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マタイによる福音書連続講解説教

2026.1.4.降誕節第2主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書26章31-35節『 ペトロの否認 』

菅原 力牧師

 しばらく離れていましたマタイ福音書の連続講解に戻り、み言葉に聞き神を礼拝してまいりたいと思います。

 さて、主イエスと弟子たちとはエルサレムで過越の食事を共にし、主からのパンと杯を受けてこの食事を終えたのでした。食事の後、一同は讃美の歌を歌ってオリーブ山に出かけた、と30節にありました。主はその際、弟子たちが驚く言葉を語られるのです。

 「今夜、あなた方は皆、わたしにつまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる。』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 これは驚く発言というよりも、弟子たち皆が衝撃を受けて大きく揺さぶられる発言だったでしょう。「あなた方は皆、わたしにつまずく」、と断言されているのですから。しかし読めばわかるように、主はここで大きく二つのことを予告されている。一つは弟子たちの躓きということであり、もう一つは十字架後のこと、復活したのち、ガリラヤに先に行く、ということです。

 けれども弟子たちは主が言われた最初の予告に全身揺さぶられるのです。躓くというのは、もともとわたしたちが日本語で使う意味は石につまずくというような物理的な意味だけでなく、精神的に障がいにぶつかる、というような意味にも使います。しかし聖書では罪の誘惑に引き込まれる、信仰から離反する、という深い意味を持った言葉として使われています。それも今夜、と時間まで指定されて予告されているのです。弟子たちの受けた衝撃が伝わってくるというものです。弟子たちは今さっきまで、主イエスと共に過越の食事をなし、主からのパンと杯を受けて、父の国でも再び食事の席で祝うだろう、ということを聞いているのです。それなのに、「あなた方は皆、わたしにつまずく」。しかもここで主が引用されている旧約聖書の言葉は、神であるわたしが羊飼いである主イエスを打つ。すると、羊の群れは散らされる、つまり主イエスが十字架に架かることで、羊の群れ、弟子たちはみんな散らされる、離れていくというのです。

 おそらくこの段階でも弟子たちは主イエスの十字架をまだ受けとめていない。現実のこととして受けとめていない。だから、十字架という苦難にキリストが遭う、ということ、しかもそれがキリストがわざわざ旧約聖書を引用しているということでわかるように、神の御意志だ、ということは、まるで受けとめていない。

 すると、弟子の一人ペトロは「たとえ、皆があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と抗弁したのです。ペトロは明らかに人の話の半分しか聞かずに抗弁したという感じです。十字架後のこと、復活のこともガリラヤのこともまるで耳に入らなかったかのように、抗弁するのです。しかもこの抗弁には、他の者が躓いてもわたしは躓かない、という他の者を下げて自分を高くするような発言をしている。このペトロに対する批判は古来山ほどある。平たく言えば自分自慢も強い。

 そのペトロの言葉に対する主イエスは「アーメン」と言って強く応答するのです。よくよく言っておく、まことに汝らに告ぐ、という強い口調です。「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないというだろう。」

 ペトロの言葉は、他の者が躓き、信仰から離反しても、自分は離れない、という自信に満ちた発言でした。それに対する主の言葉は、ペトロの自信を挫く言葉ではなく、ただストレートに予告なのです。あなたはこうする、という予告。私を知らないというだろう、という知らないというのは、否認するという言葉です。キリストをわたしは知らない、関係がない、というのです。鶏が鳴く前というのは、この聖書の時代環境においては、真夜中と夜明けの間の時間でした。今の時間で言う3時前後の時間。つまりペトロがこう話しているわずかあとに、彼はキリストを否認するのです。

 ところがペトロは主の予告の言葉に対して、こう応答するのです。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」これはこれですごい言葉です。

 しかしこのペトロの言葉はある意味片腹痛い発言と言われても仕方のないものでした。そもそもペトロはこの福音書の16章で主イエスがご自分の進まれる受難の歩みを弟子たちに予告されたとき、ペトロは主イエスを脇に連れて行き、諫め始めたのでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と主イエスを諫めたのでした。

ここには大きく二つのペトロの問題があります。

 一つは、この時ペトロは主イエスの受難という歩みそのものがまるで受けとめられていなかった、ということ。ペトロの頭の中には、主が苦しみを受けるということがあり得ないことであり、あってはならないことであって、逆にキリストの考えそのものを自分が糾さなければならないと思ったということでしょう。

 だとすればここで、ご一緒に死なねばならなくなっても、というペトロの言葉は何なのでしょうか。死ぬなどと言うことはありえないと思っていたペトロが一緒に死んでもというのは皮肉以外の何ものでもない、そう受けとめた読者は多かったでしょう。

 もう一つの問題点。それはそもそもペトロは主イエスがなぜここで、予告ということをなさったのか、何も考えていない、ということです。主イエスはここに至るまで、何度もこれからのご自分の歩みについて予告をされておられるのです。今ここではじめて予告されたわけではない。その予告の意味をペトロはほとんど何も考えていない。考えていないということは百歩譲って仕方がないとしても、自分が考えていないのならお尋ねするという姿勢があってしかるべき。主イエスに対して、なぜそのような予告をなさるのか、ペトロは弟子として尋ねるべきではなかったか。それもしていない。そしてペトロの問題点二つに共通するのは、ペトロにはそれが問題だという自覚がない、ということです。ペトロの伝記的な文章を書く多く人がこの時のペトロを直情径行(ちょくじょうけいこう)というのは、こういうところを指して言っているのかもしれません。

 イエス・キリストの予告にはいろいろな意味があると思いますが、一つには、ご自分の意志を伝える、ということがありました。ご自分がこれから歩んでいく道は、人々の罪を負い、その罪の罰を人々に代わって受けて、人々を贖うため十字架という苦難を負っていくのだ、主はそのご自分の意志を予告という形で示されたのです。今日の聖書箇所でキリストが旧約聖書の言葉を引用される。それはキリストのご自身の意志が神の意志でもある、重なり合うのだ、ということ指し示しているのです。わたしは羊飼いを打つ、神が牧者を打つのです。つまり十字架は神のみ心だということです。

 弟子たちはこの予告をいやだとか、あり得ない、という自分の感覚、自分の思いで受けとめていた。ペトロが主イエスを諫めた、というのはまさにそのことの現れです。主イエスの御意志を受けとるのではなく、自分にはわからなくても主の御意志とは何なのか尋ね求めるのでもなく、ただ、主の御意志に自分の思いをぶつけたのです。ここでも同じ。主の十字架予告と復活とその後の予告を受けとめるのではなく、わたしは躓きません。あなたを知らないなどとは申しません、とペトロは自分の思いのたけをぶつけているのだけなのです。

 予告のもう一つの意味は、主イエスと弟子たちの関係性に関わることです。ペトロはこの後、主が予告されたとおり、主イエスにつまづき、キリストを知らないと三度重ねて言うことになっていきます。ペトロが否認したときのことは、その当該聖書箇所で詳しくご一緒に聞きたいと思いますが、わたしたちは今日のこの聖書箇所のペトロの姿をキリストの言葉を記憶しておきたいと思います。

 キリストは弟子たちのために、つまりわたしたちのために、予告をしてくださっているのです。つまりこれから起こっていく受難物語は、偶然が織りなす出来事でもなければ、人々によって織りなされて作られた物語でもない。確かにそこで人間が関与しているし、さまざまな人間が関わりを持っている。けれども根底にあるのはキリストの意志なのです。キリストの思い。そしてそれと重なり合う神の御意志、それが根底に流れている。ペトロも、ユダも、他の弟子たちもみなキリストを裏切っていく。しかしそれが決定的な要因をなして十字架が起こっているのではない、ということです。

そのことをさらに踏み込んで言うと、こういうことです。

 例えばわたしたちはペトロという人物を考える時、ついていきますと言ったけれど、途中で逃げ出したとか、よりによってキリストを否認してしまった、弱い人だとか、脆い人だとか、その人を切り取るようにして評価します。そして否認したけれど、復活したキリストに出会って立ち直った、それ自体すごいことだ、というふうに、その人のことを切り取ってまた評価するのです。しかしその人をそういうふうに評価すること自体がまちがっていないか、とはなかなか思わない。

つまり、確かにペトロは逃げ出し否認した、弱い脆い人、だがその人は単独で存在していたのではない。一人で生きていたのではない。キリストのまなざしの中におかれていた。キリストの意志の中におかれていた。そのまなざしも意思も受けとめることままならず、不安定極まりないけれど、確かにキリストの意志の中に、もっと言えばたしかにキリストの愛の中におかれていた。ペトロの人生にキリストの意志が働いてくださっていると言える。だから、復活後の主イエスに出会ったときもペトロの力で立ち直ったというのではなく、主の力と働き意志の中で新たに歩み始めた。ペトロを活かす力がペトロの人生の中に生きている。そのことをペトロという人物を見る評価軸としているかどうかが、わたしたちの聖書の読み方に深くかかわってくるのです。

相変わらず切り取られたペトロを見てダメだったペトロ、立ち直ったペトロ、というふうに見ているのか。ペトロという人が、どんな力の中に活かされ生き、どんな御意志の中にすでに置かれているか知らされながら、歩んでいるのか。あえて言えば、ペトロは復活の主イエスと出会って立ち直ったというけれど、十字架以前、ペトロはキリストの中にあった。その御意志の中に活かされ、キリストの愛の中にあったのです。今日の聖書箇所のキリストの言葉はキリストの愛ゆえの言葉、キリストの意志の中にあなたはあるという言葉、裏切っても、否認しても、わたしは十字架に架かり、あなたたちを負っていく、という真実の言葉。ペトロはまだそのことがわからない。しかしわたしたちはそのことをこそ受けとめ、自分の人生もペトロがそうであったようにキリストの御意志の中にあり、愛の中にあるものなのだということをしっかりと受けとめていきたいと思うのです。