ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

マタイによる福音書連続講解説教

2024.4.14.復活節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書8章1-17節『 病を癒される主イエス 』

菅原 力牧師

 しばらくの間、教会暦による聖書日課でみ言葉に聞きましたが、今朝からまたマタイによる福音書の講解説教に戻り、マタイ福音書を通して、神のみ言葉に聞いて神を礼拝してまいりたいと思います。

 さて今日の聖書箇所を読んでこられた方の中には、どうしてこんなに長い箇所を一気に読むのか、と思われた方もおられるかもしれません。確かに5章からの山上の説教のときには、場合によっては1節だけ、ということもあっただけに、今日の聖書箇所の区切り方は、長いと思っても不思議ではありません。当然この区切り方に、意味があるのです。もちろん今日の箇所には大きく三つの出来事が記されていますから、それを別々に読むという区切り方もあります。しかし今朝はあえて、この箇所を通して皆さんと共に読み聞きたいと思います。

 5章から始まった山上の説教は7章で終わります。8章1節には「イエスが山を下りられると」とあってここから新しい場面に入ることがわかります。山上の説教でわたしたちが聞いたのは、まさに主イエスの御言葉です。言葉が語られた。これほどのまとまった説教は福音書の中でも屈指のものです。そしてこの8章から、山から下りた主イエスは人々の日常の中で、さまざまな働きをなさる。もちろんそこで主は言葉を語られもするのですが、それは業、働き、行為と重なり合った言葉で、ある意味で山上の説教でみ言葉を語られた主が、行為の主として歩まれる様子が描かれているのです。

 今日の聖書箇所はその最初の出来事が、描かれている場面です。

 最初に一人の重い皮膚病を患っている人が主イエスのもとに来たことが記されています。大きな社会的な差別を受けた病で、隔離されたり、場合によっては社会的に葬られた病でした。その人が主イエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」おそらく、人に近づくことさえ禁止されていたこの人が、主イエスに自分から近づき、主よ、と呼びかけている。そしてひれ伏して、あなたのみ心に適うのであれば、わたしは清くされます、と主への信頼を語るのです。主はその人に手を差し伸べ、その人に触れて、「よろしい、きよくなれ」と言われる。するとたちまち皮膚病は清くなったというのです。

 

 さらに主イエスがカファルナウムに入られると一人の百人隊長がやはり自分から近づいてきて、懇願したのです。百人隊長とはローマの軍隊の隊長です。その人が主イエスのもとに来て、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」というのです。懇願したというのは訳しすぎで、言葉としては「呼びかけた」のです。事実、彼は何も願ってはいない。僕(しもべ)という言葉は、息子とも訳せる言葉で、彼の息子が痙攣症状を起こして、苦しんでいます、と。しかし状況から言えば、ユダヤ人から言って外国人の百人隊長がわざわざ主イエスのもとにやってきて、僕なり息子のことを語ったのは、願いがあったからに他ならないのです。主イエスがその言葉に応えようとすると、百人隊長は、ただ一言、お言葉をください、というのです。彼の言いたいことはよくはわかりませんが、私も軍隊において、その権威のもとに、部下に言葉を語りそれに従う者たちがいます。ましてあなたの権威の中で語られる言葉には、大きな力がありましょう、と言っているのではないか。主イエスは彼の言葉に対する信仰に驚き感心して、これほどの信仰を見たことがない、とまで言われた。そして終末の天の国の話をしたのち、百人隊長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われた。病はそのとき癒されたというのです。

 そして14節以下にはペトロの姑の癒しと、悪霊に取り憑かれた者たちへの言葉による癒しが語られている。

 大きく三つの出来事が記されているのですが、この三つにはいくつかの共通点があります。一つは、言うまでもなくここには病の癒しという主イエスの業が語られているという共通点です。しかし当然のことですが、癒しの状況は、自分から申し出たものもあれば、主イエスの方から癒した場面もあります。主が直接手を差し伸べて、その人に触れて癒した場面もあれば、病気の人とは直接会わずに癒された場面もある。いろいろな違いがある。

 けれど今日の聖書箇所を読んで、さらに大きな共通点もあります。

 それは、主イエスによる癒しを受けた者たちがユダヤ社会の中で、排除されたり、除外されたり、軽視された人々である、ということです。

 「らい病」という病にかかった人はユダヤ社会から排除されていました。日本でも「らい病」の患者に対する隔離政策や、差別は重いものがありました。天刑病と呼ばれて、名前を変えて、家族との関係も断たれて暮らすことを余儀なくされました。

 ユダヤ社会では、それに加えて宗教的な穢れという重荷も背負わされました。百人隊長は異邦人であり、その意味でユダヤ人の視野の外に置かれた人々でした。異邦人が神の恵みを受けるなど、論外でした。

 そしてペトロの姑、女性は弱い立場に置かれた人であり、その後に登場する悪霊に取り憑かれた人々が、社会からはじき出されていた人々であることは、言うまでもないのです。すると、どうなるのか。山上の説教を語り終えて、主が山を下りてきたときに、その主イエスのもとにこうした社会からはじき出された人がやってきた、ということなのでしょうか。16節を見ると「悪霊に取り憑かれたものを大勢連れてきた」とあって、多くの人が主イエスのもとに来たのです。わたしたちはこうした出来事をどう受けとめていけばいいのでしょうか。

 主イエスが癒しの主であったこと、そのための力と権威を持っておられたこと、それは聖書からよく伝わってくることです。と同時に、今日の聖書箇所を読むと、近づいていくことができる方だったということが伝わってくるのです。社会からはじき出されている人、ユダヤの宗教的な社会の中で居場所を持たない人、弱い立場の人、その人たちが近づいて行ける方だった。それはある意味驚くべきことです。誰もがその人を避けて、関わることなく通り過ぎていく人、関係から隔離された人、その人が自分から近づいていく。驚きます。どうしてなのか。そのことをわたしたちは、自分の勝手な想像ではなく、この福音書から思い巡らしてみるということが大事なことなのです。。

 二つのことを申し上げたい。

 一つは、ちょうど一年前になりますが、わたしたちは山上の説教に聞き始めました。その最初の言葉は「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」というものでした。主が群衆に向かって語られた言葉でした。その群衆とは、4章に記されているように「病気や苦しみに悩む者、悪霊に取り憑かれた者、癲癇の者、中風の者など、あらゆる病人」を含む者たちでした。人々からお前は神から見離されたものだ、と烙印を押されてきたものでした。病気だけでなく、そういう社会の烙印においても苦しみ、絶望している者たち、その者たちのことを「心の貧しい者」と呼んでいるということを聞いてきました。あなたたちこそ天の国の住人なんだ、という宣言、それが山上の説教の冒頭の言葉でした。はじき出されて、無資格という烙印を押された者たち、そのものが天の国の住人なんだ、無資格のものが救われる、それが罪人が救われる、ということに他ならない。キリストの説教、み言葉とは、そのような言葉でした。

 このキリストの言葉を聞いた者が、キリストに近づいた、近づいて行けた、というのは、わかるのです。

 もう一つ。それは今日の聖書の箇所の最後にこう書かれている。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」」この方はどのような方だったのか、それは「負う方」だった、「担う方」だったというのです。マタイはこれをイザヤ書53章の言葉を引用して語るのです。患いを負い、病を担う、と言って主イエスがその人の病気になるというのではない。相手の存在を負う、担う、という旧約預言が成就した方だ、というのです。この福音書の編集者マタイがそう言っているのです。これはとても大事なことだと思われます。

 主イエスは山上の説教を語られた。その説教は神の国の福音を宣べ伝えるまことに優れた説教です。しかし主イエスはただ優れた言葉の人というのではない。その言葉を上から語って、自分は義人だと自称している傲慢な人々を裁き、罪人して烙印を押された者たちを裁き、ご自分一人を正しい人として語るものではない。そうではなくて、主イエスは目の前にいる罪人を、目の前にいる自称義人を負って生きる方として、これらのみ言葉を語る方だったのです。キリストのみ言葉は、まさに負う方のみ言葉であり、担う方の説教であった。わたしたちはマタイに即して、そのことをこそ知らなければならない。つまり、わたしたちがキリストの言葉を聞くとき、ただたんにその言葉を理解し、了解して、わかったというようなことではなく、事実、このわたしを十字架にかかるまでに負い、担い、このわたしの罪を我が事として受け、このわたしの死をも我が事として受け、歩んでいかれた方の言葉として、受けとめさせていただく、ということがなければならないのです。この方の言葉と、この方の生きる態度、それこそが人をしてこの人に近づくことができた理由でしょう。不思議にも、それがわかるのです。

 この方こそ救い主イエス・キリストなのです。わたしたちはあらためて、わたしのために、負う方、担う方、であり続けてくださる主をほめたたえ、この方み言葉に、わざに、聞き続けていきたいと思うのです。