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マルコによる福音書連続講解説教

2022.8.7.聖霊降臨節第10主日礼拝説教

聖書:マルコによる福音書13章1-13節『 導いてくださる方がいる 』

菅原 力牧師

 マルコによる福音書に聞き続けて13章を迎えました。次の14章では主イエスはもう逮捕されていきますので、キリストの十字架はもうすぐそこに来ているという状況です。そのような中で語られた主の言葉であることを受けとめて、耳を澄ませていきたいと思います。

 主イエスたち一行がエルサレムの町、神殿を離れて、郊外の町に戻ろうとされたときです。弟子の一人が、「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう。」と声を上げました。

 ここしばらく毎日のように通っているエルサレムの町、その中心にある神殿に心奪われ、思わず声を上げたのでしょう。実際エルサレム神殿は壮大な建築物だったようです。現代でもそうですが、巨大な建物は人間を圧倒します。まして宗教的な巨大建造物は人間を圧倒する。弟子たちならずとも、感嘆の声を上げるのはよくよくわかるのです。

 しかし主イエスは弟子たちと同じ神殿を見ながら、違うものを見つめておられた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」よくわかりにくい表現ですが、簡単に言えば、この壮大な建物も粉々に崩れてしまう時がくる、と言われたのです。

 その後オリーブ山に行かれ、夕日を浴びる神殿の方を向いて主イエスが座っておられると、四人の弟子たちがやってきました。彼らはなぜかひそかにこう質問するのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

 四人の弟子たちは主イエスのさっきの言葉、この建物も崩れる時が来る、という言葉に反応しているのです。そしてそれは終末の時の出来事ではないのか、と思ったのです。当時のユダヤ人の感覚からすれば、この弟子たちの反応は特別なものではなく、どんな形かであれ、ユダヤの多くの人々は終末の時がやってくることを感じ、受けとめていました。その彼らにとって、主イエスの発言は、聞き捨てにはできない発言でした。四人の質問は、終末はいつ起こるのか、ということと、その場合、何か徴となること、前兆はあるのか、というものでした。それをひそかに尋ねた、ということは、みんなよりも先に、自分たちだけまず聞いておきたい、という思いがあったのかもしれません。そういう自分本位な思いから、ひそかに聞いたのかもしれません。

 それに応える形で、5節からの主の話が始まるのですが、これが十字架を目前に控えた主の最後のまとまりある説教、語りになっていくのです。

 弟子たちの質問は終末はいつ来るのか、前兆としての徴はあるのか、ということでした。主イエスにそれに対して、知らない、と言っておられるのです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも、子も知らない。父だけがご存じである。」と32節で語られています。終末の時はキリストも知らない。ただ神だけが御存知。大事なことは目を覚ましていることだ、とこの説教の最後でキリストは語られる。

 それが今日の聖書箇所の骨子です。

 現代の日本のキリスト者の中には、「終末」ということがぴんと来ていないという人は少なくない、と思います。何十年もキリスト者として歩んできたけれど、ヨハネの黙示録もきちんと読んでいないし、旧約聖書の終末を語る黙示文学も、ほとんど読めていない。まして、それが自分の生活の中に、息づくような形では働いていない、と感じている人は多いのではないか。終末と言われても自分とは縁遠いずっと先のこと、というイメージしかない、という人もいるでしょう。

 しかし、聖書は、はじめがあり、終わりがあるということを全体において語っている書物です。

 終末を受けとめるということは、わたしたちにとってこの世界は創造者によって造られた世界だ、ということを受けとめることです。この世界は偶然できたものでも、たまたまそこにあるというものでもなく、神の意志によって生まれた世界です。そして神はこの世界を創りっぱなしにして、あとは放っておかれているのでもない。この世界を愛し、この世界に語りかけ、救いの業の中にこの世界を置き、導きを与え、道を備え、共に歩んでくださる。旧新約聖書はその道筋をわたしたちに示しているのです。

 そして、この世界がどのようにして終わるのか。それはわたしたちにはわからない。その時もわからない。しかしこの世界を創造された神が、終わりの時を与え、この世界の救い、救済を成就してくださる。イエス・キリストの十字架と復活とにおいてあらわになった神の救いの業の完成の時を与えてくださる。それが聖書の語っていることです。

 それはただ、終末というキリスト教の教理の一つを理解する、教えを知って、ああそういうものなんだ、という話なのではない。わたしたちの生き方の根本にかかわる事柄です。生き方というよりも存在に関わることです。

 5節からのところでキリストはこれからもいろいろなことが起きる、と言われます。戦争や、国が国に敵対し、飢饉や、地震や、さまざまなことが起こる。この世界は揺れ動くというのです。だがそのような中でキリストはわたしたちに対して、人に惑わされないように気をつけなさい、と言われる。世界が揺れ動く中でも、惑わされないものとされていく。それは、この世界が最後には、神の救いの完成が成就し、神の救いが、神が愛が貫徹されていくのだ、ということを信じて、今日を、今を生きる、そういう存在であることを受けとめて生きる、それが惑わされない、ということです。自分のことに気をつけていなさい、とは自分が終末の完成に向かう道を歩む存在だということを見失わないようにしなさい、ということです。

 例えば。わたしたちはこの人生を歩む中で多くの人の死を経験していく。いったいその人たちは死んでどうなるのか、わたしは死んでどうなるのか。誰でもそういう素朴な、しかし深い疑問を持っています。だがわたしたちが聖書から確実に知らされていくことは、わたしたちはどんな状態であれ、神によって終末を迎える、ということです。救いの完成、成就の時を迎えるのです。どんな死に方をした人も、若くして死んでいったあの人も、愛するあの人も、すべて神にお任せすることができる。終末の完成の時が備えられているからです。しかもそれは、たんなる終わりではない。神の救いの業が成就し完成するとき、つまり神の意志が実現するときなのです。だからわたしたちは世界が揺れ動いても、あれもこれも心配なことが起こり、悩みがあっても、罪の歴史が繰り返されても、安心して生きることができる。今日を安心して生き悩むこともできる。それがキリスト教信仰です。終末を受けとめ終末から今日を生きる終末信仰です。この終末信仰がなければ、それは聖書の信仰ではない。

 終末を仰いで歩む歩みに対して、キリストはここで二つのことを語られました。一つは、「あなた方は地方法院に引き渡され、会堂で打ち叩かれる。またわたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」ということです。イエス・キリストを信じ、この方こそまことの救い主だ、と告白していく中で、裁判にかけられたり、ユダヤ教の会堂で鞭打たれたり、時の権力者の前で、問い質されたりすることがある、というのです。おそらく、最初期のキリスト者にとって、きわめて現実的な、生々しい話だったでしょう。今、わたしたちの身の周りでは、このような局面は直接に稀なのかもしれません。しかし、「証をすることになる」という主の言葉は、今も語りかけられ、リアルなのです。わたしがこの社会の中でどう生きるのか、それ自体が証し、ということでもあるのです。証しは人前でキリストのことを証言することだけではない。人生の全体が証しとして問われている。

 福音に聞いてその人が生かされていくとき、その聞いていることがその人の生き方を歩みを創っていく。聞く、ということはそういうことです。聞き流しているのなら、その人の歩みを創っていくということは起こらない。だが、福音に聞くことはその人を創っていく。そして聞くことはその人の歩みの中で、軋轢やたたかいを生み出していくということが起こっていくのです。

 二つは、福音に聞いて生きることが軋轢やたたかいを生むとしても、最後まで耐え忍んでいきなさい、と語られる。一刀両断叩き切るのではなく、与えられた関係をよくいきなさいと言っておられる。ここでキリストは親子関係を持ち出しておられる。この世で最も親密な、深い関係の一つである親子関係も敵に回すことがある、と言われる。

 福音に聞く、ということは救い主を信じ、神の愛の中にある自分を知ることは、家族の関係よりも深い愛の関係、真実な関係の中にある自分を知って、家族の関係を受けとりなおしていくということです。家族が絶対、家族がすべて、というようなことではなく、キリストのまことに活かされている中で、家族の受け直していく、ということです。家族も罪人のひとりひとりとして、受け直し、キリストの赦しの中で許しあうものとして受け直していくのです。

 そしてこの世の人間と人間の関係がどんなに破れや、欠けや、傷を負ったものであっても、終末の神の救いの完成を仰ぎ見て、歩んでいく、ということです。それが耐え忍ぶという言葉の意味です。終末を仰ぐ信仰は、自分で自己完結したり、自分たちの力で何とか関係を十全なものにしようとするのではなく、完成者を仰ぐということです。完成者を知っているということなのです。

 終末の神の救いの完成を心から信じ受けとめて、今日一日を喜びと希望を持って歩んでいきましょう。