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マタイによる福音書連続講解説教

2025.11.9.聖霊降臨節第23主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書25章14-30節『 タラントンのたとえ 』

菅原 力牧師

 今朝わたしたちがご一緒に聞きます聖書箇所は「タラントンのたとえ」と呼ばれる有名な主のたとえ話で、、皆さんもよくよく知っておられるたとえ話だと思います。一方でこのたとえ話は文脈から切り離されて、読まれてきたというところもあります。今朝わたしたちは、これまで読み進んできたマタイによる福音書の文脈の中で、この主イエスが語られたとえ話に丁寧に聞いていきたいと思います。

 さて14節は「天の国は」という言葉で始まっています。この天の国はというのは、実は原文にはありません。読者への配慮で原文にはない言葉を加えたのでしょうが、原文は「すなわちそれは」という言葉で始まっています。となれば、このそれは何を指すのか、考えてみなければなりません。もっとも直近の文脈で言えば、この前のたとえ、十人のおとめの話です。しかし、もう少し長いスパンで考えると、主イエスがエルサレムで語られた終末のこと、そしてその終末の歩み、「目を覚ましていなさい」と主が繰り返し言われたことです。それを要約すると、「再臨の日を仰ぎつつ、待ち望みつつ、今を生きる」ということ、それが「すなわちそれは」の内容です。再臨を待ちつつ今を生きる、それは以下のたとえのようなものだ、というのです。その場合、再臨を待ちつつにも、今を生きるにも両方にアクセントがかかっています。この文脈を受けとめながらたとえ話に聞いていきたいと思います。

 このたとえはある人が旅に出る、ということから始まっています。家を離れることになった人が、僕を呼び、自分の財産を預けるようなもの。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントン預けて旅に出た、のです。このお金のことですが、五タラントンというのは、莫大な金額です。聖書の巻末に乗っている度量衡では例えば3億円ぐらいになるのかもしれませんが、ある経済学者の試算によれば、この金額は3000億円とかそれ以上の金額だ、との指摘もあります。いずれにせよ、莫大な金額なのです。

この五タラントン受けとったものは出ていき、それで商売して、他に五タラントンもうけた、とあるのですが、商売してというのはかなりの意訳で元の意味は働かせてという言葉です。商売してというイメージの金額ではなく、金融市場で働かせてもうけた、という内容のことかもしれません。同じように二タラントン受けとったものも二タラントンもうけた、というのです。この二人に共通していることがあります。それは主人が預けた「タラントン」の意味を受けとっているということです。この「預けた」という言葉は託した、委ねた、信頼して委託した、という意味の言葉で、ただたんに持たせたわけではないし、それなら預ける必要もない。主人が自己管理すればいいので、二人は、主人が自分に「託した」ということの意味を受けとって、その託されたものを活かし、働かせた、ということ、それが二人に共通していることなのです。

 それに対してもう一人の態度は、「出ていって穴を掘り、主人の金を隠した」というものでした。土の中に、主人の金を隠した、その際、託されたタラントンを隠したではなく、主人の金をと表現されています。一タラントン受けとったものにとって、それは主人から託された、委ねられた、委託されたものではなく、ただ受けとった「金」だったということです。

 さて、かなり日がたってから、主人が帰って来て彼らと清算を始めました。「まず、五タラントン受けとったものが進み出て、他の五タラントンを差し出して「ご主人様、五タラントンお預けになりましたが、ご覧ください。他に五タラントンもうけました。この僕は主人が自分に五タラントン託されたことを受けとめ、そしてそれを働かせて五タラントンもうけたことを報告しました。

 主人はよくやった、と喜び、よい忠実な僕だ、と評価し、さらに多くのものを任せよう、と語り、わたしの喜びの席に入れ、というのです。続いて二タラントン与った者も進み出て、同じことを言います。そしてそれに対して主人も同様の応答する。

 そして続いて一タラントン受けとった者が進み出て、主人に対してこう言うのです。「ご主人様、あなたは蒔かないところから刈り取り、散らさないところから集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出ていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」この三番目の僕は、主人がこのタラントンに託した思い、信頼を受けとめていない。主人の僕への気持ちを受けとめていない。ただお金をそのままにして戻すことを考えた。

 その気持ちの背景には主人が蒔かないところから刈り取り、散らさないところから集める厳しい方だ、という理解があったというのです。しかもそのことを主人に面と向かって言っている。この僕が語っているのは、蒔かないところから刈り取る強欲な主人だ、と言わんばかりです。だから自分は受け取ったお金を地の中に隠したというのです。

 ところでさらに驚かされるのは、この三番目の僕に対する主人の応答です。「悪い臆病な僕だ。わたしが蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集めることを知っていたのか。」と僕が言ったことを否定していないのです。認めているような発言です。この主人の発言をどう受けとめるかがこのたとえ話の一つの鍵と言えましょう。

 三番目の僕はこの主人を厳しい方だ、と言ったのですが、一番目二番目の僕はこの「蒔かないところから刈り取る」をどう受けとめただろうか。二人はこの三番目の僕と主人をやりとりを聞いたかどうかもわからないのですが、もし聞いたとしたら、「蒔かないところから刈り取る」ということを、蒔くことまで任せる主人と受け取ったに違いない。二人にすれば、「蒔かないところから刈り取る」とは脅迫的なことではない。むしろ信頼の言葉。僕の自由に委ねる言葉なのです。自分の思うように蒔き、自分の思うように刈り取る、そもそも主人はタラントンを託して監視しているのではなく、自分が不在の間すべてを委ねているのです。僕の自由に委ねる、そこにあるのは信頼なのです。主人は積極的に蒔かないところから刈り取ることを肯定される方なのです。二人は主人の信頼を信じて受けとっている。つまり蒔かないところから刈り取るその自由を感謝し、喜び、応答しているのです。

 しかし三番目の僕にとって、まったく違って厳しいとしか受け取れない。「蒔かないところから刈り取る」をこの僕は脅迫的に受け取り、恐ろしくなって地中に隠した。その時先ほど言ったように、主人から託されたタラントンは託された賜物ではなく、たんなる金、銀貨にすぎなかったのです。

 三番目の僕がタラントンを活かして働かせなかったのは、自分に与えられたタラントンがほかの僕に比べて少ないという嫉妬や抗議からではないでしょう。そもそも一タラントンと言っても何千億円という途方もない金額なのです。つまりこの物語で問題になっているのは、僕と主人との関係そのものなのだ、ということがはっきりする物語なのです。主人は自分の信頼と委ね託す思いを受けとろうとしないこの三番目の僕に向かって、「悪い臆病な僕だ」と言って、この僕に託したタラントンを取り上げています。僕は主人との関係性の中で、自分に預けられたものをどうするか、判断しているのです。

 このたとえ話を虚心に読む時、わたしはどうなのか、思わないわけにはいかない。主人である神から託されたものを、生かして働かせようとしてきたか、しているか。主人が預けたタラントンは、神からのギフト、託されているもの。だとすれば、それは我々にとっていのちであり、生きる時間であり、わたしという存在そのものでもあります。再臨の時を仰ぎ見る、再臨の時を待つ中で、わたしたちは今の時を生きる。わたしは祈祷会での聖書の学び、ヨブ記や、今読んでいるペトロの手紙、そして礼拝で聞いている福音書を読んで改めて思わされるのは、神のわれわれに対する驚くべき自由ということです。キリスト教の自由の深さということです。ペトロが言うように、神は我々を自由人として生きるよう望んでおられる。神の僕として。つまり神の言葉に聞きつつ、自由に生きる。

 神がわれわれ一人一人を信頼し、いのちや存在を一人一人に委ねて、生きてごらんと言ってくださっている。そのことを受けとめて生きるかどうか、このたとえはそのことを物語っているのです。誤読してはならないのは、まずもうけたことから評価しているのではない、ということです。二人の僕は主人との関係を受けとめて託されたものを働かせた、そこに結果が生まれてきた、ということです。あえて極論すれば、主人から託されたものを主人との関係の中で受けとめ、用い、生かしていくなら、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになる」ということもこのたとえは語っているのでしょう。

 今日からまた新たに、この主の語られたたとえ話を受けとめて、主から託されているものを受けとめ、生かして、働かせていく、一人一人でありたいと思います。再臨の日を仰ぎつつ。