心が成りますように」これは転換です。自分の思いに捕らわれている人 間の中で、自分の思いではなくあなたのご意思がなるようにと転換が起 こるということです。言ってみれば、これまでは自分の思いの中で聞け る範囲で神の言葉を聞こうとしていたり、自分の思いと折り合いがつく 部分だけ、神の言葉を受け入れようとしたりしていたのが、そうではな く、この自分という器において神の御意思が充満して、神の御意志によ って自分が生かされ、用いられていくよう願う転換です。それは先ほど 紹介したマルティン・ルターの言った神の奇跡による転換なのかもしれ ません。

 エリサベトとマリアの出会いは、この転換を経験した、神の奇跡を経 験した二人の女性の出会いの場面なのです。

 ある人はキリスト教会の歩みは実質的にここから始まった、ここから 新しい歩みが始まった、というのです。大事な視点が込められていると 思います。

 マリアはなぜエリサベトを訪問したのか。と最初に申し上げました。 それは、神の言葉と出会い、神の言葉を語りかけられたものが、その中 で、「わたしの思いではなく、あなたのみ心が成りますように」という 転換の経験を与えられたものが、同じ経験を生きる者のところへ向かっ た、というべきかもしれません。

 そしてこの経験を互い分かち合うのです。この経験を共に神に感謝し 、喜び合うのです。己が身で神の奇跡を経験した者同士が出会うのです 。神の奇跡とは、二人が神によって妊娠したということ以上に、神によ って「わたしの思いではなく、あなたのみ心が成るように」という転換 を経験したということです。その経験はまさしく信仰だけが受けとめら れるもので、信仰なくしては受けとめられない。ここには、わたしたち の信仰の大事な原点のようなものがあります。マリアと、エリサベトの 信仰を心に深く刻んで、歩んでいきたいと思います。