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マルコによる福音書連続講解説教

2021.11.14.降誕前第6主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書6章30-44節『 溢れでる恵み 』

菅原 力牧師

 朗読された聖書箇所は「五千人の供食」と呼ばれる箇所です。キリストが五千人もの人々に食事を与えたという奇跡です。皆さんもたびたび耳にしてきた奇跡物語だと思います。しかし読めば読むほど、疑問や不思議にぶつかっていきます。そうした疑問や不思議を心に留めながら読み進んでいきたいと思います。

 さて、伝道に派遣されていた使徒たちが主イエスのもとに戻ってきました。そして弟子たちは自分たちが行ったことや教えたことを残らず主イエスに報告しました。その報告を聞いた主イエスは「しばらく休むがよい」と言われて、人里離れたところに行くように弟子たちに語られました。しばらく休みなさい、と主が言われたのは、普通に考えれば、弟子たちが伝道の旅で忙しく疲れたから、ということでしょう。実際そうです。しかしそれだけだったのでしょうか。実はマルコ福音書で主イエスが休むがよい、とわざわざ言っているのはここだけなのです。どうして主はそう言われたのか。その疑問も持ちながら、先に進みたいと思います。

 弟子たちは舟に乗って、人里離れたところへ行こうとしたのですが、大勢の群衆が主イエスに行くところに追いかけてきた。今でいう「追っかけ」のような人々です。たくさんの人が主イエスのもとに群がってきました。主イエスは舟から上がりこの群衆を見つめておられました。そして、「飼い主のいない羊のような有様」だと群衆をご覧になり、深く憐れまれたのです。どうして群衆のことを飼い主のいない羊のようだと思われたのでしょうか。そもそも飼い主のいない羊、とはどういう羊のことなのでしょうか。羊は、自衛能力の低い動物、外敵の攻撃にも弱い動物です。しかも近眼で、方向感覚の鈍い、迷子になりやすい動物です。羊飼いがいなければ、生存そのものが危うい、まさに弱い存在。しかし主イエスは群衆をただ弱い存在とみているだけではない。主イエスは群衆を見つめて、何かを喪っている存在だとご覧になったのではないか。生きていく上で一番大事なもの。それは自分のことを本当に守ってくれる、導いて、安心を与えてくれる羊飼いを見失っている。生きていく上で一番大事な、中心にあるもの、自分を最も深いところで支えてくれる存在、それを見失っているものとして群衆をご覧になった。それが「飼い主のいない羊のような有様」ということです。大事なものを喪うことで、失われた存在になっているということ。そしてそう見つめて、深く憐れんだというのです。この深く憐れむという言葉は独特な言葉で、腸がねじれるような痛みを伴う憐れみの思いです。人間が自分を根本から支えてくれる存在を見失っている、そのことにキリストが、腸がねじれる思いで痛んでいる、というのです。人間には、その自覚はないかもしれない。ここに集まってきた群衆は、自分の自覚としてはただキリストの話を聞きたいとか、力ある業を見たい、というだけだったかもしれない。自分たちのことを飼う者のない羊のようだ、とは誰も思ってもいなかったのではないでしょうか。しかしキリストは群衆の一人一人を、飼い主のいない羊のように見つめ、深い痛みを覚えておられたのです。

 キリストは群衆を憐れみ、それ故にこそ、群衆にみ言葉を語られた。

 その時弟子たちがキリストに声をかけたのです。「ここは人里離れたところで、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で回りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう」。弟子たちの言うことはもっともなことです。あえて言えば、何か食べるものを買いに行くことよりも解散すべきだと思ったのではないか。群衆を解散させたかった。当然です。そもそも弟子たちの休息のためにここに来たのですから。

 群衆と言っても10人20人なのではない。男だけで五千人がそこには集まっていたのです。ところがなんと主イエスは「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と言い出したのです。これが今日の聖書箇所で驚かされることですし、疑問に思うところでしょう。なぜこんな大群衆の食事の世話をしなければならないのか。そんな必要がどこにあるのか。わずか一食のために莫大なお金を使うことになりますし、そもそもそんな食事を調達することは、現代の日本でも難しいことです。まして古代社会において尚更です。弟子たちの言う二百デナリオンというのは、何百万円という単位の金額です。そんな金額のパンを買ってくるのですか、と弟子たちは主イエスに言っているのです。しかも一回だけ群衆と食事をしたからと言ってそれが彼らにとってどんな意味があるのか。

 どうしてこんな無謀ともいえる提案を主イエスはなされたのか。なぜキリストは群衆への食事にこだわられたのか。

 キリストは弟子にこう言いだされました。「パンは幾つあるのか。見てきなさい」。これは主イエスと弟子たちの今の手持ちの食物、お弁当それを確認しなさい、ということです。買ってくるのではない。食料をどこかから調達する、というのではない。弟子たちは確かめて言うのです。「五つあります。それに魚が二匹です。」

 取るに足りない、という言葉がありますが、まさに取るに足りないほどのパンと魚。弟子たちはさらに驚き、無力感を深めたでしょう。数を数えた自分たちが惨めになるような手持ちの食糧なのですから。「無理ですよ」というしかない数。しかし主イエスは弟子たちの思惑などに関わらず、群衆を組に分け、青草の上に座らせ、五つのパンと魚を取り、祈りをささげ、パンを裂き、弟子たちに渡しては配らせ、魚も同じようして分配したのです。

 「先生、もう群衆を解散させましょう。こんなことをして何の意味があるのですか。」弟子たちはこの場面で切実な疑問を抱いたでしょう。しかし主イエスは、群衆への供食を断行します。あえて断行と言いましたが、主イエスの並々ならぬ意志がこの場面にはあるからです。有無を言わさぬ意志がここにある。

 わたしたちは、聖書を読みます。書いてあることは、なんどか読むうちにわかってくるでしょう。しかし、そこにイエス・キリストの意志がどう働いているのか、さらに言えば神の意志がどう働いているのか、それを聞くにはキリストへの思い巡らしが求められる。つまりイエス・キリストの生涯全体への思い巡らし、そして、キリストへの信仰が求められるのです。主イエスは群衆一人一人を「飼い主のいない羊のような有様」だと見つめられ、深く憐れんだ。ここで主イエスと弟子たちとは、すでに違う場所に立っています。

 キリストは群衆が最も大事なものを、見失っている、喪失していることに腸がねじれるように痛みを覚え憐れんでおられる。人がこの人生で受けとめていかなければならないものを受けとめ損ねている、それを痛んでおられる。だから、主イエスは、その群衆に教え始められた。喪失しているものに最も必要なものは神の福音だからです。み言葉を宣べ伝えておられる。そして、食事。それはみ言葉といういのちの糧と、パンといういのちの糧なのです。弟子たちは、おそらくみ言葉を語る主イエスは受けとめていこうとしていた。だが、パンは、わからない。

 

 かつてイスラエルの民がエジプトを脱出したとき、彼ら彼女たちは飢えで苦しんだ。そのとき、民は神からその日一日分のマナを与えられ、いのちを支えられて歩んできたのでした。あの時も神は人々を組に分けられて、いのちの糧を与えられた。そして青草の上にとは、詩編23篇のあの言葉を思い起こさせる光景です。「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水の畔に伴い、魂を生き返らせてくださる。」

羊たちは、羊飼いによって青草の原に安らぎ、いのちの水をいただき、魂を生き返らせていただき、その旅をつづけたのです。今この群衆の一人一人にとって、最も必要なことは、神が与えてくださるのいのちの糧をいただき、それによって生きることです。キリストの語る福音の言葉と奇跡とは深く繋がるものであって別々のことではない。キリストの神の福音を人々に語り、いのちの糧を与え、パンをキリストから受け取り、いのちの糧としてそれを食べる。その二つのことは二つであって一つのこと、として繋がっているのです。

 飼い主のいない羊のような有様の群衆を見て、主は最も必要なものを与えられた。それは神のことば。福音です。それをいのちの糧として食べることです。キリストはヨハネ福音書ではもっと端的にこう言われた。「わたしが与えるパンとは、世を活かすためのわたしの肉のことである。これは天から下ってきたパンである。このパンを食べる物は永遠に生きる。」神のことば、それはイエス・キリストそのものであり、それがまことのいのちのパンなのだ、と言われた。このパンを食べよ、そうキリストは言われた。今ここでの食事はこのことの記念です。だからこの食事は、聖餐を指さすものになっていくのです。

 弟子たちは伝道から戻ってきて、「自分たちが行ったことや教えたこと」を報告したという、しかしそれは誤解のないように言えば、弟子たちのしたことではないのです。弟子たちを用いて神がなさること、それが福音の伝道なのです。しかし弟子たちは頭では少しわかっていたかもしれないけれど、自分たちがしたこと、というふうに傾斜していったのでないか。だから、群衆に食事をとキリストが言われたときに、神が働くことをすっかり見失って、自分たちの力にアクセントを置いて、「無理だ」と思ったのです。キリストはその弟子たちに「休め」と言われたのではないか。傲慢になってはいけない。神が働き給う。「すべての人が食べて満腹した」それは神の働き、キリストの働きのゆえであり、福音の持てる力によるのです。わたしたちもキリストから福音の言葉をいただき、食べて満腹し、神の働きを信じ受けとめて歩む者とされていきたいと思います。